今日は午後から、仕事です。
仕事で使う書類を、せっせと作っていました。
すると、やはり。その作には熱中してしまう。
しみじみと、こういう書く目的がはっきりしている、文章作業系は好きなんだな、としみじみ思う。
だから、指定されたテーマや参考文献を読んでのレポートは、大好きなんだ。と改めて確認する。
やっとこそ、ここで何度か宣言している、集英社オレンジ文庫の『短編小説新人賞アンソロジー』の1編の解析を完了。
もう、国語の授業のように、たとえば芥川龍之介の『羅生門』の国語授業のように解析してみると、その構造がよくわかる。
読み手へどうアプローチしているか、主人公の地の文での、内的独白にどんな意味や役割があるか。
展開エンジンとして動かしている見えない「何か」が、透けて見える気がする。
きっと、そのまま、本をいくら読んで、頭の中だけでストーリー展開で考えるのとは、全然違う見方ができる。
そうそう。これは、国語の授業だと思へばいいのか。
そう思えたら、条件反射的に作業化して、どんどん解析をやってしまう。
そうした能力が、自分の中にはすでにしっかりと根付いていることに気づく。
伊達に、22年間、大学通信の勉強でレポートを幾十、いや幾百と書いてきてはないですから。
慶應通信での、12万字卒論、放送大学大学院での、14万字修論は、伊達ではありませんからね。
その得た国語的な解析に従って、自分の作品の書きたい設定と、構造・構成を擦り合わせてみる。
役割や意味合いは、どうすべきか、どう立ち回ればいいのか、その作品を参照にしてみる。
結果、すごく書けそうな気がする。
ポイントは、いかに読み手に寄り添い続けつつ、物語れるか、だと思う。
最後のシーンだけ言いたいことを言うことを許可すればいいのか。
僕の自分ファーストな書き方が、詩のように最初から声高に喋ろうとするスタイルだから破綻していたのだ。
すぐそば、ここに答えがあったのか。
嬉しいような、皮肉のような。
青い鳥的な能力がもうあったのにね。
チルチルミチルになった気分。
無限ゼロなスタートを止める、詩と同じ書き方でスタートすることと、逆に、詩とは違う書き方、自分の感情(自分勝手な計算勘定でもあるかな)ではなく、
読み手の感情や立場に寄り添いながら、語ること。
それが答えかな。
あと、せっかくだから、この間、受けた京都芸術大学の芸術学舎の講座「2日でできる! マンガ家から学ぶ創作キャラ&イラスト講座」での、
習ったキャラの立て方も転用して、主人公の造形を深めてみようと思う。
まだ、初め3行だけど、なんとなく方向性と事象は浮かんでイメージできている。
書けそうだと思う。
