改めて思う。俳句と短歌の凄さと第二芸術論 | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

もしかしたら、俳句を普段、作られている方でも知らない人が多いだろう。

評論家でフランス文学者の桑原武夫が、投稿句と大家(高浜虚子を含む)の句を混ぜて、提示して、どれが俳人の巨匠の句が全然区別ができない。

それはプロと素人の差がないことで、つまり真の芸術ではないからだ、として「第二芸術」と呼称したことの事件である。

 

これにまだ存命中だった虚子は公に反論しなかった。

(虚子の曾孫である坊城俊樹氏は、「第十四芸術かと思えば、第二だったか」とユーモラスに軽く聞き流したとあるが)

虚子という人は、七歳上で自分の師匠格である正岡子規を「子規」と呼び捨てにして「子規先生」とは呼ばなかったらしくて、

色々と問題のある人だという説もある。

 

ただ、桑原武夫は悪戯に俳句を貶めるために、このことを言い出したのではなく、小説を含めて、文学全体のことを以下のように思ってのことだという。

「俳句のごとき誰にも安易に生産されるジャンルが有力に存在したことも大な理由である。芸術は自分たちにも楽にできる。ただ条件がよかったために作句に身を入れたものが大家といわれているので、自分たちも芸術家になり得た筈だ、芸術はひまと器用さの問題だ。このように考えられるところに正しい芸術の尊重はあり得ず、また偉大な芸術は決して生まれない」

 

俳句界では、桑原武夫がこれを発表した昭和21年当時も、今も、誰が「師」かを問題にして、それで優劣が決まるような結社が幅をきかせ、学閥のようになっているらしい。

文学ではなく、お稽古ごとのようになっていることへの、批判もあったらしい。

 

今、ここでなぜ、これを書いたのか、というと、

俳句を貶めたいのではなく、テレビで毎週、俳句と短歌の番組がNHKでやってることに、

それを短詩だと思えば、すごいことだなあ、と思うからです。

 

現代詩の、蛸壺に入って、限られた人間しか作らない現状との落差が大きすぎて、

それを、どちら側からも交流がなく、当たり前のようになっているのが不思議です。

たぶん、僕は俳句の季語感覚の、素晴らしさは認めるものの、結社とかには属さないままだと思いますから。