《 長崎原爆が地上起爆であった証拠 》

8月9日当日、長崎上空には飛行機が飛んでいなかったという証言がある。
 

 


私の父方が長崎になります。上に飛行機は飛んでなかったと当時幼い時に言ってはならないと言われましたが、今なら言えるかなと投稿しときます。

当時曽祖父も祖父も戦場で経験しています。親戚達はそのまま長崎にいましたが、何度も言いますが、飛行機は来ませんでした。

このアメリカ軍が撮影した貴重な映像を見て頂きたいと思います。ヤマト。。。海からと聞いてたので上からではなく下から爆破させたのはこれで分かるかと思います。。。


 

長崎には、ウラン型とプルトニウム型の2発が用意されて、ウラン型は不発だった。

 

 

 

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「原子爆弾保管の件」
「長崎より東京に持ち帰りたる不発原子爆弾を速やかにソ連大使館に搬入保管しおかれ……」



B29から投下されて長崎市上空550メートルで炸裂したとされる原子爆弾「ファットマン」が「不発原子爆弾」となるはずはないのだから……。


長崎原爆の爆心地は浦上川だった

 

 


長崎には2発の原爆が用意されていました。ウラン型とプルトニウム型です。ウラン型は不発だった為、爆弾の処分に困りソ連大使館へ移す電文が見つかりました。不発弾は現在も女満別空港に眠っていると聞いています。

広島のウラン爆発軍事応用実験と長崎のプルトニウム爆発はセットです。満潮時の広島の元安川でウラン238を高速中性子で爆発させ、プルトニウム239が生成された川の水を沈殿物ごと回収し、そこに無水硝酸を加えて船で長崎の運び、その硝酸プルトニウム水溶液を煮詰めて二酸化プルトニウムにする。



《 広島原爆が地上起爆であった証拠 》


8月6日、広島原爆が「投下」されたとされる広島市上空を、海軍航空隊少佐 本田稔氏がゼロ戦で飛んでいると飛行機が下からの風圧で吹き飛ばされて舵が効かなくなったという。

 

 


「私は空中から爆弾を落としたとは思っていない。下から爆発、何故何が爆発したのかと思って……、私は空中から爆弾(原爆)を落としたと思ってないんですよ。B29エノラゲイも見ていない……。」


昭和裕仁の信任が厚かった陸軍元帥 畑俊六は広島から逃れて被爆を免れた。

 


「8月6日午前8時に広島に集合せよ」と第2総司令軍畑俊六元帥が、西日本上級指揮官に集合命令を下す。あらかじめ8万人の軍関係者を広島入りさせた上で、前日の5日に大宴会をして、畑元帥はそのまま100キロ離れた福山に逃げた。


詳細はここに。

 

 

 


広島長崎原爆が地上起爆であれば、その作戦命令を出せるのは昭和裕仁以外にはいない。

 

日本人ジュノサイドをした上で、「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っていますが、こういう戦争中である事ですから、広島市民に対しては気の毒であるがやむを得ないことと思っています」などと涼しい顔で語れるのは、偽日本人であるからに他ならない。

 

 

昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」