次の日も、昼食を食べ終わった後、お母さんはおばさんたちの集いに行った。

お母さんが出て行った後すぐ、美子(よしこ)姉ちゃんは二階を駆け上って、手に何かを持って下りてきた。
「美子姉ちゃん、それなぁに?」
良太(りょうた)が目をきらきらさせて聞いた。

美子姉ちゃんは、ふふふ、と笑って、
「千代紙よ」
と言った。
「私が使わせてもらってる部屋にあったの。ね、これで風車作らない?」
良太がすぐに、作るっ、と言った。

それで、風車を作ることになった。


材料は、千代紙のほかに、割り箸と針金とセロハンテープを用意した。

そして、割り箸に穴を開けるために、きりも用意した。

私と良太がきりを使うのは危ないから、美子姉ちゃんが使うことになった。


私たちは夢中で風車を作った。

割り箸がそんなになかったから、全部で十二本作った。

私たちは出来上がった風車を手に持って、ふーっと息を吹いた。

風車はよく回った。

やっぱり、美子姉ちゃんが作った風車が一番きれいだった。

縁側から風が入ってきて、手に持っていた風車が自然に回った。

くるくるくるくる、一定の速さで回った。

美子姉ちゃんは、どこか遠くを見るような目で、風車に視線を向けていた。

くるくるくるくると、くるくるくるくると、風車は回った。




美子姉ちゃんはそれからも、お母さんが出かけている間、私と良太と遊んでくれた。

工作したり、即興で遊びを思いついたり、いろいろだった。

時にはお母さんが私と良太に頼んだ洗濯物を干すことも、代わりにしてくれた。

その時、私と良太は二階のベランダから庭にいる美子姉ちゃんを眺めた。

美子姉ちゃんはとても楽しそうに洗濯物を干して、その最中に歌を歌っている。

外国の歌で、どんな歌詞なのかはわからないけど、曲はとてもきれいだ。

私も良太も、そんな美子姉ちゃんを飽きずに見つめた。

美子姉ちゃんはとてもきれいだ。

私は、美子姉ちゃんのことが、改めて大好きだと感じていた。




夏休みも終わりに近づいていた。

もうすぐで美子姉ちゃんは自分の家に帰ってしまう。
「さっき、美子ちゃんのお母さんから電話があったんだけど、マンションの工事、予定通りに終わったそうよ。よかったわね、美子ちゃん。家に帰っても、静かに勉強できるね」
「はい。安心しました」
お母さんの言葉に美子姉ちゃんはにっこり笑って答えた。

夕食の時の話題としては、別に悪くない話だけれど、美子姉ちゃんが帰ってしまうのかと思うと、沈んだ気持ちになる。
「美子ちゃんは本当にしっかりしているね。うちの娘にしたいくらいだよ」
「そんなことないですよ、叔父さん。それに、この家にはもう娘がいるじゃないですか」
「ははは。それもそうだな。だが、うちの良子(りょうこ)は美子ちゃんほどしっかりしていないからね。見習ってもらいたいよ」
お父さんの言葉にみんなが笑っている。

でも、私は、顔をうつむけて、笑えなかった。




夕食が終わって、みんなが居間でくつろいでいるとき、私は誰にも気づかれないように外へ出た。
「良子ちゃん」
それなのに、美子姉ちゃんが私の後ろについてきていた。
「良子ちゃん。こっち向いて?」
美子姉ちゃんが優しい声で私に言う。

私はなんだか意地になっていて、振り向かなかった。

私の意地が伝わったのか、美子姉ちゃんが私の前に移動してきた。
「良子ちゃん」
美子姉ちゃんが私の肩に手を置く。

そのぬくもりが心地よくて、私は堪えきれずに泣いてしまった。
「美子姉ちゃん…。私、駄目な子なのかな? この家の娘に、相応しくないのかな? 私なんて、全然かわいげがないし、いつもぶーたれてるし、お母さん達の言うこと聞かないし。私、美子姉ちゃんみたいになりたかった。『良子』に似合う子になりたかった…」
涙がぼろぼろと流れてくる。

美子姉ちゃんはそっとハンカチで私の涙を拭いてくれた。
「良子ちゃん。私はね、良子ちゃんが思うような良い子じゃないんだよ」
「嘘だ」
「本当よ」
美子姉ちゃんは真剣な顔をして私を見ていた。

私は思わず涙が止まった。
「私はね、とても悪い子なの。これから私のお父さんとお母さんを悲しませるようなことをしようとしているの。だから、私なんかよりも、良子ちゃんの方がずっとずっと良い子よ。だって、私は良子ちゃんが羨ましかったんだから。良子ちゃんのように、自分に素直でありたかったんだから」
美子姉ちゃんの告白に、私は何も言えずにじっと聞いていることしかできなかった。

美子姉ちゃんは、私に何を伝えようとしているのだろう?


