本当は実力者だった?「信長の不肖のせがれ」(最終回)[太閤検地の先駆け] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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 信雄は、尾張でも父信長の時代の土地制度を一歩進めた改革をおこなっています。


信長の時代、家臣に村単位で知行地として与えるケースが一般的でした。


しかし、そうなると戦国大名が領国全体を支配しにくくなります。


なぜなら、村民にとって、戦国大名か、それとも実際に年貢を納める者(大名の家臣)のどちらが領主なのか曖昧になってくるからです。


そこで信雄は、同じ村を複数の家臣に与えました。


つまり信雄の家臣にとって、尾張国内にコマ切れの領地が散らばることになって、知行地の管理は主君である信雄に任せるしかなくなったのです。


たとえば、小牧長久手の合戦で活躍した吉村氏吉という家臣の場合、本拠地のほか、須脇村(現西尾市)の一部を含めて宛行われた知行地は十四ヶ所に及んでいます。


こうして家臣や領民の統制をとりやすくしたのです。


また、信雄は天正十一年(1583)、尾張を与えられるとすぐさま、検地をおこない、土地の収穫高を把握しています。


検地といえば秀吉がおこなう「太閤検地」が有名ですが、その太閤検地が本格化するのはそれ以降の話です。


信雄が土地政策でいかに先進的な政策を進めていたかがわかります。

 

 信長の“不肖のせがれ”と思われがちな信雄ですが、父信長でさえ成し遂げられなかった政策を実行し、なかなかどうして、辣腕ぶりを発揮していたのです。







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