高校の昼休みになった。

教室の窓際に座っている二年生女子生徒は、鞄の中から弁当と紙パック牛乳を取りだし、机に置いた。

紙パックにストローを刺し、ズズッと音を立てて飲む。

一口飲んで机に置き、弁当のふたを開ける。

主食は五穀ご飯、主菜はシューマイ、副菜は春菊の白和え。

パクパクと口に入れていく。

時折、ズズッと牛乳を飲む。

女子生徒の表情はあまり変わらない。

美味しいのか美味しくないのか、彼女の表情からは判断できない。


女子生徒は口にご飯を入れたまま、たまに窓の外を見る。

ベランダがあるのでグランドは見えないが、空は見えるため、空を見上げている。

この日は天気が良く、薄い雲が上空にかかっているだけだ。

口を動かすことはやめないが、どこかボーっとしている雰囲気が漂っている。

彼女に話しかける生徒はいるが、一言二言で会話が終了する。

女子生徒は特別無口というわけではないが、食事時は口数が極端に減る。

食事を楽しむという感じではない。


食事を終えて、ズズーッと牛乳を飲み干していると、彼女のそばの窓が、コンコン、と叩かれた。

彼女がそちらを見てみると、隣のクラスの男子生徒がいた。

ベランダを伝って来たのだろう。

彼は右手に弁当箱を持っていた。

女子生徒は窓を開け、机を窓の下に横付けする。

男子生徒は机に弁当を置き、包みを開ける。

女子生徒は昼食が終わったため、机に突っ伏して昼寝の体勢に入っている。

男子生徒はそれを気にすることなく、窓辺に寄りかかったまま弁当を食べている。

女子生徒からはまもなく寝息が聞こえてきた。

男子生徒は彼女の様子を見ながら、うっすらと微笑みを浮かべている。


男子生徒は弁当を食べ終わると、窓を乗り越えて教室に入ってきた。

その動きにも女子生徒は目を覚まさない。

男子生徒が軽く女子生徒の背中を叩くと、うなり声を上げながら女子生徒が目を覚ました。

一つあくびをし、のびをする。

男子生徒は、弁当の包みの中に入っていた紙パック牛乳を取りだし、女子生徒に渡す。

女子生徒はそれを受け取ると、ストローをさして、またズズーッと飲み出した。

男子生徒は教室の前扉付近にある時計を見る。

昼休みはあと十分ほど残っていた。

女子生徒は一気に牛乳を飲み終わると、机の脇にかけている鞄に手を突っ込んだ。

男子生徒がじっと見ていると、女子生徒はまた紙パックを取り出した。

今度は緑茶と書かれている。

それを男子生徒に渡した。

男子生徒は受け取ると、女子生徒のようにストローでズズーッと飲んだ。

女子生徒はその様子を眺めながらも、男子生徒の背後に広がっている空を見上げていた。

雲はまた一段と薄くなっていた。

男子生徒も、彼女の視線に気づき、ストローをくわえたまま、背後を振り返った。

視界一杯に青空が広がり、今日は一日中晴天を予感させた。

種々雑多の風鈴を吊した荷台が、涼やかな音を響かせながら大路を進む。
「風鈴ー、風鈴ー。風鈴はいらんかねー」
年老いた男が、見かけに寄らず辺りに響く声で呼びかける。
「ケケッ。あいつ、今年は風鈴か」
人家の屋根の上から風鈴売りの男を見ていた少年が、口元に笑みを浮かべ言う。

少年は見かけ人間の子どもだが、目の瞳孔は爬虫類のように縦細くなっている。
「さて、今年もあいつからたんまりくすねるか。ケケッ」
少年が楽しげにそう言うと、シュンッと少年の姿が掻き消えた。
「風鈴ー。風鈴はいらんかねー」
男の荷台に吊している風鈴は、徐々に人々の手に渡っていく。




