草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ -29ページ目

草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

自虐…それは資本の国家を愛すること。。。自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!
The Rising Multitude

You created these problems
And you don't know what to do
You know you can solve them
1.自己と対象は、どちらも対象的自然。自己は、自己意識である以前に有機的身体、対象は非有機的身体。
 
2.マルクス労働論の主たる問題意識は、観察者の立場の批判におかれていた。
 
3.システム原理としての本質的矛盾は、労働の矛盾、すなわち疎外された労働である。
 
4.対象を自己の非有機的身体として組織化することは労働によってのみ可能となる。自己意識にそれはできない。
+++++++++++++++有井行夫「労働に即する社会把握の復権のために」(大谷編『21世紀とマルクス』桜井書店、2007年所収)
 
 
自己意識としての自己意識の立場、すなわち観察者の立場とは、自己の問題意識に相関させて対象を恣意的に設定したり、解消したりすることに終始する態度を言う。
 
実践的に対象を捉えるものではなく、対象をその本質に即して把握する代わりに、対象に自己認識を投影して終わる。
 
「主客二元論の克服」が提唱される場合、ほとんどは、無自覚的であれ、自覚的であれ「主体(主観)」が「客体(客観)」を包摂する構図で「克服」がなされることになっている。
 
直観的には「正しく」見えても、具体的な産出物、成果に乏しいのが実情だ。
 
対象に即して正しいのは、有機的身体(人間的自然、実在的な自己)による非有機的自然(環境的自然)の包摂である他の人間諸個体や非有機的身体としての環境的自然(人工物を含む)を自己の身体を媒介させること、すなわち労働実践の一つ一つが主客二元論の克服なのである。
 
そして、この実践は、ハイエクのいうノモスへの配慮そのもの、設計的人為ならざる自生的秩序に従うことに他ならない。
 
※ピンポイントですが、内容的には重大な変更をしたので旧稿は破棄します。
 
イメージ 1
 
自生的秩序の思想家、安藤昌益先生の自然真営道
 
 マルクスが社会形成の主体に据えるのは、人間一般としての労働する諸個人である。但し、それは抽象概念としての人間一般ではなく、人間の一般性を担う現実の生きた個人である。この人間の一般性は、人間を生命一般から区別する種差であり、人類一般に通有される契機である。これこそがマルクスの類的本質であり、その内容は、人間固有の生命活動としての労働である。
 
全ての生物は、必ず身体組織の外に広がる外在的諸条件(自然環境や他の人間)との間で何らかの物質や情報のやり取りをしながら自己の生命を維持しているのである。このとき外在的諸条件は、当該有機体の生命過程の諸契機(非有機的身体)として、この有機体の生命活動に適合するよう生命過程に組み込まれている。すべての生命体が、それぞれが置かれた条件に応じて、自己保存や繁殖という目的に適した運動形態を獲得している(生命活動の合目的性)。
 
水鳥が水かきを持つのは、捕食対象や生息領域という環境条件の下で自己保存と繁殖という目的に適合的な有機的身体を獲得したということに他ならない。しかし、水鳥はその身体形成の運動を合目的的には為し得ていても、決して目的意識的には為し得ていない。それは、無自覚的な運動にとどまっている。
 
外在的諸条件(自然環境や他の人間)に対する人間諸個人の関係も、外在的諸条件と生命一般の合目的的関係であることには変わりはない。しかし、人間の場合には、自己の有機的身体と非有機的身体との間の物質代謝という合目的的な過程を「意識(精神)」によって媒介している。人間は、合目的的運動を対自化してとらえ、自覚的に制御するのである。それにより、人間は、有機的身体が他の生物のように、生息環境や捕食対象に限定的に対応せず、物質代謝の諸対象(物質的生存条件)に対してより普遍的にふるまうことができる。遭遇する様々な対象の固有の性質に応じてそれらに対し自由に対応することができるのである。
 
