A.S.K.の幻の創刊用となってしまった作品です。

季節はずれのテーマですが、そこはお気になさらず。

ようやくお披露目する機会に恵まれましたので、ここに掲載します。

以下から本文が始まります。




*****




雪を待っていたわけではないけれど




聡美(さとみ)は肌寒さに目が覚めた。

ぶるりと体を震わせて布団から出て、急いで手近にあった上着を羽織る。

ああ、寒い、と呟きながら、冷たくなった階段を下りる。

何か温かい飲み物はないだろうか、と台所に向かう。

ふと、家の中だというのに風の流れを感じた。

どこかの窓でも開いているのだろうかと、居間のあるふすまを開けた。

開けてすぐに、縁側に通じる障子が開けられていて、なおかつ縁側の窓が開いているのを発見した。

その開いた窓の縁側に、彼女の四つ年上の兄・浩一がしゃがんで座っていた。

浩一は外を向いていたが、頭が下がっているため、地面を見ているのだろうと、聡美は推測した。

外をよくよく見てみると、雪がパラパラと降っていた。

降り始めたばかりなのだろうか。

その量は決して多くなかった。

聡美は外から視線をずらして、もう一度しゃがんでいる兄の背中を見る。

浩一の短い黒髪が、寒風に煽られ、はらはらと揺れている。

聡美は地面を見つめてしゃがんでいる浩一に、声をかけた。






「ねぇ、何をしているの」
相模成(なる)は突然背後からかけられた声に慌てて振り返る。

短髪で黒髪の上級生男子が彼女を見下ろしていた。

成はしゃがんでいたため、必然的に彼を見上げる形となっていた。
「何…、と言われましても…」
「何をしているの」
たたみかけるように彼は聞く。

成は困ったような表情を浮かべて、足下の地面に首を戻す。
「ええっと…、片づけ、です。鉢植えが、この有様なので」
砕け散った鉢を拾い、中身の植物は土ごとビニール袋に入れる。

その作業の途中だった。
「それ、プラスチックの鉢植えだよね」
「ええ、まあ…」
「どうしたらそんなに粉々になるの」
抱えていて落としたり、蹴躓くぐらいじゃ、そんなに砕けないよね? と彼が不思議そうに重ねて聞く。

成は言っていいものかどうなのか、少しばかり迷った。
「嘘はつかないでよ」
そう釘を刺されたからには、成は本当のことを言わなければならない。
「……この鉢植え、担任の先生に頼まれてうちの家から持ってきたんです。

 うちの家、花屋をやってまして。

 何か売れないものがあったら教室に飾ってくれって言われて。

 なにか、先生達の間で教室に緑を増やそうとかいう話が持ち上がったそうで、それで、私に頼んできたんです。

 で、先生に言われたから仕方ないか、と思って、母に売れない鉢植えをお小遣いと引き替えにもらったんです。

 売れない鉢植えですからね、あまり形とか色がいいとは言えないんですよ。

 それを教室に飾ったら、クラスの子が、こんな気持ち悪い植物置くな、って言って、窓から投げ落としたんです」
で、この有様になりました、と成は締めくくった。

ふぅん、と上級生男子は答えた。

もう少し反応があっても良さそうではないだろうか、と成は思ったが、これでこの先輩は立ち去るだろうと思い、作業に戻った。

冷たい風が吹く中、冷たい鉢と冷たい土を素手で触るのは、なるべく早く終わらせたかった。

作業を終えて立ち上がり振り返ると、上級生男子はまだそこにいた。

その事実に成は驚き、目を丸くして彼をまじまじと見つめてしまった。
「作業は終わった?」
「え、あ、はい」
「じゃあ、こっちにおいで」
「は?」
「さっさとついてきてよ」
「え、あ、はい」
成は訳がわからないまま、足早に歩く彼の後ろを小走りについて行った。