私も美子姉ちゃんも、何も言葉を言わない時がしばらく流れた。

けれど、美子姉ちゃんがにっこり笑って、ぽんと私の肩を叩くと、
「戻ろうか」
呪縛が解けたみたいに私たちは動くことができた。




夏休みが終了する二日前、美子姉ちゃんは家に帰っていった。

帰る間際、私に手の平サイズの風車を渡してくれた。
「これ、良子ちゃんにあげる。うまく回るかどうかはわからないんだけどね」
美子姉ちゃんは、私の大好きな笑顔を浮かべて、私の家を出て行った。




それから美子姉ちゃんは受験勉強に精を出して、見事、第一志望高校に合格した。

その高校は全寮制で、美子姉ちゃんは実家を離れることになった。

美子姉ちゃんが高校に入学して一週間経った日、その日から、美子姉ちゃんの行方がわからなくなった。

高校にも行っていなくて、家にももちろん何の連絡もない。

誘拐されたのかと思ったけれど、誰もそんなところを目撃していない。

ただ、美子姉ちゃんが行方不明になる前日、寮で美子姉ちゃんと同室の人に、美子姉ちゃんがこんなことを言っていたらしい。
「ここに来ることができてね、私、やっと私らしく振る舞えるようになったんだ。だから、この状態を誰にも邪魔させないの」
その時の美子姉ちゃんは、とてもうれしそうに笑っていて、怖いくらいだった、と言っていた。




あの日、美子姉ちゃんが言っていたのはこのことだったのだろう。

美子姉ちゃんはやっと、自分というものを見つけることができたんだ。


美子姉ちゃんからもらった小さな風車を、私は今でも持っている。

でも、その風車はどんなに風を送っても、回ることはなかった。



美子(よしこ)姉ちゃんは私より三つ年上で、中学三年生だ。

美子姉ちゃんのお母さんは私のお母さんのお姉さん。

だから私と美子姉ちゃんは従姉妹。

その美子姉ちゃんが、夏休みに私の家にやってくる。
「美子ちゃんの家の近くで、マンションの建築工事があってるんですって。美子ちゃん、今年高校受験でしょ? 静かな環境の方が勉強しやすいだろうと思って。私と伯母さんとで話し合ったし、お父さんも許可したし、美子ちゃんもこっちに来たいって言ったから」
お母さんは私と弟の良太(りょうた)にそう説明した。
「私たちの意見は聞かないの?」
私はぶっきらぼうに聞いた。

我ながらかわいくない。
「何よ、良子(りょうこ)。美子ちゃんが来るの嫌なの?」
「そうじゃない。私たちの知らないところで決められるのが嫌なの。ね、良太」
私は小学一年生の弟に同意を求めた。
「僕、そんなこと思ってない」
予想はしていたけれど、はっきり言われると腹立たしい。
「そんなことより、お母さん。美子姉ちゃん、いつ来るの?」
良太はさっさとお母さんに話題を向けていた。
「夏休みの最初の日に来るのよ」
「楽しみだなー」
良太は心底うれしそうな顔をした。
「良太は本当に、美子ちゃんのことが好きなのね」
「うん。僕、美子姉ちゃん大好き」
私は今きっと、すごく不機嫌な顔をしている。

それが分かるから、二階の自分の部屋に駆け込んだ。




夏休みになった。

今日、美子姉ちゃんがやってくる。

会いたいけれど会いたくない。

今の私、絶対ぶーたれた顔をしている。


そんな時、家のガラリ戸が開き、
「こんにちはー。美子です」
美子姉ちゃんがやってきた。
「いらっしゃい、美子ちゃん」
「おじゃまします、叔母さん」
美子姉ちゃんは居間に入った。
「美子姉ちゃん、いらっしゃい」
「おじゃましてます、良太くん。少し大きくなったんじゃない?」
「うん。僕ね、背の順で後ろにいた子より大きくなったんだよ」
「うわー。よかったねー」
良太はうれしそうな顔をしている。

美子姉ちゃんが私の方を向いた。

私は思わず後ずさった。
「こんにちは、良子ちゃん」
「…こんにちは」
美子姉ちゃんはスポーツバッグとショルダーバッグを肩からおろした。

そして、私を見て少し首を傾げた。

黒くてまっすぐで肩まで伸びた美子姉ちゃんの髪が、さらっと肩から落ちた。
「良子ちゃん、なんだか元気ないね。どうかした?」
「どうもしないよ」
私はまたぶっきらぼうに答えた。

美子姉ちゃんはさらに首を傾げた。
「美子ちゃん。二階の空き部屋が美子ちゃんの部屋になるから。荷物そこに置いてきたら?」
「あ、はい。そうします」
「僕、小さい方の荷物持って行くの手伝う」
「ありがとう、良太くん」
美子姉ちゃんと良太は二階に上がった。