このようにとらえられた主体概念とその運動から近代社会の日常的発生過程(共時的synchronic発生過程)を展開することがマルクスのいう概念的把握である。したがって、概念的に把握された近代社会とその運動様式は、人間的本質としての労働の特殊歴史的な媒介関係と媒介様式以外の何物でもない。
 
それでは、そのようにして明らかにされた疎外された労働の概念とは、どのようなものであろうか。
 
マルクスは、疎外された労働を構成する4契機として、(1)労働主体の、労働対象に対する矛盾した関係、(2)労働主体の、労働という行為・活動それ自体に対する矛盾した関係、(3)労働主体の、彼の労働能力に対する矛盾した関係、(4)労働主体の、他の人間に対する矛盾した関係を挙げる。
 
なお、(1)における対象とは、労働の物質的条件としての非有機的身体であり、人間にとっての物質的環境の一切である。また、(4)における他の人間とは、労働の社会的条件である社会的諸関係である。
 
この4契機のうち、最も基底的な契機は、第3契機の能力の疎外 である。物質的環境、自己の活動それ自体、社会的諸関係の3者に対して普遍的にふるまいうる能力が疎外された結果、物質的環境、活動、社会的諸関係という3者に対して矛盾した関係に陥るのだからである。
 
「疎外された労働」とは、「国民経済学的事実」と指摘されていることからもわかるように、端的に賃労働のことである。賃労働が類的能力(Gattungsvermögen)の譲渡であることから、この能力の展開および媒介の諸形態である、対象(手段と成果)、活動、社会の疎外が生じるのである。
 
「ミル評註」では、主体は私的所有者であり、それに即して「疎外された労働」も、「営利労働」(私的労働)として捉えなおされている。私的所有者の直接的な関心の対象は商品としての生産物である。しかし、その生産物も、それ自体は享受の対象でなく、営利すなわち貨幣の取得を達成するための手段にすぎない。もちろん、この生産物を生産する労働も、それが私的所有者自身の労働であるかどうかに関係なく、私的所有者の享受の対象ではなくなる。活動としての労働も、対象としての生産物も疎外され、社会的諸関係は、私的所有に対する私的所有の関係に、すなわち相互に排他的な対象支配行為が、貨幣という外在的事物に媒介される関係となっている。
 
こうして,社会形成の主体とその現時点での疎外されたあり方が明らかにされた。疎外は生産過程における疎外(疎外された労働)と流通過程における疎外(営利労働)として把握された。この現時点での在り方を基準にして過去の社会形態と将来の社会形態,それぞれの特性が照らし出されることになる。

 

 

《スルタンはアラブの土地を自らが征服した所有地と見做して来たが、この征服地の所有権については、現地に住む原住民による土地使用(用益)によって制限を受けるという原則が適用されて来た。》 

 しかし、

《1858年、オスマントルコ統治下にあるすべての土地の登録・登記を進めて土地に対する法的な所有権を確立し、徴税することを目的とした土地法(Land Code)が初めて法制化された。これによってこれまで従来の土地所有制度はすべて廃止されることになった。》

《これを受けてパレスチナでは、スルタンが所有するミリの土地に帰属する土地が大半のため、この新たな土地法のもとで中央政府から派遣された執行者/代理人によって接収され、…略…、その後、タブ(トルコ語で土地の意味)と呼ばれることになる土地登記制度が確立された。》

《これ以降、パレスチナの土地所有権は、タプ料と呼ばれる土地購入の代金を事前に支払えば国家から付与されて、所有者は帝国番号を記した土地の権利証書(Title Deed)を手にいれることができるようになった。》 ⇒結果、以下に示すような5つの土地分類が形成された。