彼は校舎に入り、三階の図書室へ行く。

もう下校の時間になっているため、図書室は開いていない。

なぜここへつれてきたのだろうか、と成は内心で首をかしげる。

上級生男子は鞄から鍵を取りだし、図書室を開け、中へ入っていく。

え、なんで、と思いながら、成は一連の動作を見ていた。
「入って」
彼に促され、こわごわと中に入る。

先生の許可なく勝手に入っていいのだろうか、と成は背後をちらちらと気にしていた。


上級生男子はカウンターの横の扉へ行き、また鍵を開けて中に入る。
「こっち」
彼に呼ばれて、失礼しまーす、と言って成も中に入る。

おそらくここは準備室だろう。

段ボールに入ったままの本と、簡易キッチンがある。

図書準備室なのになぜキッチンがあるのだろうかと成は不思議に思った。
「この学校の創設者が大の本好きでね、何か口に入れながら本を読みたいと思ったらしくて、キッチンが備え付けられているんだよ」
成の不思議そうな顔の理由がわかったのか、上級生男子がそう説明した。

彼は簡易キッチンでやかんの水を沸かしている。

緑茶の缶を取り出しているから緑茶を入れるのだろう、と成は推測する。
「その辺のいすに座って」
「え、あ、はい」
「ああ、あと、そっちの植物、貸して」
「え、なんで」
「貸して」
有無を言わせない物言いだった。

成は訳がわからなかったが、おそるおそる植物が入ったビニール袋を渡した。

彼はビニール袋を受け取ると、キッチンから出て備え付けの棚の引き戸を開け、中からプラスチックの鉢を取りだした。
「なんで、図書準備室なのに鉢があるんですか?」
「図書室にも植物を飾っているからね、花瓶や鉢の予備はここに入れるんだよ」
なるほど、と彼女はうなずいた。

上級生男子は手際よく植物を鉢に移した。

小さなじょうろも同じ棚の中にあり、キッチンから水を入れ植物に水を与える。
「これは準備室に飾るよ。もったいないし」
「え、あ、あの、ありがとう、ございます…」
淡々と言う上級生男子に、成はしどろもどろになりながら礼を言う。

やはり花屋の娘、植物を飾ってくれるというのはうれしい。

成はうっすらと笑みを浮かべていた。


やかんから音がして、上級生男子は湯飲みに緑茶を入れる。

熱いから、と言いながら長机に置く。
「えっと、ありがとうございます」
「どうも」
成はフーフーと息を吹きかけて緑茶を飲む。

冷えた指と体に暖かさが染み渡る。

ほうっとため息をついていた。
「美味しくて温かいです」
「そう。よかったね」
それまで終始無表情だった上級生男子がうっすらと笑った。

きれいに笑う人だな、と成は思った。
「日野浩一」
「え」
「僕の名前。言ってなかったから」
「あ、はい。えっと、相模成です」
「一年生?」
「はい。えっと、先輩、ですよね?」
「見ればわかるでしょ」
「…まあ、はい。二年生ですか?」
「そう」
現在男子の制服は、二、三年生は紺色のブレザーで、一年生からブレザーが替わり、ベージュ色になっていた。

ちなみに女子の制服はブレザーがベージュ色、スカートが紺色で変わっていない。
「あの、日野先輩」
「何」
「植物、どうして飾ってくれるんですか」
「もったいないって言った」
「その理由だけなんですか?」
「不満?」
「……よく、わからなくて」
本当に、その理由だけなのだろうか、と成は疑っていた。

浩一は成をじっと見た後、棚に置いた植物の葉に触れる。
「中学生の行動ってえげつないよね」
そう思わない? と浩一が聞く。

成はどう返事をすればいいかわからず、困った顔で浩一を見つめる。
「植物に罪はないし、君にも罪はない」
浩一は少しばかり首をかしげ、成をじっと見る。
「植物自体も、君の行動も、えげつない行動に消されるのは、もったいないからね」
だから、ここに飾る、と浩一は続けた。

