今月分の「ココア共和国」へ詩を送る | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

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文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

昨日、詩誌「ココア共和国」への、今月分の詩を提出した。

いつもは、もっと月末に、どこぞの落選作をバタバタと改稿して提出するんですが、今回は純粋に新作を送ってしまう。

送ってから、結構、いい出来だったから、「しまった。ユリイカへ一度、出してからにすべきか」と思ったが、もうどうにもならない。笑

ともかく、詩を書くことは、できるだけ避けたいし、小説モードに入ってしまうと、書けないんですよ。

 

ここ2・3日、書いているように、演劇と戯曲について、ずっと深く考察を重ねている。

今まで、戯曲や台本については、色々と勉強・研究してきた経験はあっても、そこに「演技・演出」も含めた「演劇」については、深く考えてこなかった。

昨日も書いたように、劇自体は見たことも長くあったのに、それはストーリーだったり、役者だったり、個別に独立していて、

表現として、小説や詩へ波及してこなかった。。

 

昔、10年以上前に読んだ平田オリザの『演技と演出』を読み直してみると、すでに色ペンでラインを引いた箇所と違う箇所に目が行く。

 

例えば、

「『イメージの共有しやすいものから入っていってイメージの共有のしにくいもの(=人間の心)へたどり着く』ように、作品を構成します」

というのは、もともと線を引いてあるし、真理をついている言葉だが、

 

そこよりも、

「演劇は、現実に近ければリアルになるとは限らない。観客とのイメージの共有ができた時に、初めてリアルな世界が、観客の脳の中に立ち上がってくるのです」とか、

「イメージだけ先行しても、それがあまりに現実と乖離していては、観客とのイメージの共有自体ができません」の方が、

今の僕にはグッときました。

 

これって、詩においての、言語修辞の複雑さと、平易な言葉の両方について、言っていると言っても過言ではない。

どちらか一方では、僕は満足できないから、常に揺れ動いていたんですが、

それって、文字通り、前記の、「共有しやすいもの」と「共有しにくいもの」を両方表現する構成にすべきなんですね。

 

うまく書けたな、という詩は、ちょうど、前期の、その「ココア共和国」の今月分も含めて、そういう箇所があるな、と自分の中で、法則化、通り道化できました。

僕の場合、こうして理屈で納得(=感覚化)できないと、自分の物にできません。

 

こんな風に、小説の力を高めようと努力していることが、詩に役立ったり、

詩の力を高めようとしたことが、小説力に繋がったり、

苦しんだ分だけ、表現力はジャンルを超え、連携・リンクしてゆきます。

 

「見えないもの」を言葉というツールで表現する根源部分では、詩も小説も変わらないからでしょうね。

でも、実際的には、両者のモードはかなり違います。

300枚、200枚の小説は、作品世界にどっぷり浸かりきらないと、駄作とわかっていても書けません。

現実と折り合いをつけながら、詩のモードとは、まるで違います。