深夜。

風鈴売りは、昼間通った大路を今度は身一つで通っている。

右手には風鈴が掲げられている。
「風鈴ー、風鈴ー。わしの風鈴は何処やー」
進みながら男がそう言うと、所々で、ちりんちりん、と澄んだ音が聞こえてくる。

男が持つ風鈴も共鳴するように、ちりん、と音が鳴る。


しばらくそうして進んでいると、一際甲高く澄み渡った音色を響かせる風鈴の音が聞こえてきた。

男の持つ風鈴も同じような音を響かせる。

男はそれを聞き、さもうれしそうな笑みを浮かべる。
「そうか、そうか。そこにいるのか」
男は弾むような口調で、音の出所へと向かう。

と、そのとき、
「ケケッ、ケケッ」
黒い影が男の前を素速く通り過ぎる。

男は、はっとして、影の方に顔を向ける。
「蜥蜴!」
男は瞬時に苦々しげな表情を浮かべる。
「ケケッ、ケケッ」
蜥蜴と呼ばれた黒い影は立ち止まると、くるりと風鈴売りの方を向く。
「美味い御霊を、風鈴の音で教えてくれるのだろ。また面白い方法を思いつく御仁だ。だが、その労苦も、おいらがくすねてしまえば無駄だがな。ケケッ、ケケッ」
蜥蜴はまた跳ねるように路地を駆けていった。
「待て、蜥蜴! お前には一つもやらんぞ!」
風鈴売りは慌てて蜥蜴を追いかける。
「無駄だ無駄だ。お前なんかじゃ、おいらには追いつけねえよ。ケケッ」
風鈴の音が夜の路地に響き渡る。

一つ、また一つと。


遠くの喧噪が恨めしい。
「ねえ、お母さん、お祭行っちゃダメ?」
「ダメに決まってるでしょ。あんた、夏風邪引いたのよ?」
ベシッ、と額にタオルを乗せられて、私はむくれた。
「怒るんだったら、お腹出して寝ていた自分を怒りなさいよ」
まったくだ。

私は顔の半分まで布団をかぶった。

自分に呆れてため息も出ない。


ピンポーン、とチャイムが鳴って、お母さんが玄関へ行った。
「あら、真智子ちゃん。いらっしゃい」
お母さんの言葉に私は目を丸くした。

そうこうしている間に真智子が私の部屋にやってきた。
「美月ちゃん、調子どう?」
「…最悪」
私は鼻声だった。
「真智子、どうしたの? 今日、お祭行ってるんじゃなかったの?」
「だって、美月ちゃんいないし」
当然、とばかりに真智子は言い切った。
「ねえ、その鞄、何?」
「あ、これね」
真智子はうれしそうに、大きな鞄からゴソゴソと何かを取り出している。
「さあ、寄ってらっしゃい、遊んでらっしゃい」
ポンと床に置いて、そんなことを言った。
「何それ」
「輪投げ屋」
「作ったの?」
「もちろん」
それは、図画工作で作るような紙でできた屋台だった。

私は思わず大笑いした。
「さあ、美月ちゃん、笑ってないでどんどん遊んで。まだまだお祭はこれからよ~」
真智子は次々に紙製の屋台を取り出していった。

射的、金魚すくい、ヨーヨー釣り、お面屋、などなど。

私はなかなか笑い止まなかった。

「こんちゃん、今から出かけよ」
突然幼なじみのよーくんがやってきたかと思うと、そんなことを言われた。

そして、私が返事する時間もなく、よーくんの自転車の後ろに乗せられていた。
「よーくん、今、夜中だよ。お母さん達に怒られちゃうよ」
「大丈夫。僕がちゃーんと説明するから。こんちゃん、しっかりつかまっていてね」
よーくんはぐんぐんスピードを上げていく。

