8月6日、陸軍元帥 畑俊六の命令により九州から大阪迄の司令官達は広島に招集された。

 

 


広島原爆 前日に米国上陸に対する作戦会議と称し、陸軍元帥 畑俊六により九州から大阪 迄の司令官達を秘密裏に広島に招集した。

原爆当日市長 司令官を含め子供達も登校させられ全員爆死している。

招集した 本人陸軍元帥 畑俊六は数百キロ逃げていていた。



8月6日に、夏休みだった小学生の子どもたちが登校日として学校に集められた。
 

 


そのタイミングで、原爆が炸裂。


何故、その時、陸軍元帥 畑俊六は司令官全員を広島に招集したのか?
 

誰の命令を受けていたのか?
 

何故、陸軍元帥 畑俊六は原爆が炸裂することを知って、福山市に逃げて生き延びることができたのか?
 

何故、その時、小学生の子どもたちを学校に集めたのか?


ここに、詳細にまとめられている。

 

 



《 抜粋 》

広島原爆投下時の真相(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
畑俊六は8月6日の原爆投下のことを知っていた!!


この原爆で、第2総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。8月6日朝8時頃に、多数の第2総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。

有末精三は畑俊六元帥のことを書いている。山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥(俊六、第12期、元侍従武官長、支那派遣軍総司令官)に敬意を表し、今夕、仁科博士等の到着を待って調査に着手する旨申告した。将軍は被爆当時日課として朝のお祈りで、神棚に向かっておられたため、幸いに被害はなかったとのことであった。

この日、間違いなく、第2総軍の全員は、8時頃に集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第2総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。ひとり、畑元帥のみが理由はともあれ、この総司令部に行っていないのである。

「山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥」と有末精三は書いている。私は東郷茂徳外相の依頼か、他のヨハンセン(吉田反戦)・グループの依頼を受けた松本俊一次官が原爆投下前のある日、秘かに畑元帥と会談し、8月6日午前8時すぎころの広島に原爆を落とす計画を打ち明けたと思う。

そのときに松本俊一外務次官は、この日の8時過ぎに、第2総軍の全員が集合するようにして欲しいと依頼したとみる。この第2総軍を全滅状態におけば、陸軍の反乱の半分は防げるからである。


学徒を殺し、一般市民を殺し、第2総軍の軍人を殺し、木戸幸一は大井篤の尋問に答えている。陛下や私があの原子爆弾によって得た感じは、待ちに待った終戦断行の好機をここに与えられたと云うのであった。特に皇室や上流階級にも身命の危険が及んで来たからではない。

8月初旬に広島県庁に入った畑元帥は、高野源進広島県知事と中国地方総監を説得した。第2総軍を動員し、8月3日から連日、義勇隊3万人、学徒隊1万5千人を出動させよと命じた。畑はひそかに、高野知事に真相を打ち明けた。高野知事は広島を去った。こうした中で8月6日の朝8時15分を迎えた。第2総軍の軍人たち、義勇隊、学徒隊の多くが死んだのである。

※    ウキペディアには 畑俊六は「昭和20年8月6日の広島市への原子爆弾投下により、国鉄広島駅付近で被爆するも奇跡的に難を逃れた。被爆直後から畑は広島市内で罹災者援護の陣頭指揮を執り、広島警備命令を発令した。その職にて終戦を迎える。」と書いてある。真実を書いていないのではないか?




ウキペディアによると、畑俊六は昭和天皇の信任が厚く、終戦間際の1945年8月14日10時、昭和天皇は御前会議の開催に先立って元帥会議を召集した際にも、本土決戦の不可能を昭和天皇に確信させた、とある。

 


 元帥陸軍大将 畑 俊六
 

1939年(昭和14年)に侍従武官長に就任時も昭和天皇の信任が厚く、「陸相は畑か梅津を選ぶべし」との言葉から侍従武官長をわずか3ヶ月で辞め、同年8月に成立した阿部内閣の陸軍大臣に就任した。天皇は温厚で誠実な俊六を陸相に据えることで、阿部との一中コンビで日独伊三国同盟や支那事変での陸軍の暴走に歯止めを掛けると期待されていたが、膠着状態を脱することはできなかった。なお、陸相在任中に戦陣訓も考案した。

終戦間際の1945年8月14日10時、昭和天皇は御前会議の開催に先立って元帥会議を召集し、畑、杉山元(第一総軍司令官)、永野修身(元軍令部総長)の3元帥より意見を聴取した際、杉山と永野が主戦論を張るなか、畑のみは「担任正面の防御に就ては敵を撃攘し得るといふ確信は遺憾ながらなし」と率直に現状を説明、これが本土決戦の不可能を昭和天皇に確信させることになった。



陸軍を嫌っていた昭和天皇から最も信任を得ていた畑俊六のみが被曝を逃れた。

天皇と畑俊六が示し合わせていたのか? と推測される。

原爆投下か地上起爆かを問わずとも、普通に考えれば、その日に何が起きるのかを知っていたと推測できる。

昭和天皇は、CIAの工作員であったと、米国国立公文書館資料が公開されている。

 

 



米国と通じている昭和裕仁は、本土決戦に拘る陸軍を憎悪していた。陸軍司令官及び陸軍精鋭部隊を皆殺しにすることができた。米国にとっても最高の功労者である。

昭和裕仁の「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っていますが、こういう戦争中である事ですから、広島市民に対しては気の毒であるがやむを得ないことと思っています。」発言の真意はここにある。