ふと、振り返りつつ、考える。苫米地英人式のゲシュタルト感覚を経て | 読書と、現代詩・小説創作、物語と猫を愛する人たちへ送る部屋

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小説や詩の創作、猫また大学通信を書いています。Twitterは、atlan(筆名:竹之内稔)@atlan83837218 放送大学在学中。「第8回新しい詩の声」優秀賞を受賞。
 京都芸術大学の通信洋画&文芸コース卒業/慶應義塾大学通信卒業/東洋大通信卒業/放送大大学院の修士全科生修了。

去年の今頃は、リタイヤして、急に時間がたくさんできて、何をしていいやら、戸惑っていました。

去年の、このブログを見返しても、エッセイ教室のこと、絵本テキストを書いていることや、

新規申し込みの児童文学講座のことが書かれてあって、児童文学に力を入れようとしていた、ことがわかる4月でした。

 

来週から、本格的に仕事が始まるので、わずかな期間の自由さですが、

その下準備をしつつ、今の自由時間だからこそできることをしないといけません。

 

さて、少し前から書いている、心理学者の苫米地英人さんの解くゲシュタルト感覚に関する発見が、今の4月の僕にはあります。

キッパリ。

 

ですので、

やりたい目標が今年度は、去年までと違い、日常の雑事に紛れ込まれないようにできると思うのです。

気をつけたいです。

苫米地さんは膨大な書籍を出していて、内容は被りつつも、自分の求める情報が少しずつ違う視点から描かれているので、

自分をしっかり啓発してくれます。

だから、名前じゃなくて、ブックオフ等で安く手に入るものを中心にして、きちんと選別して購入することが必要です。

僕が中でも、秀逸だと思ったのは『苫米地 思考ノート術』です。

 

 

我々が思うノートというものが実は暗記メモ、備忘録に過ぎなくて、本来のノートとは、触発された自分の考えを書くものだ、と主張されています。

こうう書くと、当たり前の自己啓発本ですが、この本はそんな只者ではりません。

こればっかりは浅学な僕の書いたものより、苫米地さんの、この本を読んでもらうしかないのですが、

前記のゲシュタルト感覚を育ててゆくと、どうなるかが書かれてあります。

 

究極、僕のような文学を書く場合も、その時だけでなく、

日常生活においてもゲシュタルト思考しないといけなくなる訳なんですよ。

 

そうなると、ある種の悟りのような、(wwwww。草。笑)、抽象化した高みへ到達してしまいます。

実際、そういった脳の作り方を苫米地さんは描かれています。

特に、『夢がかなう脳』が題名の軽薄さと全く違う哲学性がびっくりでした。

 

 

 

 

で、結果、僕自身も自分の幸せといった小煩悩じゃなくて、もっと他者の幸せに結びつく大煩悩な夢を手にいれることになりました。

元々あった、その方向性のある夢のかけらを集めたら、自然とそういう大煩悩に到達したのですが、すると、その大煩悩はゲシュタルト思考にも良く馴染みます。

 

その夢が何かは、全く実現してない状況では、恥ずかしくて、ここに書けません。

(今、僕の中に数%の細々としたカケラやタネは転がってますが、WWWWWWW。草)

15%くらいでも形になれば、ここで発表します。

 

もし本当に、その夢が実現へ向けて、動き出せば、

この3/23の小川洋子さんの講演会に始まる、今回のシンクロニシティの渦は、’16年に次いで、大きく革新的なものにありそうです。

そうあれば嬉しいです。

 

また、そうなって、見事に実現するように、この’24年度の創作活動が結びつくように、頑張る所存です。

 

「幸運とは、本人の65%以上の日々の努力に、偶然なり運命なりが瞬間的に25%以上のアシストをしてくれる瞬間を言うものだ」

 

と、元来、僕は信じています。

 

実際、’16年は某賞の受賞と、共著の出版、詩を書き始めると言う、おそろしくディープなことが次々に起こりましたが、

全て、そのベースには自分が行動したことがあっての起きた結果でした。

 

以来、夢中で走り続けて、早いもので、もう8年が経つのですね。

創作の成長とは全く関係なく、パワハラ左遷や、大きな決別、ちょっとした出会い、信じた人たちからの裏切り、職場での悪意とパワハラ、猫を飼う、とさまざまな体験をしつつ、

詩集も出すまでになったし、退職したし、実家の消失、父の死去など、多くの変遷を経ました。

 

文学者とは(恥ずかしかったですが、もう完全に自分はそうなのでしょう。どれだけ無名でも)、

全ての不幸も糧にする生き物なんだ、と、自分の「業」を自覚もし、深めることもできました。

 

それこそ、ゲシュタルト感覚に浸ると、自分自身の実人生さえが、客観的に観え、分類して考える境地に到達することになりました。

 

例えば、小説に対しても、確かに、パッと見ると、ストーリーが展開されているように視えるんですが、じゃなかったんですね。

一つ一つの場面や、人物を、その行動を逆ゲシュタルトすると、違うものが「観え」ます。

たとえ、それが錯覚でも、3/23前とは違う感覚が、明らかに、そこにある。

すごく説明しにくい。

 

まるで、「あなたの、詩を書く秘訣・プロセスを端的に教えてください」と聞かれて、

「自分の中にあるモヤモヤを、言葉にしてゆくと、次の言葉を呼んでくれます」とスピリチャル風に答えざるを得ないのと同じように。

 

「小説とは、目標とするモヤモヤ着地点へ向けて、自分の中から、さまざまな角度から人物や事象をゲシュタルト化しつつ引き出す、それらを構成し、因果プロットで時間感覚の元に組み立てる」

もし、前述した詩を書く、自分流のプロセスに合わせた言葉で言うと、今は、そう答えれます。

 

3/23より前は、この定義の「目標とするモヤモヤ」へのアプローチの仕方がわからなかった。

「ゲシュタルト化する意識」が全然使えず、存在が認知できず、ひたすら偶然に頼っていた気がします。

 

ああ、まとめられて、総括できて、すごくスッキリしました。