子どもの頃、自分が生まれ、ここにいるということが不思議でならなかった。何故僕はほかの誰かでなくて僕なのだろう。そしてそういう僕、いまここにいる僕が何故老いて死んでいくのだろう。そんなことばかり考えていた。でも、いつしかそんな考えを棚上げするようになり、いつの間にかもう考えなくなった。
そして癌になった。今は経過観察中だ。医学上、10年後に僕がこの世にいない確率が存在する。そして死を免れたら、老いというものを考え始める年齢になる。なんだか棚上げにしていたものを考えてみようと思った。
結構長く歩いてきた。といっても老境に入ったわけではない。ただうかうかすると、いつの間にか老人という年齢になった。まだ老いるということが実感としては迫ってこない。振り向けば、まだ青年の僕がいる。老人の僕は見えてこない。それでも、老いと死のイメージはある。
願わくば花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ
西行法師がその漂泊の人生の果てに達した境地。そんなところにいけたらいいと思う。
世の中をそむき果てぬといひおかん思いしるべき人はなくとも
これは若い西行が詠んだ和歌。それから長い放浪の果てに花の下での死に行きついた。僕はまだ若い西行に近い。「そのきさらぎの望月のころ」まで、まだまだ歩かないと。体は病でボロボロだが、まだまだ老いはわからない。歩くことはあくまでも僕の道行きだが、その足跡を息子や娘に伝えたい。
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