私はよーくんの背中にしがみついた。
「こんちゃん!」
「何っ?」
「上見て、上!」
よーくんに言われたとおり、私は上を見た。

そして、
「わあーっ!」
思わず笑顔になった。

空は一面の星、星、星。
「すごいすごーい! 星がいっぱいだー!」
「今日はお月様が出ない日なんだよ。だから、お月様の光で隠れちゃった星も、今日は見えるんだ」
息が切れ切れになりながらも、よーくんは教えてくれた。
「すごいね、よーくん。よく知ってるねー」
「えへへ。僕、好きなんだ、星」
よーくんはうれしそうに笑っている。

私はまた夜空を見上げた。

まるで砂をまいたみたいに星が散らばっている。

とってもきれいだった。
「到着ー」
小高い丘に着いて、自転車は止まった。

私とよーくんは自転車から降りて、その場所から町と空を見た。
「町もきれいだねー」
家の明かりがぽつりぽつりと灯っていて、星に似ていた。
「こんちゃんにね、見せたかったんだー」
よーくんは、にぃ、と笑っている。

私も同じ笑顔を向けた。
「こんちゃん、気に入った?」
「うん、すっごく」
「よかったー。こんちゃん、僕ねー、この町からいなくなるんだー」
何でもないことのように、よーくんは言った。

