さて、昨日、書いたように、
自分の書きたい主人公の感情を大事にしつつ、
叙景する。
自分の書きたい感情との距離感を少し取って、シーンを描く。
そのことで、書いてない気持ち・感情を、読み手へと届ける意識を持ち、散文を書く。
こう書くと、分かってそうですが、
僕は身体性としての実感を、今までは、分かってませんでした。
どうあがいても、出来ない。
皆目、待てなかったのです。
分かってないことは、前から分かってたんです。
知識としては、その有効性は知っていても、意識的な使える領域にはない。
かといって、たまさか、詩においては偶然、書けるだけで、散文においては全く使えず、無意識に使える領域にはほど遠い。
じゃあ、どうすればいいの?
ずっと、悶々と苦しみ続けてました。
その感覚、どうすればの部分が、ようやく、なんとなく感覚的に分かりかけた気がしています。
ほんと微妙な、秋の蚊のように微妙な羽音ほどの、でも気になると、ずっと耳に残って、すごく気に触るような、そんな微妙な感覚にスイッチする。
僕にとっては、そんな解答でした。
とりあえず、新規で物語を書くと、また、ストーリー展開の呪縛に囚われてしまうので、
この間、書き直した90枚ほどの児童文学作品を、さらに「書かない事で、伝える書き方」で、もう一度、書き直してみることにしました。
ちょうど、升井先生に出す〆切がもう間近ですし。
不思議です。
この間、10月下旬に改稿したときには、もう余り書き直すところはないな、
と思った作品なのに、余分なところ、足りないところが見えます。
そのまま、本当に、それを掴みとりたい、です。