昨日、一昨日と完全休日だった。
でも、創作して完成出来て、今日投函できるものといえば、美濃加茂市文芸祭向けの短歌2首と、詩1篇。
あと、某地方新聞向け短歌2首。
それと、今日の小説教室の、課題400字1枚。
非常に微々たるもの。
でも、去年、3席入賞だった島崎藤村記念文芸祭向けの詩篇1つは、完成しましたし、
『虚構推理』の城平京さんの作品は何冊も読み終えました。
お陰で、城平さんの文体、書き方がよく分かりました。
伏線を忙しく回収しながら、ミスリード的な推理をばら撒き、その幻惑を自ら壊しながら、
気がつけば、驚きの中で真相に辿り着かせ、新たな一面を読み手に発見させる。
正に、初めと終わりを見据えた書き方。
段落パラグラフごとに、その原因と結果プロットの螺旋階段が続いて行くような組み立ては、大いに参考になりました。
単なる感想文と、読み手を意識した文との差、落差の大きさを、
大いに体感できた、と思っています。
小説とは、単に地の文と、会話文があるのじゃない。
情報を伝え、読み手にイメージさせるための描写文と、事象を切り従えるための論理文、
そして、それぞれのキャラクターの関係性を伝え、読み手にイメージさせる会話情報や分析文があるんだ、と納得させてくれました。
〈論理の始めと終わり〉のバトンを、段落ごとに幾つも幾つも繋いでいく。
その中での発見と驚き、明かされるズレと真相。
ちょうど昨日、観たドラマ『元彼の遺言状』で、綾瀬はるかさん演じる弁護士・探偵の剣持麗子が一つ一つ事実を積み重ねて、
読み手に、真相を気づかせるみたいに。
これが物語なんだな、と深く感じることができました。
表面的な地の文か、会話文か、じゃなくて。
つい、人物の心情の深掘りや追体験ばかりに気を取られていては、
この読み手ファーストの展開を、見誤ってしまう。
いや、現に見誤っているのが今の僕なんだな、深く感じ入りました。
ちょうど、小説教室の課題をやりながら、そして、幾つもの詩篇を書き換えながら、
その書き方を自分の中に、落とし込んでいました。(これって、元々、理屈っぽい僕には、ピッタリな書き方ですよね。)
無駄な2日間じゃなかった。
そう思いたい。