《1)ワクフの土地 — イスラム法に基づいて寄進された土地。…略…所有者がその所有権は保持しながら、その使用権=用益権のみを特定の目的のために放棄する》 《(2)ムルクの土地 — スルタンが地元の原住民イスラム教徒に付与した土地。》 《(3)ミリの土地 — スルタンの私有地(ミリとは、エミール/アミール=アラビア語での指導者、征服者の意味)に由来する言葉。パレスチナの土地はすべて征服者=スルタンの所有地とされており、主に村落に近い耕地、牧草地、夏冬の放牧地、森林地帯などが含まれる。》 《(4)マトルークの土地 — 放置された(マトルーク/Matrouk)土地。公道、共通の放牧地といった公共目的のために国から放置され(Tarak、アラビア語で去る、放置する、捨てるの意味)、公共用地に供される。》 《(5) マワトの土地 — 死んだ(マウト/Mawat)土地。山、岩地、石ころだらけの土地などの空き地、土地登記の所有者のいない放牧地、…略…、このような死地でも必要な者は当局の許可を得た上で、この土地の所有権がスルタンに帰属するとの条件のもとで耕作できる。》 

 

 登記され権利証書を与えられた土地は、上記5分類のうち(2)ムルクの土地ということになる。

 とりあえず、森戸論文を見る限りでは、イギリスによる国有化という話は出てこない。

 

莽崛起(The Rising Multitude)
理性の完全性への信仰は、ノイラートによって「エセ合理主義」として批判された。ノイラートにとって真の合理主義は、理性の不完全性と、理性との絶縁の不可能性を認めたうえで、この不完全な理性とどう付き合っていくのかを考える態度であったといってよいだろう。彼の考える合理主義とは、まさに、我々が、我々自身の理性のありのままの姿、すなわち不完全な理性に、適合していくこと、理性の不完全性を踏まえてそれをを適切に取り扱うことに他ならないのである。
 
人類最大の不条理は、この不完全な理性に頼らざるを得ないことにこそあるだろう。しかし、この不条理は、実は幸運なもの、少なくとも愉快なものといえないだろうか。
 
設定した目的、構想が全て確実にに実現できてしまうなら、創造性の入り込む余地などない。しかし、理性は常に何らかの意味で不完全だから、それは、頻繁に失敗をもたらす。失敗は我々に、我々の目的意識的活動が媒介しなければならない諸現象・諸事物の実在的連関について、新たな媒介・関連付けを模索するように迫ることになる。
 
対象物AをBに転化させようとして、つまり〈A→B〉を実践的に媒介しようとして、失敗し、実際に起こった変化は、〈A→C〉であったとしよう。この時、Cそのものや、Cを引き起こした実践に一定の修正を加えて得られるC’が、Bとは、異なる有用性を持っている場合があり得ることは、経験的に知られているところであろう。
 
CやC’は、当初偶然の産物に過ぎないが、我々の不完全な理性は、失敗の反復の中から、B、C、Dという異なる結果がそれぞれどのような条件の下で成立するか体験的に掴み取っていくことになる。
 
即ち、理性の不完全性がもたらす、目的・構想からの逸脱の可能性こそが、人間の自由と創造性の根拠の、少なくとも一つであるということなのだ。
 
理性が不完全であるということを理由に、我々が理性を捨て去ることなど、到底不可能であろうし、仮にそれが可能であったとしても、それこそ、まさに自由と創造性の圧殺をもたらすだろう。
 
理性が完全なものであると妄信することも、「エセ合理主義」という過ちであるなら、逆に理性との絶縁を夢想する態度や理性の存在を否認する態度もまた、現実を直視できないという点で全く同様の過ちであるといわなければならない。
 
頂いたコメント
ヘーゲルの理性を、「非理性的形態での理性の現在」として批判したマルクスは忘れられるべきではないでしょうねw

ところで、今季活躍めざましいフィギュアスケーターの町田樹がヘーゲル哲学と格闘していることがテレビ番組で紹介されましたが、「西側」選手の多くが物神崇拝的な状況にあることと比べると驚くべきことですね。

あの「世界王者」パトリック・チャンあたりでさえ、4回転ジャンプの安定化という技術主義的目的からしかバレエ練習をしていないことなどと比べても、深いフィギュアへの取り組み姿勢だと思います