書き上げていた、国民文化祭2019にいがたへ出す良寛モチーフのものと、
今月出す雑誌『ユリイカ』分の作品の計二篇をブラッシュアップしてました。
前者は入選レベルが皆目分からないし、
後者も、毎度、落選なので、今回もかな、と思っています。
特に、後者は二年前に、雑誌『現代詩手帖』に出して、
全然ダメだった作品を全面改稿しました。
今の目から見ると、
これ、また、酷い低レベルの作品で、
「よく、臆面もなく、こんなの出したなあ」と、
その蛮勇ぶりに逆に感心しました。
うーん、その詩の作品世界が持つルールを構築して統一的に読み手へ訴えるべきところを、
言葉を完全に支離滅裂に書き殴ってるだけ、
としか感じられません。
今は、そういう視点で詩を読み解くことが出来ます。
詩も、小説(の各章)も、読み手に何を訴えたいのか、
そこが明確でないと、
結局は、選考者から、まともに勝負してもらえない。
そんな風に、最近は考えています。
特に小説について言えば、
100枚や200枚になると、全体を書き上げることに汲々となりがちなんですが、
「神は細部に宿る」の文言のように、
原稿用紙10枚前後になる各章段階での、斬れ味が必須なのではないか、と感じています。
いつも、ご教授頂いている小説教室の某先生からも、
僕を含めた受講生作品を、
「ここは苦手で嫌々書いてますね」とか、即座に指摘されます。
「ここは楽しいやり取りで、面白いですね」と、我々のポンコツ作品も細かく丁寧に読み込んた上での、
ご指摘の数々は聞くだけで勉強になります。
遠く、東京方面や四国、長崎あたりから毎回、参加する熱心な受講生がいるのも、
頷ける話です。
とにかく、半歩でも毎日、作品を、向き合うことしか、上達の道はありません。