スポーツを長くやっていれば、誰もが知っていること。
上達は、なだらかな漸近線を描くのではなくて、
階段状で、いきなり、その日はやってくる。
もちろん、その日を呼び起こすには、努力せずに、ボカンと口を開けて雛鳥のように待っていてはダメで、
積極的に答えを探しにいかないといけない。
今、あらゆるチャンネルが自分のもとへ集まってきている気がしています。
一段、昇るチャンスだと思っています。
「現代詩手帖」分への新規やり方で作成した詩篇はもう投函済みです。
「ユリイカ」分への同やり方詩篇は、一度、教室で先生の講評を受けてからの投稿にします。
作品自体は完成したんですが、
「現代詩手帖」分よりは、極端に偏った傾向をわざと入れてバランスを敢えて崩してみました。
ちょうど、岡野大嗣さんの短歌教室の第二クールを、この14日土曜日に受講しましたが、
その際、第一クールと同じ兼題「よく見知った場所で、心を動かしたものを短歌にしましょう」を出された意図を、岡野さんはこう仰いました。
「 よく見知った物や場所を、新しく心動かそうとすると、よく観察しなければならなくなる。」
そうなんですよね。
幸せの青い鳥は、どこか秘密の異界にいるものではなくて、
現実のこの場にいるんですよ。
我々が見ようとしてないだけで。
僕が、この2.3日、凄くわかったと興奮している創作上の知見・奥義も、
実は既存の知識でした。
ひと言で言うと、
「自分が描こうとしている詩が、叙景詩なのか、抒情詩なのか、しっかりと認識する」
たったこれだけです。
でも、ここに100万言の真理があります。
少なくとも、今までの僕自身は、ここ感覚が欠落してました。
たまたま、そこから解脱した作品が書けてただけです。
感情に溺れて、そこに、つまり、抒情詩こだわっている限り、読み手ファーストにはならない。
今は、それを身に染み入るように、納得しています。
ニ作品、詩篇を書き上げましたから。
まだまだ、無意識領域へは達しておりません。
でも、思えば、
僕が「いい詩って、自分にも書けるんだ」と実感した、こうべ市民文芸の二席へ入賞した作品が、
抒情詩のようで、実はシーンを描いた叙景詩でした。
詩情、ポエジーって、文字通り、感情です。
でも、それって、生の言葉、感情を表わす言葉を並べても、
決して、作品に生まれるものではないんですね。
知識は、頭で理解しているだけでは役立たないんですね。
知識が、実感になり、それが身体レベルで無意識に駆使できるようになり、
初めて本物になります。
違う言い方をしたら、自分の感情との距離感が取れるようになって、
そこから、読み手の感情へと手が届く感じがわかった、と言うことでしょうか。
これって、不完全な言葉の、ニュアンスが伝えられない書き言葉では、
これ以上、僕には説明できません。
もしかしたら、子規や虚子の言う、【写生】や【客観写生】に近いかもしれません。
また、新古今集でいうところの、俊成や定家の、【余情(幽玄)】や【有心】にもつながるかもしれません。
はたまた、世阿弥の『花伝書』の「秘すれば花」にも通じるかも、なんてまで思いました。
ああ、だてに、16年間、文系学部の大学・大学院を卒業・修了してなかったな、と、
その一端にもつながる感覚を得れて、よかったな、としみじみ思いました。
そして、ふと、この感覚って確実に、散文を書くときにも、
何かしら役立つな、と感じました。
どう転用できるかは、それこそ、どう実感できるか次第ですが。
ちょうど、この1週間、升井先生の児童文学講座の提出課題向けの、小説に専念します。
なんとか「実感」のレベルに達したいです。