やっぱり、シンクロニシティの渦の中に立っているみたいです。こんな不思議な夢を見ました | 読書と、現代詩・小説創作、物語と猫を愛する人たちへ送る部屋

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小説や詩の創作、猫また大学通信を書いています。Twitterは、atlan(筆名:竹之内稔)@atlan83837218 放送大学在学中。「第8回新しい詩の声」優秀賞を受賞。
 京都芸術大学の通信洋画&文芸コース卒業/慶應義塾大学通信卒業/東洋大通信卒業/放送大大学院の修士全科生修了。

ここ2・3日、なんとなく感じ取ってはいたんですが、

今、本格的に大きなシンクロニシティの渦の中に、僕は立っているみたいです。

 

今朝、こんな変な夢を見ました。

すごくリアルで、オールカラーな正夢っぽい不思議な夢。

 

*    *   *   *   *

いろいろな人と運動場を横切っていた。

23歳の、卒業直後に亡くなった高校・大学時代の友人と広い運動場を多くの人と歩いていた。

 

友人が真っ先に走って、グランドの縁に辿り着くと、下へ降りた。

僕も途中から走り出して、縁にたどり着き、降りる。

すると、体育館らしき建物に入っていき、階段らしきものを降りる。

 

ようやく友人に追いつくと、二人は多くの人がいるフロアにいた。

そこの主導権を持つ人、なぜか学生課の人と感じる人から注意と課題を出される。

 

課題の内容は知らないまま、じゃあと先へ進むと、学生時代からのモテ男の友人は、「きゃあ、きゃあ」と高校生らしき女子たちから手を振られ、相変わらずのモテ男ぶり。

僕は苦笑しつつ、でも、羨ましくも思わず、二人でしばらく歩いた。

話さなくても、わかり合っている気分。

 

気がつくと、僕だけ京都市バスに乗っている。

 

目の前に座っている30代くらいの若い夫婦が出身大学の教授の話をしている。

それは僕が知ってる名前だったから、「合ってますよ」と教えてあげようとする。

同時に、バスが〈オオタニ大学〉に向かうことを知り、そこから出身大学までどう行ったらいいのか、と経路をアプリで調べる。

(現実の、大谷大学の位置とは違う場所が表示されてました)

 

今度は夫婦には子どもも、急に登場している。

その夫婦に、行き方を教えかけるところで目が覚めた。

 

*    *   *   *   *

 

この夢を見た後、起きてすぐ思い出したのは、今から、40年前ぐらいの、僕の通学制大学生時代のことでした。

 

その友人の京都の下宿に泊めてもらった時、

夜、20歳の、若き日のとき、さまざまな生き方について、天井を見ながら語りあったことです。

 

「生涯、取り組めることが欲しいなあ、全身全霊をかけて、やれることが欲しい。(でも何もない)あったら、全力でやるのに」

 

そんなことを僕は言って、友人から「へえー、芸術家っぽいね。僕の生き方は違うな。僕は今を大事にしたい」と感心されたこと。

 

その誓いを、今、果たしたんだな、と、ふと感じる。

僕には彼とは違う役目・違う個性があったんだ、とも。

 

教えること、模索し、探すこと、学ぶことで、目的を果たしてきたんだ、と、思い浮かぶ。

 

それから、ずっと後で、さらに思いつく。

夢の中でスマホ検索しているとき(そもそも40年前に、スマホはありません。笑)、教授の名前って「オオタニ大学は野球の大谷選手のことか?」と感じてたんだろうか?

 

僕って、詩と小説の二刀流だな、と。笑

(他にも、短歌・川柳も月一回やってますがね。)

 

話は違うけど、昨日、講評会でお会いした、明石市文芸祭の選者の福田知子さん、同じ兵庫県現代詩協会ですが、幹部の理事の方なので、

ただの一般会員である僕には、以前、一方的に会ったことがあるからか、シンパシーを感じたことを思い出す。

また会う予感を感じた。(これは当たり前で、シンクロニシティにもならない)

 

そうそう、明石市文芸祭の会場では、小川洋子さんの講演会の入り口で、旧知の児童文学仲間にも出会いました。

シンクロニシティが起きてる時は、こういう偶然の出会いが多発するんですよ。

 

ところで、話は全く変わって、読みたかった苫米地英人さんの本を母親の見舞い近くのブックオフで、小川洋子さんの本ともども手に入れた。

 

 

 

 

 

 

 

読み進めると、予想通り、僕の詩作のモヤモヤに当たるものをゲシュタルト(抽象)と呼んでいるし、現在の立ち位置をコンフォート・ゾーンという概念で表す言葉とか、いろいろ書かれてあって、

すごく参考になる。

 

これから僕が他人に講義する上で、単なる経験論じゃなくて、一般化する学術的な背景として心理学がそもそも必要な概念だ、と感じる。

それは生徒自身にも、僕自身にも。

一般化する知識として伝授上で。

 

NOTEでも、誰かの詩の書き方に、この苫米地式コーチングという概念があった。

小川洋子といい、本当に今、必要なものを寄越してるんだ、そのシンクロニシティの渦を感じる。

 

また、他にも「葬送のフリーレン」の話と、純文学の、このゲシュタルト的なモヤモヤの関係も思いついちやったんだけど、

長くなるので、それは別の機会に書きます。

 

ちなみに、シンクロニシティとは、ユングが説いた共時性のことで、意味のある偶然です。

どこかスピリチュアル的だけど、僕は実際に何度か、経験しているので、そんな偶然はあると持っています。

別に、超越者や前世からの計画・運命とでも、なんとでも感じたり、解釈できるけど、

信じなくても、偶然があれば、それに乗っかるだけです。

 

合理的な解釈には、必要な情報はいつでも僕らの周りにたくさんあって、それをたまたまその時、自分が立てたアンテナに情報としてひっかかっただけのこと、です。

それを偶然と呼ぶか、運命にするかは、その人の、その後の行動と努力次第、ですから。

ああ、と思って行動しなければ、僕のようにお金をかけて、本を読んだり、通信制大学へ行ったり、オンライン講座を受けたりしなければ、何も起こりません。笑

 

そう、なんです。

行動してこそ、運命も幸運も、自分の手元には引き寄せられはしない。

 

「(成功した)あの人には、才能があったんだ」なんて、行動しなかった、学びに進まなかった、あなたの言い訳ですから。

 

(でも、才能はありますよ。

 最後は才能です。

 でも、その最後の段階まで、進んでから思おうよ。

 

 そして、その天才に教えを請いましょう。

 その人が教えてくれなかったら、勝手に師事して学び、精一杯の敬意を込めて「盗みとり」ましょう。

 死んだ友人に、唯一、自慢できます。

 

 「なあ、君より無駄に40年近く、長く生きた僕は、こんな学ビスト世界観を持って、人生を生きたよ」といつか報告したい、です。

 

 だから、まだ努力します。

 

 ああ、一番、困るのが努力する天才。

 やめて下さい。

 凡人には追いつけないから。笑

 一歩でも、近づく楽しみを奪わないでよ。 

 

 努力するウサギさんって狡い。

 ノロマなカメが追いつけないじゃない?)