メジャー消滅の危機!?蔓延るインディー魂の是非を問う | 俺ってデビルマン!?

俺ってデビルマン!?

知ってる人は知ってるし、知らない人はまったく知らない…私、元・週刊ゴングの鈴木淳雄と申します。かつて所属していたプロレス業界に限らずに、今現在の私をありのままに記していきたいと思いますので、どうぞ宜しくお願い致します。

 かつてプロレス界は格闘エリートの集団であり、なるだけでも夢物語の本当に狭き門であった。二大メジャーといわれた新日本、全日本の入門条件にも身長180~185cm以上と記され、同時に卓越したスポーツ歴、格闘技歴がなければその門を潜ることすらできない。


 ところが、現在はメジャー団体でさえその最低条件が取り外され、なりたいという気持ちとある程度の基礎体力さえあれば、小さかろうと格闘技歴がなかろうと、誰でもなれる時代。それだけ世間に浸透したと思えばそれはいいことだが、もっと大きな問題が影に潜んでいる気がしてならない。


 まだメジャーとインディーが色濃く分かれていた時代、インディーを立ち上げた選手は何らかの理由で団体を終われた元メジャーの人間で、悪くいえば古巣で大成できなかった人間。そこに苦い経験があるからこそ、メジャーでは重要視されない魅力に磨きをかけることで、必死に勝負をかけていた。


 デスマッチのFMW、ルチャのユニバーサル、格闘スタイルのUWF、メジャーではあくまで付加価値に過ぎなかった部分を最大限究めることで、その団体は時にはメジャー以上の輝きを放ち、時代の主役となっていった。がしかし、様々な問題でその時代は長くは続かず、やがてどこも消滅していってしまった。


 だが団体はなくなっても、選手たちはこの業界に生き残っている。メジャーに属する者、別のインディーで生きている者、やがてその垣根も敷居もどんどん低くなっていき、今では選手も試合内容やその形式も、メジャーとインディーではそう大差がなくなってしまっている。


 昨年の全日本がいい例だ。まさかあの全日本で男と女が闘う時代がくるとは、夢にも思わなかった。インディーでは何年も前に実現し、今では当たり前のように行われているが、巨体をウリとする全日本の選手が体重が半分以下の選手と闘うこと自体、かなり無理がある。しかも性別が違うとなれば、そこに勝負論は成り立たない。


 身体が倍以上の男性を女性が投げ飛ばしてもそこに信憑性がないし、むしろ白々しい。逆に男性が女性を投げ飛ばせばただの弱い者いじめに見え、決して気分のいいものではない。


 同じような体格であればまだマシだが、その男女の攻防を見て楽しいとかワクワクする感覚が私には分からない。生き残っていくために話題性重視のインディーがやるのは構わないが、業界の在り方が常に問われているメジャー団体のやるべきことではない、というのが私なりの結論だ。

 

 あのエンターテイメントショーだと割り切っているWWEでさえ、一時期はミックスドマッチを取り入れていたが、今ではほとんどやっていない。男は男と、女は女と闘うからこその勝負論であり、プロレスの醍醐味だと気付いたからだろう。


 デスマッチにしてもそうだ。本来は鍛え上げた肉体と、磨き上げた技術を競い合うのがプロレスの醍醐味のはず。それが机だの椅子だの、凶器を使って勝利することに何の意味があるのだろう? 


 もちろん、昔にもブッチャーのフォーク攻撃やシークの火炎殺法があったり、猪木も釘板デスマッチをやったり、ラッシャー木村も金網デスマッチの鬼として一世を風靡していた。


 実際にどこがどう痛いのか、分かり辛いプロレスの純粋な技に比べ、有刺鉄線や画鋲が刺されば痛いということは、プロレスファンでなくても誰でも知っている。特に電流爆破などは視覚的にも聴覚的にも見映えが派手で、それが危険であることは誰の目にも明らか。痛みを訴えると同時に、プロレスラーのタフさをアピールするにはもってこいの試合形式といえる。


 だがそれとこれとは話が別。ファンがプロレスラーに求めているものって何だろう? アイテムを使って勝利するプロレスラーに対し、素直にリスペクトの気持ちを抱けるだろうか? かつてのプロレス界ではアイテム=悪者の象徴であり、それを倒す正義のヒーローを際立たせるための対象的な存在でしかなかった。


