*久しぶりに、詩の話と、改稿だけど、詩を描いちゃった
今、所属している兵庫県現代詩協会が隔年で出している、「ひょうご現代詩集」の2026版に出す原稿を、
既存の詩集に載せた作品で、お気に入りのやつを2026年ヴァージョンに書き直しをしていた。
それで、どっぷり詩のモードに使っていたので、ブログの更新をすっかり忘れてしまいそうだった。笑
それは、2年か3年前の作品で、詩誌「ココア共和国」に入選したもので、出してから、
ああ、別の「ユリイカ」か「現代詩手帖」に出せばよかったかな、と少し後悔したものだ。
一応、’24年に出した、私家本の第2詩集『さよなら 家康』にも旧ヴァージョンを載せている。
2行削って、1行足しただけだから、新ヴァージョンと世界観は、ほとんど変わらないけど、完成度や、言いたかったことは、
この2026年ヴァージョンの方が優れている。
別に、もうどこにも投稿できないから、ここにアップしてみよう。
この作品の持つ、世界観のノスタルジックな甘さが、すごくお気に入りなので、
よっぽど、シリーズものにして、他にも書こうかと計画している。
ただ書いても仕方がないので、他に、11篇書いて、児童文学の中や小説作品で使おうかな、と思っている。
まあ、まだ未発表なのは、これから創るし、ユリイカなどへ出してもいいか。
でも作風が、近代詩っぽい、抒情詩だから、それらのどこへも通りそうにないと思うんだけど。
*昨日のブログで紹介した『ストーリー世界の作り方』(野村カイリ著)をヒントに、自分の【展開の呪縛】を解く
ところで、また小説創作の話に戻ります。
とにかく、この小説モードを絶やさないようにしないといけない。笑
(詩人モードと、小説家モードは両立できないんですよ。
現在の僕には、デフォルトが詩人モードなので、
小説家モードは一度消えると、再現するのにひと月かかちゃう場合もあるんでね)
もしかしたら、今、第三のモード「戯曲家」が出現しつつあるのかもしれませんが、
小説家と戯曲家は、散文同士だからか、仲良しで、行ったり来たりできそうです。WWW
どうやら、両者が混在することで、長らく渇望していた〈読み手ファースト〉感覚を保持できているみたいです。
以下、うまく説明できる自信がないんですが、
昨日の『ストーリー世界の作り方』の見方をヒントに、エンタメ系と純文学系の、世界観と人物像系へのアプローチがどう違うかが、
書き方として、実感できました。
日記メモには、こう記しています。
今までの僕は、「普通世界/普通じゃない世界」と二極化して、その間のメタモルフォーゼして書くことができなかったんだ。
詩でなら、普通にできるのに。
例えば、異世界転生の悪役令嬢のものなど「なろう系」ライトノベルって、
「普通じゃない(ファンタジー)世界」を描き魔法が存在するけど、文体は「平凡かつ凡庸の極み」で、
人物造形も通俗的で非・複雑怪奇なんだよね。
でも、純文学系は、「ごく普通な(魔法なんて存在しない凡庸)世界」なんだけど、人物描写では凡庸さがすごく嫌われる。
両者の落差を、芸術性うんぬんで論じる以前に、作品世界とそこでの人物造形の距離感が真逆のベクトルなんだ、とよくわかった。
これ、別に、その『ストーリー世界の作り方』にそんなことが書かれていたわけでないことを、ここに注記します。
僕が勝手に、言っているだけ。
転用したのは、A「普通である世界」とB「普通でない世界」との組み合わせが、
a「(世界観が)普通(ステレオタイプ)である人物」とb「(世界観)普通(ステレオタイプ)でない人物」で違うという見方などです。
要は、A bの組み合わせが純文学、B aの組み合わせがエンタメ、ということです。
違う言い方をすれば、現代詩では、言葉の意味が必ずしも普通じゃありません、メタファーを使って、
品物や岩が生命を持つし、人物が非生物に変態するし、個体が液体に変換されます。
それは、文芸用語で言う「異化」表現です。
でも、今までの僕は、純文学を書くときも「普通」に囚われすぎるか、変容だけを描くかの二択だったんですよ。
世界と状況、人物を、さまざまな様態にメタモルフォーゼできなかった。
極論、人物を変容させたら、世界も変容させざるを得なかった。
ファンタジーそのもの、しかも凡庸な幻想になってたんですね。
ダメだ、全然うまく説明できない。
すこぶる感覚的・身体性的な理解なので。
今日はここまでです。