二階に上りきる途中、美子姉ちゃんが私をちらっと見た。

また、後ずさってしまった。


夜になって、お父さんが帰ってきた。
「おじゃましてます、叔父さん」
「いらっしゃい、美子ちゃん」
お父さんはにっこり笑った。

私と良太にはめったにそんな顔はしない。
「夏休みの間、ここでゆっくり過ごすといいよ」
「はい」
美子姉ちゃんはふんわりと笑った。

私は、頭がだんだんと下がっていった。




次の日の朝(というより昼前)、私は目を覚ました。

あくびをしながら部屋を出ると、左斜め前の部屋で、美子姉ちゃんが勉強していた。

国語、数学、英語、理科、社会、全部の教科書が机の上に乗っている。

私はしばらく美子姉ちゃんを眺めて、一階に下りた。
「あら、起きたの、良子。遅かったわね」
お昼ご飯の用意をしている手を休めずに、お母さんがそう言ってきた。
「おはよう。ご飯は?」
「もうすぐでできるわよ」
「良太は?」
「遊びに行ってる。もうそろそろ帰ってくるんじゃない?」
私はちゃぶ台の前に座って、お母さんが用意をしているのを眺めた。

すぐに用意は整って、お母さんは階段のところへ行った。
「美子ちゃーん。お昼できたわよー」
「はーい」
美子姉ちゃんはすぐに下りてきて、私の隣に座った。
「おはよう、良子ちゃん」
「…おはよう」
いただきますと言って、私たちは食べ始めた。

途中、良太も加わった。


お昼ご飯を食べ終わった後、お母さんはご近所のおばさん達の集いに行く。
「お母さんってね、いつもおばさん達の集まりに行くんだよ。すんごくうきうきして」
良太がおもしろそうに言った。
「それでね、帰ってくるのいっつも、夕方なんだ」
「そうなの? じゃぁ」
と言って、美子姉ちゃんは立ち上がった。
「叔母さんが帰ってくるまで、私と一緒に遊ぼうか」
「美子姉ちゃんと!? やったー!!」
良太が飛び跳ねて喜んだ。

私はなんだか引いてしまった。
「いいの? 美子姉ちゃん。勉強した方がいいんじゃないの?」
「そうだね。でも、息抜きも大事だと思うから。それに、久しぶりに良子ちゃんと良太くんと遊びたいから」
美子姉ちゃんはそう言って、にっこりと笑った。




さっそく私たちは裏の竹林に行った。

その竹林の中には小川が流れている。
「久々に来たけど、気持ちいいねー」
美子姉ちゃんは小川に手を入れたり、竹を抱きしめたりした。
「ねえ、良子ちゃん、良太くん。笹舟作らない?」
美子姉ちゃんの目はきらきらしていた。

良太が、作るっ、と返事したので、私たちは竹林の中から笹を見つけて、笹の葉を三枚取った。

そして、笹舟を作った。

美子姉ちゃんはとてもきれいに作って、私と良太はちょっと雑になった。


笹舟を小川に浮かせようとしたとき、良太が何かを持ってきた。

ヒメジョオンとツユクサとアカツメクサの花だった。

それらをぽん、ぽん、ぽんと笹舟に乗せた。
「わぁ、かわいい」
美子姉ちゃんがうれしそうに声をもらした。

良太は誇らしげに笑った。

そして、小川に浮かせた。


ヒメジョオンの白と黄と、ツユクサの青と、アカツメクサの赤が、緑の笹舟と一緒になって、とてもきれいだった。

笹舟はぐらぐらと揺れながら、小川を渡っていく。

ぐらぐらぐらぐら、今にもひっくり返ってしまいそうなのに、三つの笹舟は寄り添って、静かに私たちから遠ざかった。


ちらりと美子姉ちゃんを見てみた。

美子姉ちゃんは、とても愛しそうに、笹舟を見つめていた。

私はなんだか胸が詰まって、さっと美子姉ちゃんから視線をそらした。




続く


「泰(やす)。今から海に連れて行って」
一歳年上の姉が、俺が学校から帰ってきて早々、突然言った。
「なんで?」
「理由なんか聞かないで、言うこと聞いて」
俺はため息をついて、着替えさせて、と言った。

制服でバイクを運転したくない。


俺が着替え終わって、車庫からバイクを出していると、姉も家から出てきた。

姉の服装を見て、俺は少なからず驚いた。
「スカートでバイクに乗るのか?」
「下にスパッツはいてるから大丈夫よ」
そういう問題なのか? と思ったが、それ以上は何も言わなかった。

後ろに姉を乗せて、俺たちは海に行った。


海に着くと、姉は何も言わずに砂浜を歩いていった。

俺はバイクにまたがったまま、彼女を見ていた。

靴を砂浜に投げ捨て、歩調をゆるめずに海の中に入っていった。
「ちっくしょう!」
海を思いっきり蹴りながら、そう叫んだ。
「どうしたの」
「夜逃げだよ、夜逃げ! あの男が夜逃げしたんだ!」
あの男というのは、姉の彼氏のことだ。

確か、家族と一緒に住んでいたはずだ。
「何が『もう会えない』だ! 何が『連絡できない』だ! 何が『さようなら』だ! 借金なんかさっさと返しておけよ! 馬鹿野郎! あんな男なんか、大っ嫌いだ! あんな男なんかぁ……」
姉はしゃがんで泣き出してしまった。