成は浩一の言葉に呆然とし、彼をじっと見つめたままだった。
「もう暗くなったから送るよ」
そう言いながら浩一は立ち上がり、湯飲みを持ってキッチンで軽く洗った。

その一連の流れを見ていた成ははっとして、ガタッと音を立てていすから立ち上がる。

その音に浩一が振り返る。






教室の中に成がいた。

ガタッと音がしたのが気になり、浩一は通り過ぎた教室を振り返っていた。

教室を確認すると二年三組と書いてあり、成が在籍するクラスだとわかった。

成はガタガタといすの音を立てて立ち上がり、鞄を急いで手に持って、浩一のところへ駆ける。
「日野先輩、まだ学校にいたんですか」
「図書準備室で勉強していたからね。君こそ、こんな時間まで何をしていたの」
もうすぐ下校時間だし、君、部活も委員会も入ってないよね? と浩一が聞くと、成は、うっ、と言葉に詰まってあちらこちらに視線を泳がせていた。

浩一は少しばかり首をかしげて彼女をじっと見下ろす。
「嘘はつかないでよ」
浩一がそう言うと、成は眉尻を下げ、口をへの字に曲げた。

日野先輩のその言葉、逆らえないんですよねぇ、と呟いてから、成は渋々話し出す。
「えーっと、今日は、その、先頃のテストが芳しくなかったため、補習をしていまして。

先生がプリントを用意してくださったんですが、私、なかなか解くことができなくて。

途中まで先生が一緒にいてくれたんですが、先生も忙しいようだったので、プリントが埋まったら提出するように、って言って出て行ってしまって。

で、つい先ほどプリントを埋まらせて提出してきて、教室に帰ってきたんです。

そのまま帰ってもよかったんですけど、頭が疲れたので、一眠りしてから帰ろうかなぁ、と思って、さっきまで机に突っ伏してうつらうつらしていました」
成の話を聞いて、ふぅん、と浩一は答えた。
「よく、僕がここを通ったってわかったね」
「え」
「いすの音が聞こえたから僕は立ち止まったし、教室に人がいたのは気づかなかった」
君は寝ていたのによく気づいたね、と続けると、成は困ったような顔をして、うーん、とうなった。
「完全に眠っていた訳じゃないし、廊下側を向いて寝ていましたから。それに、先輩の気配は間違えないです」
絶対、と成は強調する。

ふぅん、とまた浩一は呟いて、首をかしげる。
「これから帰るんだよね?」
「え、あ、はい」
「じゃあ、送るよ」
「いいんですか?」
「もう暗くなるよ。女の子の一人歩きは危険でしょ」
僕はそんなことをさせるような人でなしじゃないよ、と言うと、そうですね、と成から同意があり、浩一は少し肩すかしを食らった。



続く


私の町には人食い蝙蝠がいる。

実際に食べられた人はいないけれど、襲われた人はたくさんいる。

私のお父さんもその一人。

小学生の時に襲われて、そのとき腕を大きくひっかかれた。

その傷は今でも残っている。

お父さんの影響かどうかはわからないけれど、私は蝙蝠が怖い。

夕方、たとえ遠目でも蝙蝠が飛んでいるのを見かけると、恐怖で体が固まってしまう。

逃げたいのに、接着剤でくっつけてしまったかのように足が動かない。

でも、私がそうして固まっていると、いつのまにか蝙蝠はいなくなっている。

それを確認して、やっと私の足は地面から離れることができるのだ。


「八重ちゃん。見て」
二歳年上(だから今九歳)の姉の霞ちゃんが、にっこり笑いながら私に近づいて、後ろ手に持っていたものを広げて見せた。

私は瞬時に体を硬くしてしまった。

霞ちゃんが持っていたのは、蝙蝠だった。
「あははは。八重ちゃんってば、恐がりー」
霞ちゃんはおかしそうに笑っていた。

霞ちゃんが持っていたもの、正確には蝙蝠のプラスチック人形だった。

私はそんなものに怖がってしまったことに恥ずかしくなったのと、そんないたずらを仕掛けてきた霞ちゃんに腹が立ったために、顔を真っ赤にした。
「霞。八重にいたずらしてないで、食器並べて」
台所からお母さんが声をかける。

