江戸城「大奥」スキャンダルの真相ー其の壱①[大奥風紀の乱れ] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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(せい)(ろう)で深入りをする不届きさ


江戸時代、こんな川柳が詠まれています。


人気役者・生島新五郎が蒸籠に隠れ潜み、男子禁制の江戸城大奥へ忍び込んだというから、たしかに不届き千万(せんばん)な話です。


こうして生島は、大奥年寄という実力者の絵島と逢瀬を重ねますが、やがて二人の逢引きは露見します。


結果、絵島が信州高遠(たかとお)、生島は三宅島に流されてしまうのです



江戸城大奥最大のスキャンダルともいわれる「絵島生島事件」です。


このころ、バブルに沸いた元禄時代の名残りで、大奥でも風紀が乱れていました。


当時、七代将軍徳川家継の時代でしたが、将軍はまだ幼く、側用人間部(まなべ)詮房(あきふさ)が政治壟断し、将軍家継の生母月光院(げっこういん)が大奥を掌握していました。


月光院は六代将軍家宣(いえのぶ)の側室ですが、いまだ若き未亡人。


一方、将軍家継は幼少であり、母親の月光院のもとで過ごすことが多くなります。


そうなると、必然、将軍の側用人である間部も、月光院のもとへ通うことになります。


こうして、二人はできてしまったと、『(さん)王外記(のうがいき)に記されています。

幼い家継には、そんな二人が夫婦(将軍と御台所(みだいどころ))のように見えたようです。



(つづく)


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