泣き声が辺りに響き渡る。

俺は姉のところに行った。

海の中でしゃがんだから、服がびっしょり濡れている。
「朋(とも)」
俺は姉を呼んだ。

姉は俺の方を向いた。

涙で顔がぐちゃぐちゃだ。
「借金は、あの男の所為じゃないのよ。あの男の父親が、いっぱい、借金をしていたのよ。あの男はもう、大学に行けない。あんなに行きたいって言っていたのに。まだ、入学して二ヶ月しか経ってないのに。なんであの男が巻き込まれないといけないの? あの男は何もしていないのに。なんで……」
姉はまた大声で泣き出した。

俺は一度バイクのところへ戻って、いつも入れているタオルを取ってきた。
「朋。立ってよ。風邪引く」
俺は姉の腕をつかんで、無理矢理立たせた。

そして、砂浜に引っ張った。

俺はタオルで姉の足を拭いた。

姉は静かにしている。

靴を拾ってきて履かせた。

バイクまでまた引っ張った。

タオルを仕舞い、バイクを引いて、来た道を歩いた。

姉は俺の横に並んで歩いている。
「バイクに乗らないの?」
「朋が、落ちそうだから。今の朋じゃ、俺に、しっかりつかまりそうにない。それが怖い」
姉はちょっと笑った。
「うん。そうだね。そんなこと考えてなかったけど、泰の言う通りかもしれないね」
俺はちらっと姉の顔を見た。

もう、泣いていない。
「泰。ありがとう。わがままに付き合ってくれて」
俺は思わず立ち止まった。

姉はそのまま歩いている。
「朋!」
姉は振り返った。
「彼氏がいなくなったからって、死ぬなよ! 俺、そんなの嫌だからな! 絶対死ぬなよ! そんなことしたら、一生許さないからな!」
姉は一度目を大きく見開いた後、笑った。
「うん。死なない」
俺はそれに満足して、姉のところまで進んだ。

姉と並ぶと、俺たちはまた歩き出した。

海の向こうで、太陽が沈んでいる。

最近上手く眠れない。

本を読んでも、携帯電話をいじっても、音楽を聴いても、睡魔の訪れを予感できない。

眠い、と感じることができない。

寝られそうだ、と思っても、浅い眠りで終わってしまったり、夢見が悪かったりして、眠った心地がしない。
「何か、気になることでもあるんじゃない?」
初子さんに話したら、そんな言葉が返ってきた。
「…普通、悩みがあるんじゃない、とか、不安なことがあるんじゃない、とか、聞かない?」
「それらを引っくるめて『気になること』があるかもしれないと、思って。そんなピンポイントじゃ、すぐに否定が返ってきそうじゃない?」
言われてみればそうかもしれない。
「それで、ここ最近、気になることでもある?」
初子さんが改めて聞いて、顔をのぞき込んでくる。

気になること。

最近。

その二つから連想されるのは一つだった。
「初子さん、かな」
「それは光栄だね。どんなことが気になるの?」
「これから初子さんとどんな関係を築いていけばいいのか、気になる」
本人を目の前にして何を言っているのだろうと思ったけれど、口をついて出たものはしょうがない。

本心なんだし、何も後ろめたいことはない。
「友達ではダメ?」
「友達にもいろいろあるし」
「それもそうねぇ」
初子さんは上体をのけぞらして、うーん、とうなっている。

その体勢はきつくないのだろうか、とか、腰に負担がかかってるんじゃないだろうか、とか、つい心配してしまう。
「あなたはどんな関係を築きたいと思ってるの?」
初子さんは悩んだあげく、そう聞いてきた。

初子さんの顔をじっと見て、改めて考える。
「もっと、近づきたい」
その返事に、初子さんは満足したように笑った。
「なら、それでいいじゃない。私は、大歓迎よ」
初子さんのその表情を見ていると、自然と笑うことができた。
「ひとまず、家に来る? もっと近づくために」
「行く」
即答すると、初子さんはくすくすと楽しそうに笑った。

これでいいのか、とどこか胸がほっとする心地がした。

今夜は上手く眠れそうだ。

ものかき集団「A.S.K」で出されたテーマの小説です。



以下から小説の本文が始まります。



*****



ありふれることのない日々





「散歩に行きましょう」
バンッと机に両手をついて、勢い込んで妻がそう言った。

脚立に座って本の整理をしていた私は、思わず棚に戻そうとしていた本を落としてしまった。




「突然どうしたの? って今更聞いてもいい?」
「本当に今更ね」
私は整理整頓していたときのダボダボの茶色いセーターを着たまま、妻に連れられて外に出ていた。

妻があまりにも颯爽と歩くので、それに慌ててついていくと、黒縁の眼鏡が何度もずり落ちて、私は何度も眼鏡を押し上げる羽目になった。


妻は私の方を振り返って、呆れたような表情をしている。

妻は完璧なお出かけスタイルで、このまま高級レストランに入っても、誰にもとがめを受けないだろう姿だ。
「答えてくれない?」
「いいえ。答えるわ」
妻はそう言って、ぐいっと私のセーターの襟首を掴んだ。

突然のことに、私は目を丸くして固まる。
「あなた、一体何日外に出ていないか、わかる?」
剣呑な目を向けてくる妻に、私は思わず冷や汗が流れ、目を泳がせていた。
「……え、えーっと…」
「二ヶ月と十六日よ」
「……はい。そうです」
私はがっくりとうなだれた。

