笑。
引き続き、小説とは何かを考えてます。
目当ての技法書やら、小説本やらを読みながら考えてます。
同時に、なるほどと感心したことを元にして、
その考えなら、こんな小説もありか、と気づいたことをネタ帳にメモします。
いつか作品化しようとします、
さらに、今、書くつもりでいる文學界新人賞 向け原稿に、
ダイレクトに取り入れたり、参考にできるものがアンテナに引っかかる場合も書き込みます。
例えば、この間、ここでも紹介した千野帽子さんの新書からは、
僕が普段から考えていた、
人間にとっての物語とは何か、因果関係プロットと思考の関係を解きほぐす大きなヒントをもらいました。
他の人は、何の疑問もなく、物語を紡いで行けるのでしょうか。
僕は上達したらしたほど疑問が深まります。
会話と描写があって、登場人物がいて、起承転結があったら、小説だ!
なんて、到底、思えません。
まして、僕は現代詩を書きます。
暗号化されつつ、近代詩派?の人からは徹底的に忌避される現代詩は何でもありの世界ですから。
現代詩詩人で、小説家に転じて、優れた小説を書く人もいるし、
その陰には、恐らくは小説を書こうとしても、成功しなかった詩人もあまた、雲霞の如くいたはず。
じやあ、両者の違いは何?
どこに差があったの?
プロの小説家で、小説を書けるようになってから、詩が、特に現代詩をかくようになったよ、と言う人を僕は知りません。
( いれば、ぜひご紹介ください。)
詩は一瞬のダンスで、散文は歩行だとよく言われます。
じやあ、ダンスは踊れるのに、歩行して、筋道立てた物語を書けないのは、どうしてなんでしょう?
ダンスの方が難しいですからね。
そして、純文学と、エンタテインメント系小説との書き方の違いは何?
答えを用意しているのがエンタテインメント系で、
答えを書きながら探るのが純文学系だと理解していますが、
本当に、それだけなのかな?
小さな頃、どうして? どうして? と聞いて回っていた、いわゆる《どちて坊や》だったらしい僕には疑問は尽きません。
他人は、疑問に思わないし、
その疑問を口にするとダメなんだと気づいたのが、
読書を始め、本好きになるスタートだったのだと、
朧気ながらも記憶を探れます。
多くの先人が自分なりに答えを見つけ、かつ、さらに求め続けた道を、
僕は歩いていきます。
歩き続けます。