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2010/04/03

 
~Atonement つぐない~なる作品を観てたら
少年時代、再放送されていた“Combat!”を観て
近所の子たちとよく戦争モノのプラモなどで遊んでいたコトを何故か思いだす。
 
当時、イギリス兵(フランス兵と記憶していたが記憶違いか)の
ヘルメットが皿みたいで何だかカッコ悪いと僕らは誰もが考えていた。
誰しもがサンダース軍曹のアメリカをやりたがり、ドイツ兵の役ならまだしも、
フランス兵や、イギリス兵、日本兵の役割を誰もが当然のごとく避けていた。
年下の自分は、いつもそんな誰もが避ける役割を担当するコトが多かった気がする。
 
戦争までもゴッコにしてしまう子供。
ゴッコの中では痛みも悲しみもない。
あるのはゴッコの中のルールだけだ。
 
んなコトを考えながら、
勅使河原宏監督の『おとし穴』を観てたら
いつの間にか寝てしまっていた。
駄菓子屋の女役の佐々木すみ江に何故かドキッとしながら・・・
 
 
 

2010/04/02

すべてなくなってしまえばいい。
それとも自分だけがなくなればいいのか。
わからない。
わからない。
何がわからないのかがわからない。
こんなんでもいいのか?
家にあったマンオンワイヤーとミリオンズを観る。
ああしておくべきだったと後悔するのは何だか落ちつかない。
示しておかなければならないのか。
わからない、何がわからないのかが。





 

アメリカ地獄めぐり

寺山修司  ~アメリカ地獄めぐり~

 


沢村東次のブログ

 

 

僕は寺山修司さんのことは良く知らない。

 

ほとんど知らない。

名前だけは知っている。

『トマトケチャップ皇帝』なる映画があることは知っている。

だけども観たことはない。

そんな感じだ。


『アメリカ地獄めぐり』

 

偶然にも手に入れたこの本は、手にした瞬間から

 

さまざまなイメージがコラージュして官能的に襲いかかってくる。


沢村東次のブログ

沢村東次のブログ

僕が手に入れたこの古本には、

さまざまな所にマーカーで線が付けられていたり、

落書き(メモ書き?)みたいなモノが書かれているのであるが、

その中から気になった箇所を一部以下に抜粋。

 

 

『劇場のステージの上は、いいですよ。スカートに手をつっこんでも、

 

 

見ず知らずの人の顔にツバをひっかけても、軽犯罪にならないんですもんね。

それどころか、人を面罵しても、殴っても、(満員電車の中で他人に見せては

ならない恥部を公開しても)罰せられるなんてことはありませんし、ね』

虚構を裁く力は、虚構の中にしかない。

 

~僕は何故かドキュメンタリーのコトを考える。

 

 果たして、ドキュメンタリーは真実を写しているのか?~

 

私はかねがね、「書を捨てよ、町に出よう」という意見を持っていて、

 

「本は書斎で読み、セックスは寝室でする」という保守的な考えに反対なのである。

本は青空の下、馬車の上、ときには歩きながら、ときには食卓や飛行機の中で

読みたいし、セックスもまた海岸や芝生の上、納屋の藁束の中や応接間、

ときには木の上や劇場のステージでしたいと思っている。

 

~無重力空間(今でいうところの宇宙ステーショーン)で体験してみたいと思った~

 

 

小新聞の歴史は、反体制運動の歴史であるという、史上の事実が

 

何よりもそのことを雄弁に物語っているように思われる。

 

~衰退する紙媒体の中で、発行予定のフリーペーパー『のらくら通信』は、

 

 “手に入れるという行為”が最重要だと考えている。ー高崎ゾンビー~

 

「どうして誰とでも寝てはいけないのか」

 

 

~選択基準は何か?容姿は重要である。

 

 街を行き交う美しい女性たち・・・ムスっとした顔よりは、そりゃ笑顔がいいさ。

 その視覚効果だけで幸せな気分になる。

 おっと、男達、風俗店の写真選択っていうのには注意が必要だ。

 けっして写真は真実を写すモノではないのである。

 よく見てごらん。

 特に広告には同じ目をした女がいっぱい載っかっているから。~

 

 

政治は主に、人たちに何かを禁じる単位である。

 

政治的な権力は、何々を「してはいけない」ということを私たちに要求する。

それに対して、映画や演劇、詩そうしたものの総体としての芸術は、

人たちに何かを許す単位にかわりつつある。

芸術的な権力というものが、もし存在するならばそれは政治的抑圧から、

人たちを解放し、自由にしようとする営業の中にある