「三度目の殺人」(2017年作品)感想 | 深層昭和帯

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是枝裕和監督による社会派サスペンス映画。主演は福山雅治、役所広司。殺人を巡る物語だが、人間ドラマが主題である。

 



殺人で逮捕された三隅高司(役所広司)は供述が2転3転してなかなか弁護方針が立てられなかった。彼は以前にも殺人で服役しており、自供もしていることから有罪は免れないと思われていた。そこで弁護人は前科の際に温情判決を出した裁判官の息子である重盛朋章(福山雅治)に助けを求めた。

合理主義者の重盛朋章は被告のことにはあまり関心がなく、裁判は技術的に関わる主義だった。三隅には北海道に娘がいて、探しても良かったが旅費は自腹だと聞いて出張を止めるくらいだった。警察で証拠品を調べたところ、盗んだ財布がガソリンで汚れているのを見て、彼は強盗目的の殺人ではなく殺人のあとに強盗を思いついたという方向性で弁護することに決めた。裁判で有利になるように、怨恨の有無を調べて裁判所との打ち合わせもその線で済ませた。

ところが三隅は突然週刊誌に別のストーリーを語った。それによると被害者男性の妻に頼まれ、依頼殺人を行ったという。調べると確かに50万円が事前に振り込まれていた。

様子がおかしいと気づいた重盛は、三隅のことを調べ始めた。彼はお金に几帳面で、犯行の前には早めに翌月分の家賃を払っていた。さらに飼っていたカナリアもいっぺんに殺して墓を作っていた。墓には小石で十字架が作られていた。被害者を焼いた際もガソリンで十字架を作っていた。これらのことから、やはり突発的な犯行とは思えなくなってきた。彼は捕まるようなことをすると知っていたのだ。

三隅のアパートには脚の悪い女子高生が訪ねてきていた。彼女はどうやら被害者遺族の娘のようだった。その娘は北海道大学を目指して勉強中だった。さらにその母親、殺人を依頼したと週刊誌に書かれた女は三隅からの手紙を読まずに破り捨てていた。

重盛たちは最初の事件の現場になった北海道を訪ねた。三隅の娘は父親には早く死んでほしいと願っていたという。彼女は2度目の事件の後に警察が来たことで小さな町にいられなくなって逃げていた。当時三隅を逮捕した警察官は彼を何を考えているのかわからない不気味な人間だと思っていた。1度目の殺人の際も彼は供述を2転3転させていた。

彼がかつて住んでいた炭鉱には不況時にヤクザが高利貸しを行い多くの人間が不幸になっていた。彼が殺したのは高利貸しのヤクザだった。それで怨恨殺人として処理され、温情判決も出たが、本当のことは誰にもわからないのだった。

弁護方針は被害者妻からの依頼で決まった。だがその打ち合わせをしているとき、三隅はその弁護方針を本当に信じているかと重盛に問うた。三隅は殺されてよい人間といけない人間を峻別していたが、それは人の運命を決められる存在に憧れがあったからだった。彼が殺しを行うとき、十字架を刻むのは鎮魂の意味ではなかった。

彼が50万円を妻から受け取っていたのは、被害者が経営する工場の食品偽装の報酬だった。妻と娘はそのことを知っていたが黙っているつもりだった。妻のそのやり方を娘は汚いと思っていたが、その汚いお金であなたは育てられたと言われると返す言葉はなかった。

裁判が始まってから、娘は父親にレイプされていたことを重盛たち弁護団に打ち明け、裁判で証言すると言い出した。娘は父親を憎んでいた。その憎しみが三隅に伝わったと彼女は確信していた。

重盛は三隅に面会してそのことを話した。疑問点として被害者の社長はすでに解雇していた三隅の呼び出しになぜ応じたのかということがあった。解雇した人間に社長が呼び出しに応じるのはおかしなことだった。その疑問点と娘のレイプの話を突きつけたのだ。

すると三隅は食品偽装のことを話し、河川敷へは行っていない、自分は殺していないと言い出した。重盛は困り果ててどうしていいのかわからなくなった。三隅はガソリンの付いた社長の財布を盗んでいた。右手は火傷を負っていた。河川敷へ行っていないというのは無理があった。ところが彼は信じるのか信じないのかと迫り、裁判に不利になると説明しても自分の意見を押し通した。

