今日は家族で出かける用事があって、朝はバタバタとしていた。みんなの支度ができるまで、ちょっとPCでブログを閲覧。またあった。嫌な記事。「この猫の命の期限は今日の夕方。」。記事は今朝読んだけれど、これは昨日のことだ。今この猫はどうなっているのだろう。ぎりぎりセーフで保護されたか、ガス室送りになって、焼却処分されたのか。こんなことばっかりだ。出がけに嫌な気分になる。うちの猫たちは居間でくつろいでいる。幸せそうな顔。なんていう境遇の差だ。この子たちも、うちに来なかったら、道端で野垂れ死んでいたか、ガス室に送られていたかだ。
ふと考えてみた。もしも自分が犬猫を殺処分する施設に勤めていて、ガスを送り込むボタンを押す立場だったら。
自分がまだ若くて、転職の機会もあったら、さっさと辞めているだろう。でも、仮に辞めたとして、その後任に、もう年齢がいっていて、転職するキャリアもなく、しかも養わなければならない家族がいる人が異動してきたとしたら、どうだろう。その人は、辞めて次の職にありつける補償はないだろう。仮にあったとしても、相当なキャリアがない限り、おそらく収入はは減るだろう。そうなれば家族の暮らしはどうなるか。結局その人はガス送入のボタンを押すしかない。なんだか、辞めてしまえばいいという問題でもないな。自分に嫌なことを他人に押し付けるだけになってしまうかもしれない。残酷なシステムだ。
そういえば、生活保護申請中に餓死した人がいた。行政手続きは煩雑で、とても素人がこなせるものではない。その人が生活困窮者を支援するNPOの存在を知っていたら、きっと助かったろうに。そんな事件はそこここで起こっているようだ。この世界のシステムは人間にも残酷だ。行政に携わる人たちがことさら残忍であったりするわけではない。ごく普通の人たちだ。ごく普通のひとたちが猫を殺処分し、時に生活困窮者を死に追いやる。なんとかこの残酷なシステムが変わらないものか。僕は具体的な答えを持っていない。
ただ、言えるとしたら、小さな命を救えない社会は、人間も救えない。
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