去年、'23年度は一年間、ほんとに児童文学をメインに取り組んだ年でした。
これは何度か、このブログでも言及しています。
で、最近、本格的に小説を書き始め、さらに色々と小説系の特質を考えてみると、
児童文学って、短歌や俳句と同じ制限文学で、実は小説とは似て非なる部分があり、本質はある意味、別ジャンルなのじゃないかな(当たり前! もともと別ジャンルですから)と思い始めました。
しかも、今の自分には合っていない、無理ジャンルなんだ、と認識しています。
本質的には、もちろん、小説と同じスキルが扱える兄弟ジャンルです。
でも、たぶん、自分の場合、つい自身の幼少年時代を反映させたくなるんですね、一種のトラウマがあるんでしょう。
小説の場合もトラウマを解消したく書きたくなるんですが、モチーフまで限定されない。
ところが、児童文学ではどうしてもモチーフまで影響してくるみたいで、だから、しばらく距離を置こうと考えたわけです。
簡単に見えるのは思い込みだったんだ、とはわかってましたが、それが去年一年の実践で身にしみて、よくわかった、と言う訳です。
その認識を得る。
その為の一年だったんだ。
シンクロニシティ的には、すごく必要な一年だった、気がなぜか強くします。
そして、たぶん、僕の現代詩の書き方が小説ベースであるように、小説のベースに児童文学が反面教師的に財産になった、とも思います。
その存在と経験を感じています。
また、そのシンプルさ故の難しさと読み手ファースト感覚の見本やベースとしても同様に、小説を書く際の見えない財産になっているな、と。
すべては必要な学びになる。
いや、学びに替えてしまう。
それこそが僕の唯一無二の強みか。
ちょうど、ここ2・3年、ほぼ毎年応募して、’21年には詩が三席に入賞した、島崎藤村記念文芸祭の案内が封書で送られて来ました。
今年の応募は、あまり考えていませんでしたが、落選作の児童文学と、詩は応募してもいいかな、と思い直しました。
2日か3日かほどの合間時間にできる筆休めにちょうどいいから。
1部門で、応募料1,000円かかるんですが、前に賞金2万円もらったから、まだまだ黒字です。笑
これは文學界新人賞に取り組んで、たぶん、また行き詰まって悩んでいるだろう7月にでもやろう、と考えています。
さて、深大寺恋物語ですが、一気に書くと20枚ぐらいになりそうな設定を無理に書こうとしている。
また例の悪癖が出て来たので、中断しています。
このまま強行して、もう終わらせてしまうか、どうしようか、迷っています。
なんせ、主敵である中ボス・クラス(いや、ラスボスかな?)なのは次の文學界新人賞なので、この深大寺は悩みすぎて鬱にならない程度にサラッと完成させたい、です。
でも、悩む深さや辛さは、短さに関係ないんですよね。
ほんと非力だ。
やれやれ。