昨日、詩誌「ココア共和国」への、今月分の詩を提出した。
いつもは、もっと月末に、どこぞの落選作をバタバタと改稿して提出するんですが、今回は純粋に新作を送ってしまう。
送ってから、結構、いい出来だったから、「しまった。ユリイカへ一度、出してからにすべきか」と思ったが、もうどうにもならない。笑
ともかく、詩を書くことは、できるだけ避けたいし、小説モードに入ってしまうと、書けないんですよ。
ここ2・3日、書いているように、演劇と戯曲について、ずっと深く考察を重ねている。
今まで、戯曲や台本については、色々と勉強・研究してきた経験はあっても、そこに「演技・演出」も含めた「演劇」については、深く考えてこなかった。
昨日も書いたように、劇自体は見たことも長くあったのに、それはストーリーだったり、役者だったり、個別に独立していて、
表現として、小説や詩へ波及してこなかった。。
昔、10年以上前に読んだ平田オリザの『演技と演出』を読み直してみると、すでに色ペンでラインを引いた箇所と違う箇所に目が行く。
例えば、
「『イメージの共有しやすいものから入っていってイメージの共有のしにくいもの(=人間の心)へたどり着く』ように、作品を構成します」
というのは、もともと線を引いてあるし、真理をついている言葉だが、
そこよりも、
「演劇は、現実に近ければリアルになるとは限らない。観客とのイメージの共有ができた時に、初めてリアルな世界が、観客の脳の中に立ち上がってくるのです」とか、
「イメージだけ先行しても、それがあまりに現実と乖離していては、観客とのイメージの共有自体ができません」の方が、
今の僕にはグッときました。
これって、詩においての、言語修辞の複雑さと、平易な言葉の両方について、言っていると言っても過言ではない。
どちらか一方では、僕は満足できないから、常に揺れ動いていたんですが、
それって、文字通り、前記の、「共有しやすいもの」と「共有しにくいもの」を両方表現する構成にすべきなんですね。
うまく書けたな、という詩は、ちょうど、前期の、その「ココア共和国」の今月分も含めて、そういう箇所があるな、と自分の中で、法則化、通り道化できました。
僕の場合、こうして理屈で納得(=感覚化)できないと、自分の物にできません。
こんな風に、小説の力を高めようと努力していることが、詩に役立ったり、
詩の力を高めようとしたことが、小説力に繋がったり、
苦しんだ分だけ、表現力はジャンルを超え、連携・リンクしてゆきます。
「見えないもの」を言葉というツールで表現する根源部分では、詩も小説も変わらないからでしょうね。
でも、実際的には、両者のモードはかなり違います。
300枚、200枚の小説は、作品世界にどっぷり浸かりきらないと、駄作とわかっていても書けません。
現実と折り合いをつけながら、詩のモードとは、まるで違います。