小説「愛しのアスペル君」 -2ページ目

「?」な息子とシングルファーザー  9

 翔は何かを振り切るように、会社で仕事に打ち込んだ。不思議なことに、家庭がぐちゃぐちゃになってからのほうが仕事は悪魔的に冴え渡っている。この日も翔は恐ろしいほどの出来ばえを発揮した。

 美麗なデザイン案を見ながら、皮肉なものだと彼は思った。幸福と仕事の能力は何も関係がないらしい。

「翔さん、絶好調っすね」

 まだ十代の後輩が寄ってくる。クリエイター連中はいつまで経っても学生のようなところがある。彼らと笑い合い、一緒に飯を食うのは楽しかった。

 何も知らない彼らと。

 夕方になって、病院の看護師という女性から電話が掛かってきた。

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 決定的に壊れるきっかけとなったのは何だったのだろう。おそらくもう、修復不可能なところまで来ていたのだと翔は思う。


 彼はそのうち、疲れをはっきりと自覚するようになっていた。泣き止まない息子と、すぐに睡眠薬で意識を失ってしまう妻がいる家庭に身を置かなければならないことへの疲れ。そのうち彼は考えることも行動も粗雑になっていった。こんなになっても誰も助けてくれない。どうにでもなれ、という心境だ。


 ある日の朝、東京にあるデザイン事務所に出勤しようとすると、妻が足にすがりついてきた。正気とは思えない目で「行かないで、この子と二人きりにしないで」と訴える。

 その日は印刷所に入れる誌面を作らなければならない、重要な日だった。振りきって行こうとする彼の目の前で、妻はまた睡眠薬ハルシオンを数錠飲もうとする。

 もみ合いになった。押さえつける体の柔らかさが哀しかった。出会った頃は隣でにこにこ笑っていた少女だったのに。


 抵抗が止んだ妻から離れ、翔が洗面所に行って身なりを整え、玄関に出ようとすると、妻が倒れていた。

 目を離した隙に素早く飲んだ、空の睡眠薬の包装が転がっている。


 翔はへなへなとそこに崩れ落ちた。しばらくぼうっとしていたが、やがて電話で救急車を呼んだ。しばらくしてやってきた救急隊員に状況を告げ、車内に搬入されるのを見届けると、(同乗しないのか?)という救急隊員の視線を振り切り、地下鉄の駅に向かった。

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注射を打たれると、妻は死んだように眠った。


そのぐったりした体を抱えて、翔はアパートに戻る。車があれば、と何度も思った。都心に暮らす若い会社員がそんなものを持てるはずがなかった。


 医者からは大量の睡眠薬ももらっていた。

「いっぺんに飲んじゃダメだよ」と、子供に諭すように言い、半分ばかにしたように医者が渡す白い袋。


 その中身を、妻はときどき、発作的に全部飲んでしまうことがあった。


 朗らかに笑っているので、今日は大丈夫かな、と思っていると、目を離した好きに、7錠いっぺんになくなっている。

 昏睡状態になった妻を、翔は何度も何度も医者に抱えて運んだ。