私の様子に満足したのか、それとも気に障ったのか、妻はセーターの襟首から手を離し、すたすたと歩いていく。

私は妻の後ろにとぼとぼとついて行く。
「いくら今の時代が外へ出なくても万事問題ないからといって、二ヶ月半も家から出たことがないなんて、きっとあなたぐらいだわ」
「……そう、だろうねぇ…」
「国が決めているでしょう? 最低でも一ヶ月に一回は家の外へ出て、太陽光を浴びて、植物から放出される酸素を吸収しなさい、って」
「……ごもっともで…」
「それなのにあなたはもう…」
妻はすこぶる不機嫌そうだった。

私は妻の言葉に二の句が継げない。
「さ、こっちへ行くわよ」
「どこ?」
「酸素供給場所よ。あなたは二ヶ月半も家の中の古い酸素ばかり吸収していたのだから」
太陽光を浴びたなら、次は新しい酸素をもらわないと、と妻は散歩を言い出したときのように意気込んでいる。

妻の堂々とした背中をじっと見た後、私は頭上を見上げた。

世界を覆う網の目から、太陽の丸い姿がのぞいていた。




「わ。人がいっぱいいる」
植物が群生している酸素供給場所には、人であふれていた。

植物から放出される酸素は、シャボン玉や泡のように透明な膜に包まれて空中に漂う。

一定の高さを越えると膜は割れ、(おそらく)酸素が空中に放たれる。
「ぐずぐずしていないで、あなたも酸素をもらってきなさいよ」
「うん」
妻に背を押されて、私は人があふれているところへ入っていく。

体がぎゅうぎゅうに押されて、眼前に腕や手が飛び交う中で、ようやく酸素球(膜に包まれた酸素のことをそう呼んでいる)を一つ取ることができ、人に押されてつぶされないうちに急いで呑み込んだ。

のどを通ったところで膜は割れ、肺に酸素が満たされ、ほうっと息を吐いた。


行きと同じようにぎゅうぎゅうに体を押されながら、人の集団からはい出てきた。

私が少しばかりぐったりしていると、妻が私の顔をのぞき込んできた。
「ちゃんと酸素を吸収した?」
「吸収した」
「そう。それじゃあ、ここから出ましょう。こんなに人が多いところにいたら気分を悪くしてしまうかもしれないし」
妻は淡々とそう言うと、私の腕を掴んで、酸素供給場所から出た。

このまま帰るのかと思ったが、妻の進行方向は家の方ではなかった。
「まだ行く場所があるの?」
「最初に言ったはずよ」
妻はそう言って、ジロリと私を睨む。

私は少し身がすくんでしまい、足取りが怪しくなった。
「『散歩に行きましょう』」
「あ、うん」
「散歩はまだまだこれからよ」
妻はもう一睨みしてから、進行方向に顔を戻した。

私はこわごわとしながらも、妻の隣に並んだままだった。




「この道、久々だ」
並木道を歩く。

並木と言っても、実際の木ではなくて、レプリカ。

それでもワサワサと枝葉を揺らし、葉っぱの青臭い匂いが鼻に届いてくる。
「葉っぱの色が変わってる」
「そうでしょうね。夏だもの」
レプリカと言っても、匂いはあるし、広葉樹ならば季節ごとに葉っぱの色も変わる。

実によくできていると思う。
「本物を植えればいいのにね」
「この町にそんなお金はないわよ」
バカねぇ、と言いたげな口調で妻は言う。
「本物の植物なんて、酸素供給場所だけで、手一杯でしょ」
「…そうだね」
淡々と告げる妻に、私はどこかもの悲しさを感じる。
「あなたが大事にしている書斎の本だって、どれもこれもレプリカの木を原料にしているじゃない」
「まあ、そうなんだけどね」
「そのくせ、本の内容はどれもこれも実際の植物のことが書かれてあるものばかり」
妻の言葉に、私は意外なものを感じ、彼女を見て首をかしげる。
「あなたは本当に、植物が好きなのね」
呆れたような、それでいて慈愛を含んでいるような、妻はどこか複雑な表情をしていた。

私はそれを見て、どこかむずがゆいような、でもどこかがゆるむような、そんな感覚を抱いた。
「それなのに、実際の植物を見ないで、部屋にこもってばかり。なんだか矛盾しているわよねぇ」
ジロリと妻に睨まれ、私は冷や汗をかいた。
「だって、仕方ないんだ」
「どういうこと?」
「酸素供給場所の植物を見ると、悲しくなるから」
私の言葉に、妻は目を丸くしている。

彼女がそこまで驚くのは珍しいことだった。
「……どういうこと?」
妻は眉をひそめて声を低くして聞く。

これは彼女が全くわからないときのくせだった。

私は正面を向いて、並木道に並んでいるレプリカの木々を見ていった。
「植物は、育つ場所を選べない。種を食べた鳥に連れられて、空中に放って風に飛ばされて、たまたまたどり着いた場所に根を生やす。それは岩に開いたかすかな隙間かもしれない。なかなか日が届かない深い穴かもしれない。それでも一度そこにたどり着いたなら、人の手が加わらない限り、その場所から移動することはできない。住処を自分で選ぶ訳じゃない。周りの環境を自分で変えられるわけでもない。無惨に踏み荒らされることもあるだろう。あるいは食い尽くされることもあるかもしれない。それでも、その場所で、生きていくしかない。そんな植物のあり方が、愛しいと思えるんだ」
だから、と続ける。
「人が最初から管理している酸素供給場所の植物を見ると、悲しくなるんだ」
私の方を見ていた妻も、正面に顔を戻す。