 フォークを突き刺すブッチャーに対し、自らの拳で制裁を加えるテリー。ルール無視のシンや馬之助に対し、正統派ファイトで仕止める猪木。インディーでいえば、大仁田厚が涙のカリスマとして一時代を築いたのも、ミスターポーゴという鎖鎌をリングに持ち込んだ絶対的ヒールが存在したからこそ、成立したもの。


 特撮ドラマや時代劇にあるように、勧善懲悪がすべての基本。悪いことをする者が正義の使者に駆逐されるからこそ見る者もストレス解消になり、スッキリするのである。何度倒されても性懲りもなくまた向かってくるヒール。そのマンネリ感がむしろ愛らしくもあり、日本の文化に根付いていった、といえる。


 ところが、近年のプロレス界はヒールがのさばる時代が多く、見る者のストレスが残る結果が主流となってしまっている。これでは何のために大枚をはたいてプロレス観戦しているのか、まさに本末転倒である。


 確かに蝶野やムタが率いたNWO JAPAN やT2000は、正悪の逆転現象で確固たる時代を築いた。しかしそれは蝶野やムタがダークヒーローとして絶対的な支持を得ていたからこそ成立したことであり、極めて希なこと。現在のプロレス界において、そこまで支持されているヒールが存在するだろうか?


 正義が倒され、悪がのさばる時代なんて、誰も望んでいない。現実的には悪が蔓延る社会であっても、心の底では正義が最終的に勝利することを多くの人が望んでいる。それを象徴するリングであってほしい、ファンがメジャー・プロレスに望む姿というのは、そういうものなのではないだろうか?


 アイテムを駆使して勝利する人間にリスペクトの気持ちなんて抱けない。そういう悪が手段を選ばず正義を倒す、そんな残酷劇を望むファンも確かにいるだろう。だが、それが大勢だとは到底思えない。実際、メジャーのファンの意見を調べると、拒絶する人間の方が圧倒的に多い。なのになぜ、そういう闘いをあえてメジャーがするのか?私には理解できない。


 インディーは生き残っていくために、とにかく次に繋がる話題をそこに残していた。そうでもしなければ、様々な面でメジャーに劣るインディーは次にまたそのお客さんが来てくれるか分からないからだ。だから話題性重視で様々なことに着手し、必死に人々の目耳を集めていった。


 対してメジャーは団体そのものを永く愛してきたファンが多く、余程のことがなければ継続的に支持してくれている。ところが、そのオールドファンを団体側が拒絶するようになってきた。新たに試すことを拒絶するファンが多いからだ。


 試行錯誤することは決して悪いことではない。だが、それを反対されたからといって、それを排除するような言動をすることほど、こんな愚かなことはない。話題性を求めて色んなことに着手するのはいい、でも大事な本質を見失うようでは、もはやそこにメジャーとしての存在意義はない。


 現在、メジャーといわれる団体は新日本、全日本、ノア(誕生順)の3つ。だがどこの団体も迷走を続けている状況で、興行成績もジリ貧だと聞く。その要因はやはり、メジャーがメジャーの本質を見失っているからだと思う。小細工ばかりに走るメジャーなんて心から支持できない、それがすべての答えなのではないだろうか?



三沢はなぜ全日本で革命を起こしたのか!?

なぜNOAHを設立するに至ったのか!?

この本にその答えが載っている。

絶賛発売中❗❗

     


『三沢革命はなぜ起こったのか』

なぜ、三沢は革命を起こすに至ったのか!?その真実がここに克明に!/馬場元子さんとの確執、その発端となったハワイ事件/三沢と小橋が真の盟友となった日/三沢は馬場にとって代わりたかっただけなのか?だから全日本を辞めたのか?その答えがここにある/ブログ未掲載の川田利明、田上明インタビューも敢行!聖鬼軍の二人はあの頃、三沢革命をどう思っていたのか!? …これを読まないと真の四天王プロレスは語れない!プロレスを知らない人にも、読んで頂けるノンフィクション・ヒューマンドラマです!


CALAFO