善意とか慈善は見せかけで、有り得ない。という人もいるが、果たしてそうだろうか。そうとは思いたくない。だれも人の役に立ちたい、他人に喜ばれる事をしてみたいと思うのが人情だろう。たとえ報酬が無くとも、例えば炎に包まれた火災現場に遭遇し、子供が泣き叫んでいるのを目にすればわが身を忘れて助けたいと誰もが思うのではないか。現在のメディアは、警察詰め記者が提供された記事を書くから、暗いニュースしか眼に入らないが、たまに善行の話も目にすることがある。マスコミも警察や裁判所からばかりのニュースを発信しないで、地域をこまめに歩いて心温まる記事を探し、それらで紙面を占めれば、世の中ももっと明るくなることだろう。善意を素直に受け止められないのは、心の余裕が欠如している証拠でもある。
神戸の震災で大災害時には大勢のボランティアが必要となり、その後越前・三国港沖でのロシア船タンカーの座礁によるオイル除去や十勝沖地震での災害救助、新潟中部地震・・・・など大災害のたびに全国からボランティアが要請された。神戸の例からエスカレートして福井では冬季の観光客減から温泉宿を提供しカニ料理を出した。十勝では日本航空が往復の飛行機をチャータまでした。こうなるとお笑いである。緊急に人手を集めるのに、エサを用意しないといけないとはまさにさもしい。無償で労力を提供するのがボランティアであるのに報酬を期待するのは明らかに間違っている。ボランティアは誰でも出来ると喧伝されるがそうではない。資力と時間的余裕がないと出来ない。日々の生活に事欠く人間が、他人のために職業的なプロの知力、労力、財力を提供できるわけがない。
最近、ボランティアが流行っている。社会に貢献するための慈善事業であり、無償奉仕が原則である。西欧では宗教に根ざし、子供の頃から教会で教えてもらってるから、自然的にボランティアができるが、日本の場合は少し違う。本来は公務員なり議員なりが民の公僕として精励するものだが、今ははっきり職業化している。しかし、突発的な天災や大災害の時は、多数の人手で救済するためボランティアが必要とされる。だが、行政がボランティアを行うと交通費や食事ぐらいは提供しましょうとなる。神戸の震災の時、全国から多数の人員が集まり復興に尽力したが、民間のボランティアはほとんどが無償で、役所から派遣されれば日当がつき、出勤扱いである。これで本当のボランティアといえるのか。中には日雇い労働者が現地に赴き、ちゃっかり食事にありついたとの話も有り、顰蹙(ひんしゅく)を買ったものである。
お金を手に入れる方法もいろいろある。物を売って得た代金や、額に汗して働いて得た報酬、他人に親切をして得る謝礼。株式や外国貨幣の売買によって生じた差益金。またギャンブルで得た賞金とか人の金を盗んだり、暴力を用いて無理やり取る強奪金など様々だ。正当に得たお金には問題は無いが、ギャンブルや相場などで得たお金には損をした人、得をした人が生じる。犯罪で得た金は論外である。どのような方法でお金を得るかは人の勝手で、他人がとやかくいう問題ではない。しかし、納得出来るかできないかは人間性の問題で、善と悪の問題である。性善説と性悪説―生まれつき善い人間、悪い人間に区別される―が、だからといって生涯ずっと善悪で区別されるわけではない。家庭や社会環境、本人の努力によって改悛の余地はある。日本の法律は西欧の影響を受けて、性善説で創られている。
つまり西洋文明を取り入れてきた日本が、いつの間にか米国流になり、拝金主義・利己主義が席巻するようになった。ブランドも老舗も必要としない。儲かればよい。財を蓄えれば勝者になる。そう思い込み信じるようになった。だが考えてみれば、お金は人間が考え出した物々交換に用いる道具でしかない。石鹸や歯ブラシと同じ道具の一種である。確かにお金があれば何でも物が手に入るかも知れないが、手に入らない物もたくさんある。夢、健康、幸福、友情など。屁理屈をこねる人は、そんなものはお金で買えるというかもしれないが、それはものの本質を知らないからだ。話はそれるが、現代は情報化社会といわれていて、いい情報を知らされなくても生きていく上でなんの弊害も無い。早く情報を得た人が得したと思っても、知らない人には関係ない。仮にお金で命が買えたとしても、他人と比べ少し寿命が延びただけで、寿命が多少延びて本質的に何を得したのか。