私は表情が固まって、その次には笑顔が消えた。

私の顔はゆがんで、ボタボタと涙がこぼれてきた。

涙を通して見る星空は、さっきよりもキラキラしていた。

電気屋の前を通ると、今日から梅雨入りだと、テレビで言っていた。

よくよく空を見ると、水気をたくさん含んだ雲がひしめいている。

肌に水分が張り付いているような気もする。

この日は天気予報も空模様も見ずに家を飛び出したから、傘を持っていなかった。

近くのコンビニエンスストアに入って、ビニール傘を購入する。

店を出ると、雨が降っていた。

間に合った、と思って目線を上げると、目の前のビルの屋上に人の姿を見つけた。

髪の長い女性。

白のカーディガンと白のスカート。

屋上の際に膝を抱えて座ってこちらを見下ろしている。

傘は差さずに濡れている。

あんなところに? と思って、店の前でしばらく女性を見ていた。

すると、女性も俺に気づいて、俺をじっと見てきた。

視線がそらせなかった。

お互いじっと見つめていると、突然女性が、にたあ、と口元に笑みを浮かべた。

俺は思わずぞっと寒気がした。
「お客さん、いつまでそこにいるんです?」
はっと振り返ると、コンビニの店員が目をつり上げて注意してきた。

俺は急いで傘を広げて店をあとにした。

先ほどのビルの屋上を見上げると、女性はそこにいなかった。




それからは何故か体が重くなったような気がした。

湿気のせいかもしれないな、と思いながらも、ビルの屋上で見た女性の姿が頭をちらついた。


重い体を引きずりながら家に入ると、飼い猫が床にぐでー、っと伸びていた。

猫は水や湿気が苦手だと聞いたが、どうやら本当らしい。

レトルト食品で夕食をすませ、風呂に入って早々に寝床に入った。

湿気で体がべとべとして寝付きにくかった。

ようやく眠りの淵に入ったとき、また体が重くなった。

寝ようとするまぶたを押し上げて、目を開けた。
『そなた、名は何と申す?』
目の前に、ビルで見た女性の顔があった。

体が重い。

女性が乗っているからだ。

息苦しい。

女性の手がのどを押さえている。

女性がさらに顔を近づける。

息がかかる距離だ。

女性の髪の毛が顔に当たる。

ぬるっとしている。
『そなた、名は何と申す? さあ、申されよ』
申せと言いながら、女性はさらにのどを押さえてくる。

呼吸ができない。

俺が苦悶の表情を浮かべると、女性は、にたあ、と笑んだ。

そして、ぐっと顔を近づけて、額と額が当たった。

女性の水面のような目しか見えない。
『申せぬのならば、そなたと一つになろうぞ。さすれば名も知れよう』
ずず、と音がした。

女性の手が俺の首の中に入った。

俺は目を見開いて暴れようとした。

だが思うように体が動かない。

そうこうしているうちにも女性の目が迫ってきている。

俺の頭の中に、女性の頭も入ってきているのだ。
『さあ、名を教えよ』
女性の目と俺の目がくっつきそうになった。

寸前、べりっと女性がはがれた。

驚いて起きあがると、猫が女性に飛びついている。

噛み付き、引っ掻き、女性を攻撃する。
『ぎゃあー!!』
女性は叫び声を上げると、体が透明になり、形を失い、水のようになって窓の隙間から飛び去っていった。

俺はおそるおそる窓辺に寄って、外を見た。

雨が降っている。

女性の姿は見あたらなかった。

猫が寄ってきて、俺の手に頭をすりつけた。

その日は猫を抱きしめて眠った。


雨に紛れて、異形の物もやってくる。

その日はそれが身にしみた。


店内をデッキブラシでゴシゴシと掃除する。

下を向くたびに汗がしたたり、目に入るため、何度も目元を袖でぬぐう。
「うぅ。まだ掃除が終わらないなんて…」
「きりきり働けぇ」
気が抜けるような声をかけてきた主にギロリと目を向ける。
「だったら少しは手伝ってくださいよ。あなたの店でしょ?」
窓際にいた店長は振り返ってにやりと笑う。
「この私に働けってのかい?」
店長の顔を見て、ぐぅ、とうなり声を上げる。
「葵。さっさと手を動かしな」
「はぁい」
葵の返事に店長はふふんと笑い、ひげをピクピクと震わせ、しっぽをゆらゆらと揺らす。
「雇い主が猫とか…。本当、掃除で使えないし…」
「今更文句を言うんじゃないよ」
茶トラの店長は、嫌だねぇ、と呟きながらも、窓際から動こうとしない。
「店長ぉ。せめて私の視界に入らないでくださいよー。やる気が失せるじゃないですかー」
「そりゃ、私のせいじゃなくて、葵の気力のせいでしょうに。責任転嫁するんじゃないよ」
店長の返事に、ぶぅ、と葵は不満げに息を出す。

これ以上文句を言えばまた何か言われそうだと思い、葵は掃除の手を動かす。


しばらく葵が立てるデッキブラシの音しか響かない店内で、ピシピシと何かを叩く音が聞こえてきた。

音の出所はどこだ、と葵が顔を上げて店内を見回すと、店長がしっぽで壁を叩いている音だった。

店長は窓にへばりつくようにして外をじっと見ている。
「店長ぉ。何見てるんですかー?」
葵が気になって窓から外をのぞくと、ちょうど店の前を一頭の黒い犬が飼い主に連れられて散歩しているところだった。
「いつ見ても、いい男だねぇ」
店長がうっとりとして呟く。

葵はそんな店長に胡乱な眼差しを向ける。
「店長、相手は犬でしょ」
「いい男に種族は関係ないんだよ。人間のお前にはわからないかねぇ」
ああ、今日もまた凛々しい顔つきで素敵、と呟く店長の目は恋する乙女のものだった。

葵はそんな店長をじっと見たあと、はぁ、とため息をつく。

女は種族関係なく、誰でも恋する乙女になる可能性がある。

店長を見て、葵はそんな格言を思いついた。

格言と呼べるかはわからないが。

「鱗がほしいな」
水族館の水槽を眺めて、三笠さんがぼんやりと呟いた。
「鱗?」
「そう、鱗。できればうんと大きな鱗」
水槽の中にいる魚たちを目で追い、三笠さんはやっぱりぼんやりと答える。
「ここにいる魚たちじゃ、三笠さんの望みは叶えられないかも」
「そうだよねぇ。みんな鱗が小さいもん。もっと、大きい鱗を持っている魚、いないかなぁ」
三笠さんはそう言いながらも、魚たちから目をそらさない。
「俺が作ろうか?」
「新市くんが?」
このとき初めて三笠さんが俺の方を向いた。

