セオリーが好きだ | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

僕は、セオリー、基本となる理論が好きだ。
けど、全てが理屈通りに行く訳もなく、身体が理屈通りに動く訳もない。

そこに、昨日も書いた感覚的な気づき・発見が、プラス必要になる。
結果的に、理屈っぽいのに感覚的な僕という人間ができる。

昔から、何事も不器用な人間だったから、いつも要領が悪い鈍臭い奴だったんだ。
そのせいで、セオリーが好きなのかも知れない。

さて、あるところで、
芥川龍之介の「羅生門」の朗読を聴く機会があった。
僕は、2016年3月に卒業した東洋大学の通信教育課程では、
芥川龍之介を卒論に選んだ。

嫌、というほど読み込んだ初期芥川作品なのに、
耳と目で改めて捉え直すと、
昨日の「公募ガイド」じゃないけど、
その描写力のうまさ、面白さに感心させられる。
と同時に、
芥川の文章感覚が自分の感覚に憑依してきた。

ああ、この感覚で書いてみようか、とも思った。
筋ではなく、この目、この耳、この皮膚感覚で。

芥川が感じている世界と、自分が描きだそうとする世界との、
なんと落差が大きいのだろう。
金魚掬いと、鰹の一本釣りぐらいの差がありそうだ。