おはようございます。
今日は6月9日ですが、今から5年前に仙台市若林区木ノ下にあすなろ鍼灸整骨院がオープンしました。
開業後、1年で現在の大崎市古川江合に移転して現在に至りますが、
何とか5年間営業することが出来ました。
仙台で初めて開業した時は本当に苦労しました(;^ω^)
震災直後で空きテナントが少なく、あっても相当家賃が高く探すこと半年・・・やっと見つかりましたが、
納得して決めたというより、開業支援を受けていた某会社に急かされ(この業者の担当は本当に悪徳でした(-_-メ)!)、
疑問符ありながらのテナントでした。
そこはマンションの1階でしたが、契約してみると終わるはずのマンションの震災の補修工事は終わらず(足場等で玄関が見えない!)、
駐車場は以前あったスーパー名のペイントが残っていたり(うちはスパーじゃないよ!)、トイレの異臭(配管からの漏れ?)があったり・・・と踏んだり蹴ったりでした。
また、ずっと鍼灸畑でやってきて、接骨院での勤務もほとんど無いため、
まったくと言ってよいほど柔整の保険(療養費)の申請等について分かりませんでした。
書類の書き方、提出の仕方そして部位請求と受傷日、急性、慢性なども良く分かりませんでしたし、
もちろん業界のノウハウ???も知りません。
しかし、そのおかげで問題がある柔整の療養費問題に染まらず、すぐに完全自費に切り替えることができました。
柔整の療養費の問題で世間やマスコミで騒がれていますが、現場レベルでは各都道府県や市町村の療養費にかかわる部署、各会社の保険組合などと現場の管理柔整師は不正している・していないのやり取りを繰り返しています。
問題は現場の柔整師のモラルはもちろんですが、現在の医療費(社会保障費)の増大、そして柔整師や接骨院の取り巻く法律が現在の状況と合わないことが一因しています。
仙台時代は良かったのは初めの2か月だけ、その後は日を増すごとに患者が来なくなる日々でした。
「自分は腕があるんだ、経験があるんだ」「腕さえあれば患者がどんどん増える」と思い込んでいましたが、
2か月が過ぎ赤字に転落すると、それがかえって焦りになりました。
当時は全く経営やマーケティングの知識がなく、1回で来なくなった患者は治ってこなくなった!と信じ、
そこからの紹介が無いことに疑問符を持ち、院の前を歩いている人々がすべて患者にならないものか?と考えていたりしました(笑)
マーケティングというと嫌がる治療家の先生もいますが、それは間違いです。
患者さんがなぜうちに来るのか?
患者さんがなぜうちに来ないのか?
うちは何を提供できるのか?
患者さんは何を求めているのか?
これらを考えるのがマーケティングです。
よくよく考えれば、治療を提供する者としては当たり前のことです。
結局、仙台の住んでいた賃貸マンション代も厳しくなってきたので、秋頃から実家に戻り、大崎市古川から若林区木ノ下に通いました。
そのころ、親戚や親兄弟、友人のアドバイスを聞き、次の3つを考えていました。
①この場所にとどまり、看板を設置したりチラシを撒いたり、HPを一新させることで集客する
②別の場所に移転して、再び開業する
③この業界から足を洗う
実際は②を選択しました。
今の場所が12月頃に見つかったからです。①や③を選択していればどうなっていたでしょうか?
良かったか、悪かったかはまだ分かりませんけど、存続できているので②の選択は良かったと思っています。
こちらに移ってからは、もう背水の陣です。
もう後はありません。
しかし、一度失敗しているので多少のノウハウがあります。地元であるので地の利もあります。
ひたすら色々試しましたが
そこから4年が経ちます。
何とか節目は乗り切りました!
今、思うことは、自営業は大変だなあということ。
お給料をもらっている時は気楽なもんでした。
サラリーマンも厳しいぞ!と思うかもしれませんが、自営をすると常に24時間、院のこと店のことを考えて無ければなりません。
休みの時も雑用などの仕事がありますし、どこか出かけている時もアンテナが常に何か探しています。
でも、自分のやりたいことを実現するのはサラリーマンではほぼ無理です(趣味は除く)!
小さいことでも(営業日や休日を決めたり、値段を考えることでも)、自分でやると結構面白いし、
それで患者さんに喜ばれる仕事は本当に面白いし、やりがいを感じます。
さて、5年が経過して、その次の5年先、10年先へ足を踏み入れました!
5年後、10年後にはどうなっているのだろう?
社会情勢はもっともっと大きく変化していると思います。
自分はその時何ができるのだろうか?
どう変化しているだろう?
また、5年後に何を語っているのだろうか?
生きている限り、泥臭く生きていこうと思います。