夢野久作文学賞「わたしの、いなか、の、じけん賞」へ送付しました。鵺(ぬえ)と戦う小説創作 | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

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文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

夢野久作文学賞「わたしの、いなか、の、じけん賞」へ原稿を、一昨日、送付しました。

原稿用紙4枚だったから、書くのが別の意味で難しかった。

 

小川未明文学賞も、昨日、レターパックで投函したし、

ほんと、あと残り今月の15日は、三田文学新人賞へかかりきりにならないといけない。

でも、昨日は仕事が半日、サービス残業の日だったし、いろいろと用事もできるので、

そうそうかかりきりにはなれない。

 

それでも、やるしかない。

この大人向けの小説は、〈企み〉次第だと思っている。

まさに、〈ストーリー展開の呪縛〉と戦いつつ〈企み〉を盛り込む、でもストーリーを結果的には完成させないといけない。

 

児童文学の〈企み〉とは違うものなんだよね。

現代詩で自然と醸し出される〈企み〉ほど、露骨じゃないし。

コントロールがほんと難しい。

 

プロ・レベル、つまり商業レベルにあるかどうかは、この〈企み〉意識の有無と、その出来栄えによるものだ、と理解しています。

これ、〈ストーリー展開の呪縛〉と戦ってばかりいるとわからないものですね。

いや、存在そのものがキマイラ的で、妖怪の鵺(ぬえ)ですから、存在を分かってなければ防ぎようも、戦い捕獲もできない。

 

何よりも、エンタメ系と純文学系では、種類が違うから。

その二種類の〈企み〉は、現代詩の2大派閥、「生活・抒情詩派」と「言語修辞派」との大別と呼応しているようにも、僕は感じます。

僕が両方の詩が書けること、その経験をこの7年間、積んだ経験値は、きっと役立つはず。

そう信じています。

 

三田文学新人賞に過去、応募した4回とも、この〈企み〉がほとんどなかった、と今なら断言できます。

お話にならない低レベルでした。

 

どうせ、12月の太宰治賞の予行練習であり、3月のすばる文学賞、文藝賞、新潮新人賞のプレ・練習に過ぎません。

いや、それら全て、今年度の執筆自体がエチュード・試作です。

 

さて、思い切り、現代詩っぽい実験作から入らないと〈ストーリー展開の呪縛〉から、逃れられないでしょうね。