今日は、伊丹市へお芝居ワークショップへ出かけます | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

今日は、朝から伊丹市へお芝居ワークショップへ出かけます。

小説と芝居。戯曲の関係は、以下の記事にも書きました。

 

 

その詳細は、上のブログに詳しくは書いています。

が、あくまでも、素人の僕一人の勝手な妄想で言い分ですから、

個人的な戯言だとお思いください。

 

「この戯曲感覚は、見えない観客の存在を常に意識している。

人物たち(=肉体を持つ役者たち)がどう振る舞うか、どう観客へ演技しているか、セリフにもト書きにも、言語化されていないのに、【書かれていない幽体へ挙動】が常に「見えて」書いている感覚です。

 

これ、もちろん、地の文がある小説でも、人物たちに【同じ演技】が、幽体への挙動が求められる、

いや、求めるべきだ、と感じています。」

 

このように、ブログでも書きました。

実際、今、小説を書いているときも、

その見えない【観客(=読み手)の重力】感覚や、登場人物たちの【幽体へ挙動】感覚が、無意識に使えてるんです。

 

そうした総合的な諸々が、

読み手への演出として、前とは段違いに戦略的に考えながら、書いている感覚があります。

 

全くとは言いませんが、前はそういう戦略性が弱く、行き当たりばったりで書いていました。

その原因は、このnoteでも何度も言及している、書き手中心の【自分ファースト感覚】で書き、自分勝手なストーリー展開重視の書き方をしていたためではマイか、と考えております。

 

書く際に、個々の登場人物における諸々の事象(背景・過去)が、主人公以外は蔑ろにされてきた、と今は強く感じ絵う頃ができています。

 

まだまだ、その戯曲感覚や、戯曲講座で体験した発想やスタートの企画構想面も、十分に消化しきれていません。

おいおいと、その感覚を言語化できれば、ここへも書いてゆきたいです。