夢野久作文学賞「わたしの、いなか、の、じけん賞」へ原稿を、一昨日、送付しました。
原稿用紙4枚だったから、書くのが別の意味で難しかった。
小川未明文学賞も、昨日、レターパックで投函したし、
ほんと、あと残り今月の15日は、三田文学新人賞へかかりきりにならないといけない。
でも、昨日は仕事が半日、サービス残業の日だったし、いろいろと用事もできるので、
そうそうかかりきりにはなれない。
それでも、やるしかない。
この大人向けの小説は、〈企み〉次第だと思っている。
まさに、〈ストーリー展開の呪縛〉と戦いつつ〈企み〉を盛り込む、でもストーリーを結果的には完成させないといけない。
児童文学の〈企み〉とは違うものなんだよね。
現代詩で自然と醸し出される〈企み〉ほど、露骨じゃないし。
コントロールがほんと難しい。
プロ・レベル、つまり商業レベルにあるかどうかは、この〈企み〉意識の有無と、その出来栄えによるものだ、と理解しています。
これ、〈ストーリー展開の呪縛〉と戦ってばかりいるとわからないものですね。
いや、存在そのものがキマイラ的で、妖怪の鵺(ぬえ)ですから、存在を分かってなければ防ぎようも、戦い捕獲もできない。
何よりも、エンタメ系と純文学系では、種類が違うから。
その二種類の〈企み〉は、現代詩の2大派閥、「生活・抒情詩派」と「言語修辞派」との大別と呼応しているようにも、僕は感じます。
僕が両方の詩が書けること、その経験をこの7年間、積んだ経験値は、きっと役立つはず。
そう信じています。
三田文学新人賞に過去、応募した4回とも、この〈企み〉がほとんどなかった、と今なら断言できます。
お話にならない低レベルでした。
どうせ、12月の太宰治賞の予行練習であり、3月のすばる文学賞、文藝賞、新潮新人賞のプレ・練習に過ぎません。
いや、それら全て、今年度の執筆自体がエチュード・試作です。
さて、思い切り、現代詩っぽい実験作から入らないと〈ストーリー展開の呪縛〉から、逃れられないでしょうね。