霞ちゃんは「はーい」と笑いが残っているまま返事していた。

私はすっかりむくれていた。


食卓が整った頃にお父さんが帰ってくる。

そして、お母さんはお座敷に行って、おばあちゃん(お父さんのお母さん)を呼びに行く。

おばあちゃんはボケてしまっている。

しわだらけの顔をふにゃふにゃにしていつも笑ってばかり。

昔のことはよく覚えているのに、今のことはすぐに忘れてしまう。

ちょっと前まではそんなことなかったのに、いつのまにかボケてしまった。

なんだかどこかにぽっかり穴が開いてしまったようで、すーすーする感じがした。
「お義母さん。ご飯、どれくらい食べます?」
お母さんがおばあちゃんの茶碗を持って聞いている。

おばあちゃんはおかずを見渡すと、「茶碗の半分で」と言った。

おばあちゃんはあまり食べない。

おかずも、ちょこっとずつ小皿に取っていくだけ。
「お父さん、お酒は控えてくださいね。最近飲み過ぎなんですから」
「あ、うん、わかった」
もう一缶ビールを空けようとしたお父さんは、お母さんの言葉にプルトップから手を引っ込めた。

お父さんは夏になるとお酒の量が増える。

暑いから、という理由もあるだろうけれど、蝙蝠のせいでもある。

夏になるとなぜか蝙蝠は私の家の周りによく現れる。

お父さんも蝙蝠が怖い。

怖さを紛らわすために、お酒を飲むんだ。


夕食を食べ終わり、食器を片づけたあと、雨戸を閉めるためにお母さんが窓を開けた。
「きゃあ!」
そのとき、黒い塊が家の中に飛び込んできた。

それを目にした私とお父さんは体が固まった。
「蝙蝠だ!」
霞ちゃんが悲鳴に近い声で叫んだ。

蝙蝠は部屋の中をぐるぐる回った後、私の方に向かってきた。


逃げなければ。

そう思うのに、足がガタガタ震えて言うことを聞かない。

蝙蝠が口を開いて牙を見せた。

そのときだった。
「バサッ! バサッ!」
私の顔の前で箒が踊った。
「こいつっ。この!」
おばあちゃんだった。

いつもタオルケットに包まれている両足をしっかりと畳の上に踏ん張らせ、まるで不動明王のような顔をして、枯れ木みたいな腕で箒をバサバサと振り回し、蝙蝠に攻撃していた。
「蝙蝠はね、人を襲うんだよ。近づいちゃ、駄目なんだよ」
鼻でフーフーと大きな息をして、誰に向かって言っているのか、妙に落ち着いた声でそう言った。
「このっ、この! 出て行け! さっさと洞窟に帰れ!」
箒でバサバサと蝙蝠を叩きながら、おばあちゃんは怒鳴り散らした。

呆然と見ていたお父さんが、はっと我に返って、おばあちゃんを止めに出た。
「母さんっ。もうやめろよ」
「何言ってるんだい!」
蝙蝠から視線を外さずにおばあちゃんはびしりと言った。
「あいつは、お前を襲ったやつなんだ! 今度こそとっちめてやるんだ!」
おばあちゃんはなおも蝙蝠に攻撃している。