もうすぐで、並木道が終わる。
「人が管理している今は、植物は、どこにも飛ばされることはないものね」
だって、と妻は続ける。
「植物が育つ土は、もう、どこにもないんだから」
妻の声はどこか、ここにはいない、かつて存在した植物たちを、悼んでいるように聞こえた。
「やるせないね」
「やるせないわね」
妻と一緒にそう呟いて、並木道を歩き終えた。




「ところで、二ヶ月半も家にこもっていたんだから、研究は進んだの?」
トンネルの遊歩道を歩いていると、妻がそう聞いてきた。

私はギクッと体が震えた。

妻がジロリと私を睨む。
「まさか、進んでいないなんてそんなことは…」
「ないないっ。……これでもちゃんと進んでいるよ」
私は急いで否定した後、少し勢いを落として告げる。
「そう」
「でも、成果は聞かないで」
「そうする」
あっさりと言った妻が気になったが、ちらりと見ただけで私はそれ以上言わなかった。


トンネルの遊歩道は、壁面が液晶画像になっていて、今はもういない様々な野生動物の映像が流れている。

かつては存在し、現在はこの世に存在しない動物のことを思うと、これもまた、やるせない心持ちになる。

もしかしたら、そんなことを思うのは、おこがましいのかもしれない。
「あなたの研究は、必ずこの世界に必要とされる」
不意に妻が断言する。

私は一瞬虚をつかれて体が強ばった。

そっと妻の横顔を伺う。
「失ってしまった動物たちは、もしかしたらもう生まれてくることはないかもしれないけれど、植物たちは種としてまだ存在している。目覚めるのを待っている。あなたの土壌研究は、植物たちをもう一度この世界によみがえらせることにつながる。生態系の土台は植物だから、植物がこの世界に息づけば、また新たな動物たちが誕生する。この世界に、本物があふれる。もう、レプリカばかりの世界ではなくなる。それが、あなたが目指す世界の姿、でしょ?」
妻はそう言って横目で私を見る。

彼女の向こう側で、鳥たちが飛び交い、小動物がそれを追いかけ、さらに大型の動物がそれを追いかける映像が流れている。

その映像の中には、植物であふれている。

ああ、そうだ。

私は、もう一度、この世界に出会いたい。

触れたい。

感じたい。

生も死もないレプリカではなく、生と死がせめぎ合う本物に、この世界を埋め尽くしてほしい。
「うん。そのために、研究を続けている」
私の返事に妻はうなずく。
「あなたはそれでいいわ」
妻は淡々と述べる。

それでも、突き放すような声ではなかった。

私は妻の声に、ほっと息を吐いた。


トンネルを抜け、光が目に入る。

眩しくて顔の前に手でひさしを作る。
「映像じゃ、見飽きてしまうわ。早く、大地を再生させてね」
「うん。やってみせるよ」
「楽しみにしてる」
妻はどこかうれしげに、穏やかに笑った。

私はきっと、妻に本物を見せようと、心に誓った。

今はまだ、難しいところもあるけれど、妻に喜びと驚きを。


日が傾く前に家に帰る。

網目模様の太陽にしばしの別れを告げる。

次に太陽を見るのは、いつになるのか。

そのときはまた、妻が散歩に誘うだろう。


帰り途中だった。
「ザアァァァァァッ!」

夕立に見事に遭遇した。
「タイミング悪っ、私っ」
自分の不運を呪いながら、近くの電気屋に駆け込む。

電子機器に湿気は大敵だけれど、今回は致し方ない。

許していただこう。
「あ、めっずらしー」
聞き覚えがあるような声がして、私はそちらを向いた。
「あ、勝田」
「何してんの、本永。雨に濡れた?」
中学時代の同級生だ。
「ここが一番近かったから」
「ふぅん」
「勝田、ここでバイトしてるの?」
「そう見えない?」
勝田はあからさまに店の制服を見せびらかす。
「…仕事中なのに、客とおしゃべりしていていいわけ?」
「よくないよ」
さらっと答える。

私は脱力した。
「あんたさ、勤務態度、もう少し見直したら?」
「本永が店を出たらそうする」
嫌味なやつだ。
「あ、雨上がったよ。よかったね」
「あ、本当だ。じゃ、私はこれで」
「うん。じゃあね」
味気ない別れだ。
「本永」
呼ばれたので振り返った。
「明日、誕生日だっけ? 一足早いけど、おめでとう」
私は面食らった。
「なんであんたが私の誕生日を知ってるの!?」
「さてね」
言い返そうとしたが、勝田は別のお客に呼ばれて対応に当たってしまった。

