観た、『ゴジラ』(1984) | Joon's blog

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1984年版の『ゴジラ』を観ました。

 

東都日報の牧は、伊豆諸島の大黒島近くで遭難したとされる八幡丸を発見する。唯一の生存者である奥村によれば、巨大な何かが現れたという。

牧は半信半疑ながらも奥村の話を記事にしようとするが、政府による箝口令のため上司に却下される。奥村が言う巨大生物の正体はゴジラだったのだ。

三田村総理大臣を中心に政府が対策に追われる中、静岡の井浜原子力発電所にゴジラが出現。放射能を吸収する中、ゴジラは渡り鳥の群れと共に海に還って行く。

これを見た生物学者の林田は、ゴジラには帰巣本能があると推測。政府や自衛隊の協力を得て、伊豆大島の三原山の噴火口に落下させる作戦が始まるが……といたお話。

要約すると、東京に現れるゴジラを伊豆大島に追い返そうとする話です。

 

正直、ゴジラシリーズにはあまり魅力を感じないんですが、どういう風の吹き回しか、ちょっと勉強する気になったんですよ。

現時点では、元祖たる1954年の『ゴジラ』と『キングコング対ゴジラ』くらいしか観ていないのでね。

 

今なお、ゴジラシリーズは日本の映画界として欠かせない存在です。公開すれば、それなり以上にヒットするしね。

ハッキリ言ってしまうと、あの程度の特撮による怪獣映画ごときに、どうしてあんなに自衛隊が協力してくれるのかが不思議で仕方なかったんですよ。

が、これは逆説的というか、自衛隊が協力してくれるおかげでリアリティが増すというか、説得力が高まるんですよ。

テレビで毎週やってるような、着ぐるみが暴れるばかりの子供向け番組みたいなものだろうと嘲笑う事なく、いい大人がこの手のドラマをド本気で作ろうとする気概の表れとも言えるでしょう。

何しろ、自衛隊を起用している時点ではある意味、国を動かしてまで作っている事でもあるんですから。

広々としたセットや精細なミニチュア、名が通ったベテラン俳優の芝居、このくらいやってくれれば堂々と映画と呼んでいいし、大人が(少々温かい目を以て)観れる作品にもなっているんです。

デビューしたての沢口靖子さんの初々しすぎる芝居は……ま、まぁ…。

 

本作の直接的な前作である'54年版と比べると、30年の隔たりもあるせいか、情報量が遥かに多くなりました。

もちろんフィクションではあるけど、基本的にゴジラシリーズは“実際にゴジラが現れたら?”という世界観のようで、現実の世界に即したリアリティーに富んだ作風が特徴(のよう)です。

物理学や生物学、内閣府や自衛隊を正確に描写した上で人間ドラマも盛り込まなきゃならないんだから、ゴジラシリーズの脚本って相当な取材を必要とする大変な仕事です。

 

ゴジラ来襲の際には戦術核の使用を推奨するアメリカとソ連の大使に、三田村総理大臣が決断を迫られるシーンは本作の見どころの一つ。

三田村総理は日本の非核三原則に基づき、これを却下します。

「非核三原則が我が国のエゴイズムだと言われるのなら、それは認めざるを得ません。しかし、核を使いたがるのもアメリカとソ連のエゴイズムではないでしょうか」

全編にリアルさが漂う中、こういうセリフはファンタジー風味があるかな(笑)。現実では言いにくい事を豪語させるのも、映画というエンターテインメントの役割です。

今では非核三原則なんて時代錯誤だ!と軽々しく&安易に言っちゃう人が増えていますが、そういう他人事のような発想こそがゴジラの招来を許しちゃうんだよ。

 

大真面目に観れば光るところは多々あるけど、本作はまだ昭和の作品ゆえ、至らないところはそれ以上にあります。

原発の所員が外に出たら急に地割れが発生し、眼前にはゴジラが立っていて……とか、コントにしか見えません(笑)。前作にあった、ゴジラ出現を予期させる地鳴り(の演出)がないんですよね。

まぁ、ゴジラさんもボサーッと生き永らえていたわけでなく、忍び足で歩くというステルス技術を身に着けての復活だったんでしょう。

 

ところで、ゴジラを見送る三田村総理が目をウルウルさせてたのは、どういう心情だったんでしょうね?

恐ろしくありながらも哀しい存在とか何とか色々な解釈もできるんでしょうが、♪グッバイなゴッッィラ、グッバイなゴッッィラ~♪という歌から正解を導けばいいんでしょう…。

 

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ついでだから紹介してみたけど、君の存在はリアリティを欠いてしまうんだよ、スーパーX君…。