お父さんは後ろからおばあちゃんを抱き締めた。
「母さん、もういい。もういいんだ」
お父さんのその言葉で、おばあちゃんは攻撃をやめ、箒を下におろした。

息はまだフーフーと荒い。
「もういいんだよ」
その一言で、おばあちゃんはおとなしくなった。

おばあちゃんにさんざん攻撃された蝙蝠は、へろへろになりながらも、家の外へ出て行った。




次の日から、おばあちゃんの眠りは深くなった。

まるで死んだように眠っているのだ。

お父さんもお母さんも、私も霞ちゃんも、おばあちゃんが本当に死んでないかどうか、何度も何度も寝息を確かめていた。


「八重ちゃん。見て」
あんなことがあったのに、霞ちゃんは笑いながらまた私に蝙蝠のプラスチック人形を見せた。

でも、
「あれ? 固まってないね」
私の体は普段通りだった。
「蝙蝠、怖くなくなったんだね」
「うん。そうみたい」
「おばあちゃんに助けられたから?」
霞ちゃんが私の目をのぞき込んだ。
「うん。そうだと思う」
「ふぅん」
私と霞ちゃんは川辺を歩いている。

先を歩いていた霞ちゃんが急に振り返った。
「でも、おばあちゃんが本当に助けたのは、八重ちゃんじゃないよ」
霞ちゃんは真剣な顔をしていた。

私も真剣な表情でうなずいた。
「うん。おばあちゃんが助けたのは、お父さんだった」
霞ちゃんもうなずいた。
「おばあちゃん、よっぽど悔しかったんだね。お父さんの小さい頃にお父さんを助けられなくて」
「おばあちゃん、全然気にしているように見えなかったのにね。蝙蝠が家の近くを飛んでいたって、知らんぷりしていたのに」
「ずっと、蝙蝠に対しての怒りをためていたのかな。それが昨日、爆発したのかもしれないね」
「霞ちゃん、怖いこと言うね」
霞ちゃんは、にひひー、と笑った。
「ねぇ、八重ちゃん。どうして八重ちゃんが蝙蝠を怖がっていたのか、知ってる?」
「ううん。お父さんが怖がっていたからじゃないの?」
「違うよ。私がね、蝙蝠の中に八重ちゃんを置いてきたからなんだよ」
「え!」
霞ちゃんはすらすらと話していった。
「八重ちゃんが二歳で私が四歳の時。私は夕方まで八重ちゃんを連れて遊び回ってたの。そのときに、蝙蝠が何匹も飛んできて、私、怖くて八重ちゃんを置いて逃げちゃったんだ。家に帰り着いたとき、お母さんに、八重ちゃんは? って聞かれて、急いでさっきの場所へ戻ったの。八重ちゃん、ぎゃーぎゃー泣いて座り込んでた。でも、傷はなかったよ。それからだねー、八重ちゃんが蝙蝠怖がるようになったのは。だから、私のせいなの。今更だけど、ごめんなさい」
私は呆然として霞ちゃんを見つめてしまった。