私はなんだか気勢をそがれてしまって、そのまま店を出た。

十歩と歩かないうちに、また雨が降ってきた。

よし、と気合いを入れて、電気屋に駆け込んだ。

薪拾いに専念していたら、すっかり辺りが暗くなってしまった。
「参っただ。おっ父に叱られちまわー」
陸郎はせっかく拾った薪が落ちないよう、しっかり抱えて走った。
「林ん中は、ほんに真っ暗だ。急ご」
陸郎は月明かりと星明かりだけを頼りに、林道を進んでいく。
「なんで、こんな暗くなる前に、気づかんかっただ。おらの阿呆め」
陸郎は自分自身に苛立っていた。

と、その時だった。
「うひゃあ!」
目の前を黒い物体が弾丸のごとく飛び出してきた。
「なんだなんだ? うさぎか? 狸か? 狐か? 犬か?」
陸郎はあまりに驚いてしまって、腰を抜かし、薪を放り出してしまった。

月明かりで逆光になり、黒い物体の細かいところは見えなかったが、輪郭ははっきりとわかった。
「あわわわ」
陸郎はじりじりと後ろに下がる。

黒い物体は人の子どもの姿をしている。

だが、その頭の上には角が一本生えている。
「ひえー! 食わねえでけろー」
陸郎は頭を抱えてうずくまった。

陸郎の姿を見た鬼の子は、にい、と口角を上げた。

そして、
「ウケケッ、ウケケッ、ウケケッ」
現れたときと同じように、弾丸のごとく去っていった。

陸郎は呆然と鬼の子が去っていった方を眺めていたが、ふと上空を見上げた。

まん丸いお月様が今にも雲に隠れそうだった。

バサバサと強い風に煽られ本の頁が音を立てる。

安堂は小さな岩に腰掛け、強い風を背に浴びながら本の文字を目で追う。

彼の散切り頭が、強い風によってあちらこちらに奔放に舞い上がる。
「またかい、安堂。こんなところに来て」
背後からかけられた声に、安堂はうっすらと笑みを口元に描き、ゆうるりと振り返る。
「天狗殿が、ここへ来られると聞き及んでおりますので。是非ともそのご尊顔を拝したく」
「何度も言っているが、ここには狐の私しかいないよ。天狗は、ほれ、この風のとおり、遠くから力を使っているだけで、こんな人里に降りやしない」
「ですが、お狐殿、天狗殿とはお知り合いなのでしょう?」
「そりゃあね。お互い力を持つものだ。遠くはない知り合いさ」
「それでしたら、私が天狗殿にお会いしたがっていると、お伝え願えませんか」
「そんなもん、直接天狗がいる山に告げに行けばいいじゃあないか。私にわざわざ言伝を頼むことではないだろう」
狐の言葉に、安堂はゆうるりと笑みを深くする。
「それはもうすでに行っていることなのですよ、お狐殿。やはり天狗殿はこの風のように気まぐれな方。人間風情の私の言葉では、どうやら聞き入れてくれないご様子。どうですか、お狐殿。哀れな私に、一つ情けを下さいませんか」
安堂の言葉に、狐はピクピクと耳を動かす。
「そもそもなぜ天狗に会いたいなどと言うのだ? それを聞かねば、天狗に頼みようもないだろ」
狐が胡乱な眼差しで安堂に告げれば、それもそうですねぇ、と安堂は思案げにあごに手を当てうつむく。
「どうしても申し上げねばならないでしょうか?」
「なんだい、まさか口に出せない理由だとでも言うのかい」
「いえいえまさか。ただ私は天狗殿にのみ告げられたのならと、思っていただけでございます」
「ほぉう。私には言いたくないと」
「なにせ、心に秘めていたことにございますれば、あまり私の言葉を広めたくはないのですよ」
安堂の言葉に、狐は先ほど以上に耳をピクピクと忙しなく動かす。
「……安堂」
「なんでしょう、お狐殿」
「お前、天狗に会ってどうするつもりだ?」
「どう、と言いますと?」
狐は、すぅ、っと目を細め、頭を低くし、しっぽを立て、ぶわっと九尾に増やす。
「さて。どうするつもりなんだい、安堂」
狐の様子に安堂は楽しげに笑みを深め、すっと立ち上がり、片手に持った本をバラバラと風に遊ばせる。
「もちろん、私が捕らえさせてもらいますよ」
彼が掲げる本には、数々の妖怪達が、その姿を頁に映していた。


風はますます強くなり、安堂と狐の姿を舞う葉によって隠していった。

「へーた」
と、車いすに座った少女が俺を呼ぶ。
「何?」
俺は掃除をしていた手を休めて、少女の方を向く。
「あの花、何て名前?」
少女が指さすのは、少し離れた場所にある木だった。

その木に咲く花のことなのだろう。
「知らない。そういうこと、詳しくないから」
「へーたの無知」
「どこで覚えてくるんだ、そんな言葉」
俺は少し不満げな声で言うと、また掃除に戻る。