少しびっくりした目をしていた。
「魚たちの鱗を集めて、どうにか溶かして固めて、大きな鱗にするんだ」
「なるほどねぇ。できるの?」
「やってみないとわからないけど」
「そっかぁ」
三笠さんは俺の話に飽きたのか、また水槽に目を戻した。
「一枚だけでいいのに。一枚だけ、大きな鱗がほしい」
三笠さんの目は、どこか、水槽も魚たちも通り越して、遠いところを見ているようだった。

それを見て、なんだか途方に暮れたい気持ちになってしまった。
「新市くんは優しいね」
突然言われた言葉に、一瞬、反応が遅れた。

三笠さんを見てみても、俺の方は向いていなかった。
「私はきっと、新市くんほど、優しくなれない。私に対しても、新市くんに対しても」
「そんなことないよ」
「嘘ばっかり」
三笠さんは俺の方を向いて、やっぱりぼんやりと俺の目を見つめていた。
「私が優しくないってこと、新市くんが一番実感しているくせに」
責めるわけでも、自嘲するわけでもなく、三笠さんはぼんやりと呟いていた。

それがどこか、悲しいような心地になってしまった。
「三笠さんは、鱗が手に入ったらどうするの?」
「光にかざす。そして、世界が七色に輝いているのだと、自分に思いこませるの。鱗が大きければ大きいほど、そう思いこませやすいから」
水槽に視線を戻しながら、三笠さんは答える。

俺はじっと三笠さんの目を見てみた。

水族館の照明と、水槽内の照明に反射されて、七色の色合いを見せていた。

きれいだと思ったけれど、伝えることはしなかった。

三笠さんはきっと、ここじゃないどこかに思いをはせている。

それを、邪魔できる勇気は、俺にはなかった。

雨降りの中を走る。

傘はない。

スーツはびしょ濡れ、頭上に掲げた鞄も雨がはねて流れて、結局は濡れる。

左右に必死で視線を巡らす。

雨宿りできる場所は。

見つけた。

バスの停留所。

雨足は強くはなく弱くはなく、だが、間断なく降り続く。

スーツのズボンの裾は、アスファルトに混じる砂で汚れる。

緑化運動でそこかしこにあるプランターの砂からのものだろう。


停留所の屋根の下に入る。

全身ずぶ濡れ。

整髪剤はすべて流れた。

目にかかる前髪を左右に分ける。

濡れて重くなった鞄を停留所のいすに置く。

ベシャッと嫌な音がする。

この日は仕事の書類を会社に置いてきたからよかった。

だが、手帳は悲惨なことになっているだろう。

買い直さなければ。


今更雨宿りをしても遅い気がするが、雨の中を走り続けるのはなかなか疲れる。

小休止がほしかった。


停留所の柱に寄りかかって前方を見つめる。

雨はまだやまない。

目の前に広がる世界が、すべて灰色にかすんでいる。

髪の毛から、スーツの裾から、雨の滴がポタポタと落ちる。

何気なく辺りを見つめていて、はたと気づく。

誰もいない。

道を行く人も、車も、バスも、何もいない。

ゆっくりと首を巡らす。

動くものは、雨だけ。

世界が、とまっている。


ツー、とこめかみを滴が流れる。

雨とは違う。

全身ずぶ濡れで冷えているはずなのに、汗が、流れる。

耳の後ろに巡っている血管が、ドクドクと脈拍を早める。

ここから動きたいのに、足が動かない。

膝が笑っている。

歯の根が合わない。

疲れたのか?

寒いのか?

