戦国時代の幕を開けた男の実像(最終回)[永正の錯乱] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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政元は、一門の阿波細川家から澄元を養子に迎え、九条関白家からの養子・澄之(すみゆき)を廃嫡しました。


これが次なる争乱のはじまりとなったのです


澄元は、阿波から守護代の三好(ゆき)(なが)(著名な三好長慶(ながよし)の曽祖父)らを率いて京へ入ったことから、細川本家の家臣内衆(うちしゅう)らの反発を招いてしまいました


結果、永正四年(1507)の六月二十三日、『応仁後記』によりますと、政元が例の愛宕法の修法をおこなおうと、精進潔斎のために湯殿に入ったところ、澄之を擁した内衆らが政元の祐筆をそそのかし、政元を刺殺させたのです。


その後、阿波細川家の澄元とその守護代・之長はいったん近江へ逃れましたが、逆襲に転じて澄之を自害に追いこみます。


この一連の細川家の内訌(ないこう)を「永正の錯乱」といいます。


しかし、ここで内訌は終わりませんでした。


澄元が家督を継ぎ、管領になったものの、もう一人残った養子の高国との抗争がはじまり、中央政局は大混乱するのです。


その混沌(カオス)のなか、三好長慶が台頭し、やがて将軍権力をしのいで下剋上を実現します


しかし、その三好一族の隆盛も、長慶の家臣だった松永久秀に奪われてしまいます


こうみてきますと、怪しい修法にうつつを抜かした政元という権力者の出現が、あちこちに戦国乱世のタネを撒く結果になったといえるでしょう。


(つづく)



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