この病院の掃除が俺に与えられた仕事だ。

きちんとこなさなければ、給料泥棒だと言われてしまう。
「へーた。もっとお話ししようよ」
「あのさ、みゆきちゃん、掃除のおじさんに声をかけちゃダメだって、毎回言ってるだろう」
「へーたはおじさんの年齢じゃないでしょ。まだ二十代前半なんだし」
「とにかく、俺に話しかけるな、って」
「誰も見ていないんだからいいじゃない」
「そういう問題じゃなくて」
「へーたは私が嫌いなの」
「そういう問題でもなくて」
俺はどう言ったらいいのか、頭をかきむしって悩んでしまった。
「へーたのそういう表情、好き。感情むき出し、って感じで」
「そりゃどうも」
俺はむきになるのがバカらしくなって、脱力してしまった。
「へーた」
「何?」
「私ね、今回の手術が成功したら、来月には退院できるかもしれないんだって」
いきなりまじめな話になって、俺は思わず真顔で彼女を見てしまった。

彼女は無表情のまま、じっと俺を見ていた。
「そうしたらね、一度でいいから、私とデーとして」
至極真剣な表情だった。

俺はその表情から目が離せなくて、しばらく黙ってじっと見ていた。
「…一度でいいわけ?」
「今の段階では、一度でいいの」
謙虚なようでいて、実はずいぶん積極的な申し出のようだった。

俺は一つため息をついて、わかった、とうなずいた。
「手術が成功して、退院できた暁には、みゆきちゃんとデートするよ」
「ありがとう、へーた」
彼女はふわりと明るい笑顔を浮かべた。

どうにもこうにも甘くなってしまう自分に、苦笑を浮かべていた。

太陽の光が地面を焦がし、陽炎を生じさせている夏の午後。

中学二年生の男子二人は、制服を着て学校からの帰り道を歩いていた。

右が藤沢周平、左が小野田充。
「あっちー。周平、水持ってない?」
「学校で飲み干した。充、持ってこなかったのか? 今日は気温三十六度だって天気予報で言っていたのに」
「まじか!? あーあ、天気予報見ればよかった」
汗をだらだら流しながら、二人はなおも歩いた。
「この道をまっすぐ行った先に駄菓子屋があるから、そこでアイスでも買おう」
「お、いいね」
藤沢の提案に小野田は機嫌がよくなった。


首筋をじりじり焼きながら進んでいくと、目的の駄菓子屋に到着した。
「あ、島田」
藤沢は思わず声を上げた。

駄菓子屋の上がり框に二人と同じクラスの島田孝子がいた。

彼女は上がり框に座って、足下をうちわで扇いでいる。
「あ、藤沢くんと小野田くん」
藤沢の声に気づいて、島田は顔を上げた。

彼女はノースリーブの白のワンピース姿だった。
「学校行っていたの? 今日って登校日じゃないよね」
「補習」
小野田がぶっきらぼうに返事する。
「島田って、家、ここなのか?」
駄菓子屋に近づいて藤沢が聞く。
「ううん。私はこの子と仲がいいだけ」
「この子」が何なのかわからず、二人は島田に近づいた。


島田の足下を見てみると、白の地に茶の斑が入った猫が地面にべたっと寝そべっていた。

島田は猫に向かってうちわを扇いでいた。

猫は気持ちよさそうにしっぽをゆらゆらと揺らしている。
「島田、自分の足を扇いでたんじゃなかったんだな」
「うん」
三人の視線は猫に向けられていた。
「孝子ちゃん。誰か来たの?」
「あ、おばちゃん」
店の奥から駄菓子屋の店主がやってきた。

おばちゃんは藤沢と小野田を見ると、にっこり笑った。
「何が欲しいのかな?」
「バニラアイスバーください」
「俺はガリガリ君」
先に注文したのが藤沢、あとが小野田。

おばちゃんは二人にアイスを渡し、代金を受け取るとまた奥に引っ込んだ。
「おばちゃん、どうしたんだ?」
藤沢が心配げに島田に聞いた。
「暑気あたりだからあまり動きたくないんだって」
島田は肩をすくめた。

うちわを扇ぐ手は休めていない。


藤沢と小野田は溶けないうちにアイスにかじりついた。
「あー、生き返るー」
小野田はほうっとため息を吐いた。

島田が楽しそうに二人を見ている。

そのとき、三人の上空で飛行機が音を立てて進んだ。

三人は空を見上げる。
「高いところで飛んでるなー」
「今日は雲がほとんどないから、一段と高いねー」
「それにしては音がはっきり聞こえるから不思議だ」
三人はしばらく見上げたあと、顔を戻した。
「んじゃ、そろそろ行くよ」
ガリガリ君をかじりながら、こもった声で小野田が言った。
「うん。じゃ、二学期にね」
島田はうちわを持っていない方の手で、二人に手を振った。

藤沢と小野田も、アイスを持っていない手で彼女に手を振って、歩き出した。
「やっぱ、アイスはうまいよなー」
小野田は満面の笑顔でアイスを食べている。

藤沢も同意するようにうなずいている。

ふと、藤沢は駄菓子屋を振り返ってみた。

島田は、猫にうちわで風を送りながら飛行機を見上げていた。

彼女は目を細めて、口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。


横顔がきれいだな、と思った。