「私の息子は教授」(1948年作品)感想 | 深層昭和帯

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映画、ドラマ、アニメ、特撮など映像作品の感想を中心に書いています。

レナート・カステラーニ監督によるイタリアのドラマ映画。出演はアルド・ファブリッツィ、ジョルジオ・デ・ルッロ。

 

 

<あらすじ>

 

学校の門番をやっているオラツィオの家に男の子ベッリが生まれた。喜んだ彼は、小さなうちから息子をラテン語の大学教授にすると言いふらす。産後の肥え立ちが悪く、妻は亡くなってしまった。生まれたばかりの赤ん坊を心配して、夜間学校に勤める女性が見に来てくれた。オラツィオは彼女が好きになるが、別の男性と結婚することになった。

 

小さなうちから英才教育を施したおかげで、息子は優秀な高校生に成長した。ところが父親の職業のせいで好きな女の子の父親に嫌われてフラれてしまう。息子は学校を退学すると言い出した。転勤の決まった教師が、しばらくオラツィオの息子を預かり、カンポバッソという田舎で生活させることにした。

 

オラツィオの息子は田舎に行ったきりなかなか帰ってこなかった。オラツィオはめっきり老け込んでしまう。そこに、かつて息子の面倒を見てくれた女性の結婚相手が学校の校長として戻ってきた。女性はすでに亡くなっていたが、3人の娘がおり、学校に入学した。

 

オラツィオは息子を待ち続けた。4月1日にはいよいよ帰ってくるとウソをつかれた。そこに召集令状が届いて、息子は戦地に送られそうになる。校長から教育大臣に出世した男の娘は父親に頼み込んで、オラツィオの息子をローマに送り、徴兵を回避させた。それを知った息子がオラツィオが変わらず暮らす学校へ戻ってきた。彼は本当に教授になって戻ってきたのだ。

 

オラツィオは息子が誇らしくて仕方がなかった。しかし、徴兵回避を父に頼み込んだ娘を落第させてしまい、疑念だった徴兵の問題が本当だったと知ると、元の学校に戻りたいと願い出た。ところがその手紙を受け取るはずの教育大臣は失脚してしまい、引き継いだ新たな教育大臣が手紙を読んだ。

 

教育大臣はコロコロ変わり、ベッリの処分は二転三転したが、結局父親の学校に再赴任することになった。オラツィオは定年間近であったが、変わらず息子を誇りに思っている。しかし、ベッリは「門番の息子」といつまでもからかわれ続けていた。オラツィオは、自分がここにいてはいけないと引退を決意、田舎に引っ込む準備を始めた。

 

そして、最後の終了の合図をすると、最愛の息子に挨拶もせずに去っていった。

 

<雑感>

 

イタリアといえば家族愛というイメージがある。もちろん時代とともに変わってきているのは知っているが、家族愛が深いことは別に悪いことじゃない。この映画は、イタリア人のイメージにピッタリの、まさにイタリア的な作品であった。

 

学校の門番として働く、決して有能とは言えない男が、最愛の妻との間に待望の男の子を授かる。妻が亡くなってしまったこともあり、男手ひとつで子供を教授にすべく懸命に働く。彼の住まいが学校の中にあり、生まれた子供は小さなころから「教授」のあだ名で呼ばれる。

 

その息子が大きくなり、教職に就く。徴兵回避したことで門番として働く父と同じ学校に赴任する。みんな彼のことを小さなころから知っているため、教職として働きながら、息子は「門番の息子」「教授と呼ばれる高校の先生」として勤めなければならない。

 

それを知った老齢の父親は、自分は息子にふさわしくないと思い悩み、2~3日旅行に行くとウソをついてそのままいなくなる。彼にとって学校は30年を過ごした場所で、学校こそが彼の家、思い出の詰まった場所なのに、息子を愛する彼は、息子の前から消えなければならない。偉大な息子に門番に過ぎない自分はふさわしくない、そう自覚して彼は消えるのだ。

 

思い出したのは、「ニルスの不思議な旅」の作者セルマ・ラーゲルレーヴが書いた「ポルトガリヤの皇帝さん」という小説だ。この小説の主人公も父親で、愛する娘を想うあまり「美しく気高い娘にふさわしくあるために」自分のことをポルトガリヤという架空の国の皇帝だと思い込むようになる。娘は凡庸であったため、父の愛を恥ずかしがるというものだ。

 

どちらの作品も、子供を想う親の愛が詰まった素晴らしい創作である。門番である自分との関係をからかった生徒たちの落書きを発見したときの父親の気持ちを想うと胸が締め付けられる。そしてオラツィオは、愛する妻の肖像画を持って、子供の元を去っていく。

 

☆5.0。偉大な父親の物語。どんな仕事であっても、オラツィオは偉大な父なのだ。