明応二年(1492)四月二十二日の夜、将軍義稙が河内へ出陣しているさなか、政元ら義澄擁立派は、京に残っていた義稙派の勢力を一掃し、将軍の廃位と義澄の将軍就任が決定的となりました。
ただ、義稙は奉行衆ら将軍直属の兵や諸大名の兵を率いて出陣しています。
すぐに京へとって返したら、政元らの義澄擁立派はひとたまりもなかったでしょう。
しかし、ここで不思議なことが起こります。
義稙だけ残して、奉行衆や大名らが河内から京の義澄のもとへ馳せ参じている様子が公卿の日記などから窺えるのです。
この背景として、政元が陣営に引き入れた富子の影響力があったことが考えられます。
ある意味、義稙はこの女傑によって将軍となり、また女傑によって将軍職を追われたといえるでしょう。
それはともかく、現職の将軍が臣下の者(政元)にその座を追われるのは前代未聞のことです。
その後、新将軍の義澄と政元も対立と和解を繰り返すことになりますが、現将軍追放というクーデター(「明応の政変」と呼ばれます)は下剋上の最たるものといえるでしょう。
こうして応仁の乱後も体裁を保っていた幕府と将軍の権威は一気に崩れ去りました。
また、応仁の乱は、畿内や周辺に争乱のタネを残すことになりましたが、この政元のクーデターはよりワイドに、東国にも波及します。
さて、その東国に下剋上の風潮をもたらした武将というと、まず北条早雲の名が頭に浮かびます。
その風雲の国盗りは、この「明応の政変」なくしては語れません。
(つづく)
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