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父の日に寄せて

2024年5月16日

94回目の誕生日を迎えた翌日、

父 野田茂

通称"上野の蛮さん"は旅立ちました。

 

転倒により上腕部を骨折。

ボルト固定の手術を受けるべく手術日前日に入院。

その夜、病室で起立性低血圧(おそらく)により仰向けに卒倒。後頭部を強打し、頭蓋骨骨折、脳挫傷、硬膜下出血、くも膜下出血。なんとか一命を取り留めるも嚥下能力が戻らず2ヶ月の入院生活の末、誤嚥性肺炎にて他界。

 

あまりにも元気な父だったので、悔しさと悲しさが僕たち家族の心を激しく襲いましたが、年齢だけで言えば大往生と言うことでなんとか感情に折り合いをつけています。

 

昭和五年生まれの父は、空から焼夷弾が絶え間なく降り注ぐ東京大空襲の中、同級生や幼馴染の亡骸をいくつも飛び越え生き延び、焼け野原の下町で戦後復興に青春時代を捧げ、高度経済成長期には月を背負って出勤し月を背負って帰宅するというモーレツぶりで、この国と僕たち家族の幸せと成長をどっしりと支えてくれました。

 

そんな激動の時代を過ごしてきた父も定年を迎え、ゆっくり歳をとり始め、やがて孫たちの成長に目を細めるユーモアたっぷりの優しいおじいちゃんとなり、日々の平和を噛み締めている様に見えました。

 

晩年、視力と聴力が極端に落ち始め人知れず落胆している中、嫁にプロ野球観戦、歌舞伎鑑賞などに連れ出されて帰宅した際は、興奮冷めやらぬまま本当に嬉しそうに選手の活躍や役者の快演を報告してくれました。あの笑顔を思い出すと目頭が熱くなります…。

そしてそれと同時に「なんでもっと優しく出来なかったんだ」「なんであんな言い方をしてしまったんだ」「なんで」「なんで」「なんで」…と母を亡くした時と同じ後悔に襲われます。

本当にダメなやつです…。

 

病室で迎えた最後の誕生日には、家族と看護師さん達の「お誕生日おめでとう!!」に対して、酸素マスクの中からか細い声で「サンキュ〜ベリ〜マッチ〜」と戯けて見せ我々の心を和ませてくれました。

「これが人生だ」「野田家は運がついているから大丈夫」「前向きに考えようじゃないか」何かを悟っていたのか、バイタルが下がり始めてからこれらの言葉を僕たちに繰り返し伝えてくれました。

 

とうとう”昭和”が本当に終わってしまった様でとっても寂しい気持ちですが、

”とにかく何があってもポジティブに捉え前進する”

という父の最後の教えを守り、家族3人明るく楽しく元気に強く生きていこうと思います。

 

最初の月命日が父の日とは。

これもまた小さな野田家の運なのかも知れません。

 

おとうさん ありがとう

おとうさん ごめんなさい

おとうさん いっぱいいっぱい ありがとう

 

たくさんのご供花、ご焼香、お心遣いに深く感謝いたします。

ありがとうございました。

 

長編映画『莉の対』グランプリ受賞!

 

「シスさん、俺たち今映画創ってるんですけど、

 今回は音楽に頼らないでMなしで行こうと思ってるんです!」

 

「おー!かっこいいじゃん!!頑張って!!」

 

結果、10曲ほど書かせて頂いた映画「莉の対」。

 

やってくれました!!!

 

 

ロッテルダム国際映画祭 プレミア上映からの

タイガー・コンペティション タイガー賞

 

最優秀作品賞 単独

いわゆるグランプリ!!

 

快挙!!!

 

多くの演劇関係者が下を向いて立ち止まってしまったあの禍の中、勇気を持って新たな挑戦に踏み出した、とし君とあきおの執念が最高中の最高な形で実を結びました。

#田中稔彦 #池田彰夫

 

遠い北の見知らぬ土地に二人で飛び込み、地元の方々を頼れる協力者にかえ、不慣れなドローンを飛ばしながら遭難スレスレの雪中行軍など、たくさんの制作秘話が今後各メディアでのインタビューで語られると思いますが、メイキングだけでもう一本作れるんじゃないかと思ってしまう程、撮影に関わった皆さん全員の息遣いが聞こえるような青春の詰まった190分の超大作「莉の対」。

 

オランダ・ロッテルダムに乗り込んだ英雄達と共に「莉の対」が帰国します。

 

みなさま

今春ぜひぜひ劇場でご覧下さい!!!