被告の証言の沿うのが弁護士だとの結論になり、弁護団はウソだと知りつつ三隅の話に合わせることにした。娘には父親にレイプされていたことは話さないでくれと頼んだが、娘は話すと言って利かなかった。重盛は、三隅を救いたいのなら彼の方針に沿わないと目的を見失しなうと諭した。

裁判は突然犯行を否認した三隅が裁判官の心証を悪くし、またガソリンの付いた財布など証拠物件と供述の間に矛盾があって検察の主張が通って死刑判決となった。重盛は最後の面会で、真実を質そうとした。娘にレイプのことを公衆の面前で話させないためにあえて死刑覚悟で供述を翻したのではないかと。三隅は「もしあなたの言う通り出るなら自分はとても良いことをしたことになる」と話したが、真実を話そうとはしなかった。

という話。タイトルの回収がなかなか上手い。

解説すると、三隅という男は不幸な生い立ちを生きる中で、人生の理不尽を感じ、空虚な存在になった。そんな彼は、理不尽を与える上位にいる何者かに憧れた。神にはなれないが、最初の殺人事件の裁判において裁判長という存在がそれに近いと知った。裁判に真実は関係ない。だとするなら、裁判を通じて自分に自分の運命を与えることはできる。自分に何らかの運命を与えることで、理不尽を受動してきた自分は能動的に自分に理不尽を与える存在になり得る。

だからウソの証言をした、わけである。それが動機なのだ。タイトルである「三度目の殺人」とは、能動的に、自らの力によって死刑判決を与えて自分を殺したということだ。

動機とは関係ないところで被害者の娘への同情は無論ある。娘がレイプされていることを知りながら放置した被害者妻に対する報復は、週刊誌へのリークという形で達成している。自分に理不尽を与え続けた被害者社長は直接的に殺している。すべての目的は果たし、最後に娘に恥をかかせないという突然できた目的も達成し、何もかもコントロールして自分を死刑に導いた三隅にはとても大きな達成感がある。彼は死ぬことは怖れていないし、悪いことをしたとの自覚もない。

2度目の裁判では、何か状況のためにウソを強要されることはなく、自分がつきたいウソだけついて、庇いたい人だけ庇って、そんなことを考えるどうしようもない自分を死刑に導いた。三隅の完全勝利だったわけだ。

非常に良く出来ていて楽しめる映画だ。ただ是枝裕和監督の浅さは、個を描くに長けていても、全体が描けないところにある。

こうした作品を作って、人が人を裁くことの難しさや、法廷で真実を明らかにするという建前を破壊することは出来ても、「では是枝裕和監督の言う通り人が人を裁くことなど難しいので裁判なんてやめましょう。人と人との間の問題は、個と個の関係性の中で解決することにしましょう」となったとき、真っ先に困るのは弱者であるとわかっていながら無視することなのだ。

裁判は不完全だ。そんなことは誰もがわかっている。しかし理不尽に罪を着せられた弱者のために制度として確立してきたのである。ところが是枝氏、裁判員裁判を批判するため、しかも裁判員裁判が通常より重い量刑を出すことを批判するために裁判の不完全さを告発しようとするのだ。

本質を見極める力がないのである。結局彼は、戦後民主主義者でしかない。

是枝監督のような戦後民主主義者は、大いに社会を批判して鼻息を荒くする。だが社会から最も恩恵を受けているのは弱者であって強者ではない。強者は搾取されている側なのだ。この大前提がまるで理解できない。戦後民主主義者は強者を金持ちと捉え、金持ちは弱者から搾取しているから金持ちになっているのだと決めつけているから間違うのだ。

映画において個に寄り添い、全体の仕組みを揺さぶって遊ぶのは結構だが、強者の倫理観が薄れたとき、強者は弱者を切り捨ててより弱者の少ない社会を目指そうとする。社会基盤の変革を目的とした左翼ごっこはこうして失敗に終わるのに、よほど邦画の人材は発展性がないのか、まだ個が個がとやっているようだ。

だからこの映画から変に社会性を感じる必要はまったくなく、「是枝という映画監督が特殊な人物造形をした映画」として見どころを三隅というキャラの複雑さに置いて鑑賞すればいいと思う。