けど、全てが理屈通りに行く訳もなく、身体が理屈通りに動く訳もない。
そこに、昨日も書いた感覚的な気づき・発見が、プラス必要になる。
結果的に、理屈っぽいのに感覚的な僕という人間ができる。
昔から、何事も不器用な人間だったから、いつも要領が悪い鈍臭い奴だったんだ。
そのせいで、セオリーが好きなのかも知れない。
さて、あるところで、
芥川龍之介の「羅生門」の朗読を聴く機会があった。
僕は、2016年3月に卒業した東洋大学の通信教育課程では、
芥川龍之介を卒論に選んだ。
嫌、というほど読み込んだ初期芥川作品なのに、
耳と目で改めて捉え直すと、
昨日の「公募ガイド」じゃないけど、
その描写力のうまさ、面白さに感心させられる。
と同時に、
芥川の文章感覚が自分の感覚に憑依してきた。
ああ、この感覚で書いてみようか、とも思った。
筋ではなく、この目、この耳、この皮膚感覚で。
芥川が感じている世界と、自分が描きだそうとする世界との、
なんと落差が大きいのだろう。
金魚掬いと、鰹の一本釣りぐらいの差がありそうだ。