 

2024年、やっと笑顔が溢れるニュースに触れる事が出来ました!!

 

 

 

母と紡いだ20曲

 

 

先日、大雨の中ではありますが、無事に母のお骨を墓に納めて参りました。

 

6月28日。舞台[WORLD〜Change The Sky〜]の劇伴を1曲EQしなおして納品したのが朝の7時過ぎ。「とうとう乗り切った」という安堵感と達成感に包まれながらモーニングビアでもしようかと屋上に上がり空を見上げると「梅雨の晴れ間」いや「梅雨明け?」と思うような、まさにピーカン。本来ならここでぐっとテンションも上がり最高な気分でグビッと行くところなのですが、なぜか胸騒ぎを覚え、すぐに「あ、おふくろ逝くかな…」と感じました。その約30分後、母の暮らす施設から「ご親族を集めてください」との電話が入りました…。

 

この日の約1月前、39度近くの発熱で施設から病院に移った際に母はもう点滴も難しく嚥下(えんげ)も出来ない段階に入ったと聞かされ、極端に選択肢の少ない中、施設に戻り「お見取り介護」をお願いする事に決めました。主治医からはおそらく「お見取り介護」スタートから2週間程で召されるだろうとうかがい、我々はそのタイム感で気持ちを整理していきました。

 

その2週間は久しぶりの大きな舞台[WORLD〜Change The Sky〜]音楽制作ど真ん中の日程でした。不謹慎かもしれませんが所謂「ドン被り」です。

今回は20曲。とはいえそれは単純な数え方で1曲中に3~4曲入ってくるパターンなので実質50曲以上。かなりタイトでやり甲斐のある案件です。

もしかすると「大事な場面に長男がいない」「最終稽古までに曲が揃わない」「妥協した作品を世に出してしまう」などなど大きな不安を抱きザワザワしながらアトリエに籠もり続けました。

そして6月27日、母の頑張りのおかげで多くの不安は現実とならず無事に初日を迎える事が出来ました。明朝ちょっと気になったSAXの音色を直して納品し完全に任務完了。このタイミングでの施設からの緊急連絡。

「あぁやっぱり俺の為に3週間も頑張ってくれたんだ」

「おふくろと一緒に作った20曲なんだ」と実感し、

不思議ですが何とも言えない暖かい気持ちで母の待つ部屋に向かいました。

 

人差し指に巻いたガーゼに大好きな日本酒「蘇我の譽」をたっぷりと浸して、代わる代わる母の舌の上に。「美味い美味い」とばかりに涙を流しながら味わう母を見ながら「お母さんが最後にしてあげられることはお前たちに”死”を見せてあげる事だからね。」という言葉を思い出していました。

子供の頃は母のこの口癖が悲しすぎて大嫌いでしたが、やっとその意味と大切さとありがたさに気付けました。

お別れの瞬間に間に合わなかった外孫2人の気持ちを思うと胸が痛みますが、このご時世に防護服姿ではあるものの、家族に囲まれ大好きな[Tennessee Waltz]に包まれ、穏やかでドラマチックな最期を迎えて貰う事が出来ました。

僕たちは手のひらが真っ赤になる位の大きな拍手で送りました。

施設の方々もみんな涙で笑顔。

これ以上がない程、素晴らしい母の旅立ちでした。

 

野田雅子

享年88才

1934年8月29日〜2021年6月28日

 

生前母がお世話になった皆様、誠にありがとうございました。

 

東京大空襲、集団疎開、高度経済成長期・・・

激動の時代を生き抜き抜いた母。

僕に音楽の夢と可能性を与え強力にサポートしてくれた母。

いつもニコニコ優しいおばあちゃん。


お母さん、ありがとう。

そういえばもうすぐ米寿だね。

おめでとう!!

 

合掌

 

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