私が蝙蝠を怖がるようになった原因を作ったくせに、この姉はさんざん私にいたずらしてきたのだ。

性格が悪い。

でも、
「わかった。許す」
そんな姉でも私は好きだから、結局許してしまうんだ。

甘いなー、と思うけれど、これはもうどうしようもない。

霞ちゃんは、てへへ、と笑った。
「そろそろ帰ろうか、八重ちゃん」
「うん」
私たちは家の方向へ歩き出した。

視界の隅に、黒い飛行物体が見えた。


夏休みに、和久と母親の美智は祖母の家に行った。



「ああ。来たね」
「久しぶり。お母さん」



和久と美智は仏壇にお参りした。

遺影は祖父のものと美智の兄のものがある。



「和久。庭で遊んでおいで」



美智に言われ、和久は虫取り網と虫取りかごを持って庭に降りた。

庭にはたくさん木が植えてある。

蝉の声が耳の中に満ちる。



「美智。どれくらいここに泊まるんだい?」
「お盆の間はここにいる」



和久は一際大きな木に蝉を見つけた。

虫取り網の柄をぎゅっと握りしめる。



「フンッ。自分の旦那の盆はどうするんだい」
「お墓参りにはもう行ってるわよ」



木に向かって網を振り下ろす。

蝉がいるところまでは届かない。

蝉は変わらず鳴き続けている。

和久は柄の下の方を握りなおした。



「自分の旦那より兄貴の方をとるってのかい。とんだ嫁もいたもんだね」
「いいでしょ。私が決めたことなんだから。口出ししないで」



今度こそ、と振り下ろした。

蝉は鳴き止んで上の方に移動した。

またとらえられなかった。

次は慎重にしようと、また柄を握りなおした。



「お前の旦那を殺した男だよ。わざわざ供養するこたないだろ」
「そんな言い方しないで。兄貴が実際にあの人を殺したんじゃないんだから」



ゆっくりゆっくりと蝉の近くに網を掲げる。

だが、蝉は飛び上がって隣の木に移ってしまった。

和久は悔しげに顔をゆがませ、また蝉に近づいた。



「お前の旦那の体が弱いのを知っていたくせに、何度も登山を無理矢理させたんだよ。それが原因で死んだじゃないか。あいつが殺したも同然だろ」
「それは…、そうかもしれないけど…」



和久は息を止め、蝉を凝視しながら、じりじりと進む。

蝉の鳴き声が耳に痛い。



「あいつはろくでもない男なんだよ」
「自分の息子にそんなこと言うの?」
「人様の子どもにこんなことが言えるかい。あいつはろくでもない男だよ。それが私の息子なんだ。意識してようがしてなかろうが、私がそうなるように望んだんだ」



和久は慎重にゆっくりと虫取り網を上げていく。

蝉までもう少し。



「…そんな兄貴でも、…私は…、兄貴が大好きだった…」



あとちょっとで蝉に届きそうなとき、蝉が鳴き止んだ。

そして、木から飛び上がり、和久の右目に飛び込んだ。


和久の悲鳴が上がった。



「和久!? どうしたの!?」



美智と祖母が駆けつけた。

和久は右目を手で押さえ、悲鳴を上げながら仏壇を見た。

遺影に写る伯父の笑顔が、皮肉な笑みに見えた。

風が吹いた。

窓がガタガタとうるさい。

僕は目を覚ました。

起き上がると、太陽はずいぶん高い位置にいた。

また風が吹いた。

今度の方が強くて、ガタガタガタッと大きな音がした。

僕は布団から出て居間に行った。
「遅いよ、和久。いつまで寝ているつもりだったの。日曜だからって寝過ぎよ」
きつい口調で母が言った。

アイロンがけしている手は休めていない。
「朝御飯はそこ。もう昼御飯だけどね」
テーブルの上にある料理を見た。

白飯、味噌汁、漬物、焼き魚。

ありきたりな朝飯だ。

僕は椅子に座って料理を食べた。


アイロンがけを終えた母は、仏壇の前に行って、鈴を鳴らした。

合掌してじっと動かない。

父の遺影を見つめたままだ。

僕が物心つく前に死んだと聞いている。

母は、父の死を詳しくは語らなかった。


僕が料理を食べ終わったころ、玄関のチャイムが鳴った。

母の方を見たけれど、気づいているのかいないのか、身じろぎ一つしていない。

僕はため息をついて玄関へ行った。

途中で、まだ寝巻きのままだと気づいたけれど、仕方ない、と思って、そのまま玄関のドアを開けた。
「よお、和久。みーはいるか?」
伯父だった。

僕はうなずくと、仏間の方を指差した。

伯父はうなずくと、靴を脱いで母のところへ行った。

母の名前は美智という。

母の友達は母を『みっちゃん』と呼び、祖父母は『美智』と呼ぶが、伯父だけは『みー』と呼ぶ。
「また来たの、兄貴」
母の声は、あからさまに非難している声だった。
「おう。また来た」
それなのに伯父は、軽く答えている。

