その気持ちに嘘は全く無い。
だからこそ、どう書こうか、悩む。
悩むと書けなくなる。
当たり前だけど、書かないと、決して作品はできない。
この悪循環を、ずっと繰り返しているように思う。
じやあ、何も考えずに、作品を書いてればいいんだけど、
性格的に分析癖があるので、
「考えない」ことは出来ない。
「考えた」からこそ、書く力がついたお陰もある。
特に、短い作品なら、悩まずに勢いで書ける。
詩も同じかな。
けど長い作品は、構成とかを「考えず」には書けないからね。
「考える」ことからは、逃げられない。
こんなとき、バドミントンや絵画創作に、
僕はズラして考えてみる。
バドミントンは、奥の深い競技だ。
特にダブルスは。
若くて筋力もあり、敏捷性がある人が有利なのは変わらないけど、
じゃあ、それだけで勝てるかと言うと、
全然勝てない。
僕のようなお腹の出た中年太りのオジサンに、イケメン20代が振り回されたり、
間違ったグリップの握りで、最小限の動きしかしようとしない、家庭婦人のママさんプレーヤーが意外に手強かったりする。
それぞれのやり方、
それぞれのバドミントン。
それぞれの哲学がある。
僕はいつも正攻法で挑んでいる。
汎用性のある普遍的な打ち方・ラケットワーク、「正しい」フットワーク、ステップワークにこだわって、
自分の中に、それらを常に再構築して更新しながら打ってきた。
「上手くなる」ことで、結果的に強くなって来た。
途中、何度も絶望して、
もうバドミントンは辞めよう。
「才能」ないし、オジサンだし、
これ以上上手くならないしね、と諦めたはずなのに、
気がつくと、また「正しさ」を探してここまで来た。
何十年も掛けて。
「なあんだ。そうか」
小説創作の方法も、同じか。
苦しむこと、悩むこと、
その中で、自分流を構築する方法しか、不器用な僕には、出来ないんだな。
ただ、もう僕には時間が残されていない。
小説は書くのに、時間が掛かるからね。
バドミントンなら、3か月必死でやったら、かなり上手くなるんだけど、
小説なら頑張って、長編一つだ。