朝、3時30分に目が覚めた | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

朝、3時30に目が覚めた。

普段、猫のもんちゃんが4時前後に起こしにくるから、珍しいことじゃない。

でも、小説の構想の立て方のアイデアが、無意識くんからのモヤモヤとしたイメージで思い浮かんでしまう。

 

二度寝したら、確実に忘れてしまうだろう。

正確には、忘れただけなら思い出せばいいだけだが、忘れたことすら忘れかねない。

それは最悪だ。

 

で、頭の中を整理して、枕元にある携帯にアイデアを打ち込みながら整理する。

15分ほど打ち込んでいると、ますますアイデアが追加され、脳細胞が賦活化してゆく。

覚悟を決めて、そのまま起きることにする。

もんちゃんも襖の間から手を入れて、ご飯の催促をして来ているしね。

もんちゃん、小説構想の相棒、猫

 

*今回は、どう、小説の構想プロセスと、しっかり向き合えたかの報告

まず、温めている、エンタメ・児童文学系の長編小説の構想を、思いつくままに書く。

なるほど、こう書けばいいか、といろいろと。

同時に、そのアイデアに、今回の戯曲を流用した発想プロセスで得たスキルを導入する。

それは平たく言えば、「登場人物をそれぞれ(役者として)自分自身が演じるつもりで書くこと」だ。

 

こう書くと、何を当たり前なことを、と思うかもしれないが、

これ、知識としての一般論を、頭でっかちなまま感覚で、抽象的に理解しても、実際には、何の役にも立たない。

今は、実感として、身体的な感覚で、脳以外も全身で(変な言い方だけど)体感を思い出して、理解できた(と思う)。

 

たぶん、この体得感覚は、忘れない。

詩を書いたり、絵を、デッサンを描いたりする時の感覚、体感理解の、すぐ横に配置できたから。

 

でも、詳細なプロセスを、ここまでのルートを曖昧な感覚ではなくて、きちんとマニュアル化しよう。

そう思って、例の〈鳥の眼抽象感覚〉で分析しなから、言葉で記録もした。

 

マニュアルと、箇条書きで、言わば、(短文マインドマップ)でベースを作ってみせること。

その《物語のアイデアは背景の、脈絡もない素(もと)だ》

それを採用するか否かは、書き出してから決めればいい。

何せ、アイデアの素であって、ただの組み合わせなんだから。

 

今までは、いきなり採用で組み立てていたから、失敗・破綻するの連続だった。

この構想段階が、まんまマインドマップと同じ作り方だ。

で、朝ごはんも食べずに、あれこれやっていたら、2時間以上になる。

 

集中したから、今回の作品アイデアも、恐ろしいぐらい数の言葉マップが書けた。

(もちろん、同時に、詳細にマニュアル化したものも言語記録した)

 

結局、今まで失敗していたのは、この取材段階プラスマインドマップ的な構想段階で、あと一歩詰めが弱かったからだ、と気づく。

構想の短文メモ自体は、レポートを書くときすら、同様のことをやってきたからね。

でも、役者として演じる時は、情報が書かれてなく文字化されてなくても、

その人物の生活環境や置かれた状況情報を何となく想定して、演じていたからね。

この間の、戯曲講座で、受講生作品の読み合わせの際も、無い場合はそう想定して、声の配役を演じたのだから。

 

それらがないと演じられないのに、今まで、その役者の立場を全く考えて書く姿勢がなかった。

それが、小説作品が失敗する、根本の根本で、欠陥の要因だったんだ。

 

この間の戯曲であれば、植物園の職員の人の体験談を聴き、実際に園内を見学し、

その際は(ちょうど開催されている企画の)食虫植物ごとの説明を聞いてから、構想を練った。

要は、事前取材を綿密上にも綿密に行った上での執筆だったんだから。

 

その失敗原因を考えてみたら、こうだ。

すぐ「ストーリーをどう展開しようか」と考えてしまう。

不思議な物語も無理やり、謎な存在がもういることになって、「どうなる、どう行動して」と考えついて、野放図に広げる、

で、破綻してしまう。

 

その失敗は、表面に出てこない、背景がないからなのに。

背景(因果プロット)無しに無理やり1本の話に繋げるから、破綻する(=自分でも無理筋とわかる)。

ずっと同じ失敗の繰り返しになる。

 

*小説でも、演劇だと思って戯曲的な配慮で書いてみる

で、今回の小説創作は、「これは演劇だ」と自分へ言い聞かせながら、書いてみることにしました。

どういうこと?

 

つまり、小説は戯曲と違って、自由にシーン・舞台を変えられるし、過去時間にも、そのシーンをすぐ途中挿入できる。

その自由さ故に、人物(役者)をおざなりに扱い、ひいては作品物語自体も損なってきたのが、自分の小説作りだったんだ、と、

やっとわかったから、それを変えようと考えました。

 

演劇では、舞台を、そうそう自由に変えられない。

そもそも、舞台装飾さんに作ってもらい、ライティングも誰かを配役する。

天気も何か、時間も何時か、朝か夜か、夕方か、どの程度の規模の町か、表通りか、裏道か……。

役者へのリスペクトと共に、そうした環境も考え合わせて、一緒に演劇は作られる。

作品物語は脚本家一人のものじゃ無い。

役者の他に演出家や舞台装飾など裏方も含めて、みんなで作る総合芸術なんだ。

小説作品も、ある意味、同じはずだ。

 

たまたま、脚本・戯曲を書いている「僕」だけど、同時に、「僕の分身」は、役者、演出家、舞台装飾、照明、音声、音楽などにも、

「分身」配役してみる。

それらの役職にも目配りするべきなのに、僕は物語を展開させるライターだけしかいなかった(間違い)だったんだ、と理解できました。

 

また、今回、異世界設定と同時、物語学的な構造も与えてみました。

戯曲でも、そうしたので。

〈欠落・欠如の回復〉という構造を使ってみることにしました。

でも、今回の小説では、最初、1箇所だけ〈ナラトロジー構造〉を設定に使っただけだったので、色々な人物や出来事に、

もっとこの物語学・ナラトロジー的な役割を割り当てて、〈ナラトロジー構造〉を二重三重に当てはめる実験も、

やっていたいと思っています。

 

とりあえず、8/20前後あたりまで書いてみて、その後、9/3締切に間に合い、かつ収まる分量なら、そのまま下旬も書き継いでみる。

無理だったり、話が210枚では足りないようで300枚ほど必要だったら、3月の講談社児童文学化、設定年齢を高校生に変更して、

おとな向けエンタメ賞へ出すことにします。

 

どうなることやら。