違う、これは。
「お迎えに上がりました」
危うく悲鳴を上げるところだった。

変に悲鳴を飲み込んだから、のどに空気がつまり、勢いよく咳をする。

右耳に直接送り込まれたような声がした。

ゆっくりと、体を強ばらせ、瞬きなど忘れ、首を右に回した。
「お迎えに上がりました」
妙齢の女性だった。

柔らかい黄色みがかった白い着物に、金色の帯を締めた姿。

立ち姿はしゃんとし、髪の毛も一本のかんざしできれいにまとめている。

間断なく雨が降っているのに、女性は少しも濡れていなかった。

女性の姿を見た状態で、体が固まる。

少しも動いてくれない。

震えてもいない。

ただ、汗だけが休むことなく流れ続ける。
「どうぞ、こちらへ」
女性はそう言うが、何も動作をしていない。

だが、女性の言葉と同時に、女性の着物の左胸元にある絵柄に視線が吸い寄せられた。

一艘の屋形船の絵柄。

じっと見つめると、屋形船がゆらゆらと揺れた。

錯覚だ、そう思いたいのに、揺れを感じた瞬間、視界が真っ暗になった。
「あなた様をお連れいたします」
先ほどの女性の声が聞こえる。

どこへ、と聞こうとしたが、口が開かなかった。

体はどこかに横たえられ、ゆらゆらと揺れている。

ゆりかごのような心地がし、いつのまにか、快く意識を手放していた。

あとはもう、何も感じない。

「各種花火詰め合わせ」
武田はそう言って、私の腕の中にその袋を押し込んだ。
「えっ、ちょっ、これ、どうするのっ?」
「お友達を呼んでお楽しみください」
妙に丁寧な言葉遣いで武田は言うと、さっさと廊下を歩いていった。
「は!? ちょっと、武田!」
私は慌てて武田を追いかける。

歩くのがなんて速いやつなんだ。
「武田!」
私はちょっと息を切らして武田の腕をつかんだ。

武田はきょとんとして私を振り返る。
「この花火、どうして私にくれるの?」
武田は私を見て首を傾げている。
「美原さん、今年の花火大会、行きそびれたって、聞いたから」
「は?」
「『この際、線香花火でも何でもいい。花火が見たい』って、言っていた」
私はしばらくポカンとして武田を見ていたけれど、次第に体が震えてきた。
「見てたの?」
「正確にはのぞいた」
「趣味悪い!」
バスッ、と花火の袋を武田に押し戻した。

武田は動じることなく袋を手にしている。
「こういう花火って、憂さ晴らしには案外丁度いいんだよ」
そう言って、また私の腕の中に押し込んだ。

私は自分の顔がゆがんでいくのを感じた。
「美原さん、俺でよかったら、彼氏になろうか?」
「あんたみたいな趣味の悪い男は願い下げ」
「だよなー」
私と武田は並んで廊下を歩いた。

プールの中を泳ぐのは気持ちいい。

囲いの中を行き来するのは安心できる。

海で泳ぐのは好きじゃない。

どこまでも続いていて、どこまで泳げばいいのかわからなくなる。

プールは好き。

壁にぶつかったらターン。

またぶつかったらターン。

その繰り返し。

それが何より落ち着く。
「川村ー。いつまで泳いでるのー?」
同じ水泳部の子が声をかける。

ザバッと水面に顔を出す。
「アイス一緒に食べに行かないよー」
「わー! 今行くー」
急いでプールから上がる。

私の様子に呆れているけれど、タオルを渡してくれた。
「ありがと、沢木」
フカフカのタオルが気持ちいい。
「川村って本当、プール好きだよねー」
「うん。いつまででも泳いでいたくなっちゃう」
「私はそこまでないわね」
理解できない、と沢木の顔に書いてある。
「水泳部がそんなんでどうするのよ」
「私は単にカナヅチになりたくなかっただけだもん」
今度は私が呆れた。
「それに、泳いだあとのアイスは最高だからね」
沢木は満面の笑みだ。
「それには賛成ー」
「でしょう? だから、川村早く着替えてよ」
「はーい」
私は少し未練がましくプールを振り返る。

またおいで、と誘っているように、水面がキラキラと輝いている。

私はプールに向かって、にっこりと笑った。

明日もプールと一体になろう。

*****


手始めにまず一作。