観た、『もしドラ』 | Joon's blog

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こないだ放送していた『もし(略)だら』、いわゆる『もしドラ』を観ました。

本作を語る上では、前田敦子という人について言及する事は避けられないでしょう。
この人のどの辺に魅力があるのか分かりませんでしたが、それまではイマイチだと思っていた人であっても、劇中での役柄や芝居に惹かれるものがあればシャアシャアと前言を撤回する俺ッチ。本作を観れば、それまでの印象が覆るかな?と思っていましたが、幸か不幸か何も変わりませんでした(笑)。
この人が動いているところを見るのは初めてに等しいんですが、喜怒哀楽に欠けるというか、ポーカーフェイスという印象が強いんだよね。劇中においても、友達とジャレるシーンとか、どこか冷めているというか、心底より笑ってるように見えませんでした。

原作を読んでいないので正確な事は分からないけど、“ビジネスを持ち込んだライトノベル”という言い回しで合ってるかな? 要は堅苦しくないビジネス書というか。
現役バリバリ、かつ人気絶頂のアイドルとビジネス(を題材にした作品)を結び付けるあたり、一過性の時事ネタ映画でしかない事を想起させますね。
所詮はライトノベル、可愛い女の子が出ていればそれだけでいいという風潮が実写にも及んでしまうとは…。

クライマックスで友達が死んでしまいますが、それでも試合に臨むという展開に、一般的な観客は感動するのでしょう。
が、とある映画監督は、これを“死んだ友達を想って戦うのは精神論。ドラッカーはどうなったんだ?”と斬り、俺ッチもそんな第三者視点に同調できそうだと思いながら観ていたんですが…。
実際に映画を観てみると、ドラッカー作戦(笑)が既に野球部員に浸透していた上で友達の弔い合戦に臨んだのではないか?と解釈する事もできます(実際、キャプテン以外でドラッカーの影響を受けたナインは皆無でしょうが…)。
映画を始め、文芸は個人の感性に評価を委ねるところが大きいから、誰がどう思おうと自由ですが、他人の意見を真に受けてしまうのって虚しいですね。下衆な突っ込みに同調しようとしていた自分が情けないです。

ちなみに、俺ッチが観たTV放送時の尺はCMなしで93分でしたが、実際は125分だそうです。シーンの繋がりがないように思える箇所がやたら多すぎるので、調べてみると、案の定でした。
例えば、主人公のミナミは小学校では野球少女としてブイブイ言わせていたのに、高校では帰宅部になっていたけど、中学時代に何かあったのかな?とかね。
映画界において、例えば脚本家が書いたシナリオを、監督(や現場)の独断で勝手に書き換えてしまい、出来上がったフィルムを観て脚本家が憤激したというエピソードをよく聞きます。
こういう事を鑑みると、TV放送において本編をカットするのって、製作者の意図を踏みにじってるって事に繋がると思うんですよ。
現に俺ッチは本作のTV放送版を観て、やたら端折ってるように感じたし、肝心な事をロクに描かない手抜き映画だと感じました。
…これって、製作者からすれば心外だよね。
TVの視聴者は作品を断片的しか観ていないのに、始終丸々と観た気になり(TVの舞台裏なんか知る由もないのだから当然ですが)、ヘタすれば「○○って人の作品を観たけど、超テキトーな映画だったよ?」とか言われてしまう。
TVにおいてノーカットで放送するのは難しいんだろうけど、もう少し製作者の意志を汲んだ編集をして欲しいですね。