やっとこさ、深大寺恋物語10枚を書き継ぎ始めた。
書き出せば、敵として妨害しまくりの〈いい小説を意識〉が途端に味方になる。
これ、毎回のことなんだけど、大いなる矛盾だ。
いい小説を書きたい、この欲求こそが書き始めの、ほんと最大の敵なんだよね。
この意識があるから、情報を集めたり、分析研究したりで、事前にいい感じになるから、
本当は何よりの味方のはずなんだけど、僕の場合、途中から書くのを邪魔する。
まるで、完全なラスボス化してしまう。
ほんといつものことだ。
すごく抵抗があって、書くこと自体が嫌になってしまう。
1行も書きたくなくなってしまう。
もう駄文しか描けないと感じてしまうからだ。
それでも、書かないと始まらない。
16年間、この繰り返しだった。
でも、最近、この4月ぐらいからは、方向性、仕掛けや〈企み〉、人物環境コミュニティをある程度、事前に練って想定さえしていればよくなっあ。
うん。
「何とかなるんだ」と思えるように、少しだけなってきた。
その思いは、何となく薄くてまだまだ弱いけど、少しだけ自信を持てるようになってきた。
まあ、確かに、想定イメージ無しに突っ込むと、すぐ撃墜される。
いや、飛ぶ方向性が見えないから、飛んでゆけないだけだよね。
でも、想定イメージと方向性さえある程度定まってあれば、書きながら(過去積みしてゆくから)ベターな修正案や足りない情報がちゃんと自分の中から浮かんで出てくる。
問題は一作ごとに違うから、その度ごとなことだ。
毎回、その実感が全然、持てないから、困ってしまう。
いつ書き出せばいいのか抵抗感が強いから見極められないんだよね。
失敗したくない。
駄作を書いて、傷つくのが怖いから。
傷つきたくないんだろうね。
思えば、自分は今、すごく困難な小説を書くミッション課題を、次々とクリアしている。
講談社児童文学新人賞はもちろん、短くとも、ショートショート文芸賞も大変だったし、内田百閒文学賞も同じく大変だった。
それは褒めてやらないといけないし、クリアした自信を持てるようにしないといけない。
小説系は長さに関係なく大変だ。
もちろん、長ければ長いほど大変さが増すのはいうまでもないが。どれも諦める方が簡単だった。1日でも多く、書く作業へ入るのを先延ばししたい。
諦めたいと思っていた。
勝手に出来て、推敲したら完成する詩とは大違い。
どうして、そこまで苦労して小説を書くんだろう、と時々、ふとわからなくなる時さえある。
今のところ、小説はいつも零から虚無からスタートだ。
自分が憧れる短編たちが極めのシーンだけの一舞台で構成された作品なんだとしたら、
50枚作品は、その極めのシーンへ向けて、つなぎの場面や因果プロットを積み重ねていく点が違うだけなのでは、ないんだろうか。
ただそれだけのこと。
理屈では分かるんだけど、全然役立たない。