さて、さて | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

さて、昨日、書いたように、

自分の書きたい主人公の感情を大事にしつつ、

叙景する。


自分の書きたい感情との距離感を少し取って、シーンを描く。

そのことで、書いてない気持ち・感情を、読み手へと届ける意識を持ち、散文を書く。


こう書くと、分かってそうですが、

僕は身体性としての実感を、今までは、分かってませんでした。

どうあがいても、出来ない。

皆目、待てなかったのです。


分かってないことは、前から分かってたんです。

知識としては、その有効性は知っていても、意識的な使える領域にはない。

かといって、たまさか、詩においては偶然、書けるだけで、散文においては全く使えず、無意識に使える領域にはほど遠い。


じゃあ、どうすればいいの?

ずっと、悶々と苦しみ続けてました。


その感覚、どうすればの部分が、ようやく、なんとなく感覚的に分かりかけた気がしています。

ほんと微妙な、秋の蚊のように微妙な羽音ほどの、でも気になると、ずっと耳に残って、すごく気に触るような、そんな微妙な感覚にスイッチする。

僕にとっては、そんな解答でした。


とりあえず、新規で物語を書くと、また、ストーリー展開の呪縛に囚われてしまうので、

この間、書き直した90枚ほどの児童文学作品を、さらに「書かない事で、伝える書き方」で、もう一度、書き直してみることにしました。

ちょうど、升井先生に出す〆切がもう間近ですし。


不思議です。

この間、10月下旬に改稿したときには、もう余り書き直すところはないな、

と思った作品なのに、余分なところ、足りないところが見えます。


そのまま、本当に、それを掴みとりたい、です。