伯父は週に三日はこの家に来る。

母の隣にどっかりと座ると、伯父も父の遺影に視線を向けた。
「いつまで経ってもこの顔だなー。たまには写真を変えてみたらどうだ? 気分がよくなるかもしれないぞ」
母は鋭く伯父を睨んだ。

伯父は母の顔を見て軽く笑った。
「なんだ。俺、何か変なこと言ったか?」
「言ったから睨んでるんでしょ」
「そうか」
二人はまた父の遺影に視線を戻した。
「和久。食器洗って、早く着替えなさい」
母は僕の方を見ずに、早口でそう言った。

僕は急いで流しに食器を持っていった。
「みー。あまり厳しすぎるのも、和久によくないと思うぞ」
「兄貴には言われたくない」
「それ言われちゃー、何も言えないじゃないか」
「何も言わないで」
伯父は苦笑いを浮かべていた。


僕は着替え終わると、母と伯父がいる仏間に行った。
「和久。小学校は楽しいか?」
仏間に入るとすぐ、伯父がそう聞いた。

僕は小さくうなずいてみせた。
「そうか。あまり楽しくないか」
僕のうなずきを伯父はそう解釈した。
「みー。三人で外へ散歩しないか? 仏壇を見つめていたって、死人は返事をしないよ」
母はまた伯父を鋭く睨みつけた。

伯父は静かに母の視線を受け止めている。
「私の亭主を、死人呼ばわりしないで」
「死んだ人のことは、死人と言うんだよ」
母は立ち上がると、不動明王のような顔で伯父を見下ろした。
「兄貴があの人を死なせたようなものじゃない!」
伯父はやはり、静かに母を見つめていた。
「和久の前で言う話か?」
伯父の声は低くなっていた。
「和久に聞かせたくないんだ」
「そうだな。和久に嫌われるかもしれない」
「自業自得よ」
母の言葉に、伯父はクックッと笑っている。

そして、僕の方を向いた。
「和久。知ってるか? 俺はな、心臓が弱いってわかってるお前の親父を、登山に連れまわったんだ。ひどい男だろ? それが原因で、お前の親父はますます心臓が悪くなって死んじまったんだよ」
伯父はさらっと言った。

あまりにあっさりと話したので、僕は内容を理解するのに時間がかかってしまった。

僕が理解して、目を大きく見開いたのを見ると、伯父は父の遺影に目を向けた。
「俺はな、みーがこんな男の嫁になったのが気に食わなかったんだ。体が弱いからこの男は働くよりも病院にいる方が多い。みーが働いて生活を支えないといけないんだ。それが許せなかったんだなー。俺、こいつの寿命縮めちまった」
伯父がそれを言い終わると、母は力いっぱい伯父を殴った。

あごに当たったのか、ゴキッと鈍い音がした。

何度も何度も殴った。

そのたびに鈍い音が伯父から出る。

母はやっぱり不動明王のような顔をしている。

伯父は何の抵抗もしなかった。

僕は、どうすればいいのかわからなくて、二人をじっと見ていた。
「兄貴なんかさっさと死んじまえ!」
「まだ死ねないなー」
「どうして!」
「今死んだって、みーは泣いてくれないだろう。それは悲しいからなー」
「誰が泣くか!」
母はさらに殴っている。

伯父は僕に視線を向けて、苦笑いを浮かべた。


伯父がこの家に来るたびに、伯父は母から殴られている。

まるで、母に殴られるために来ているようだった。

この日までは、なぜ伯父が殴られているのかわからなかったが、ようやくわかった。

その後、父方の親戚にも聞いてみたが、伯父の話は事実だった。


母が「出て行け!」と叫んで、伯父への暴力は終わった。

伯父はゆっくり立ち上がって玄関を出て行った。

母に、何も言葉をかけなかった。

僕は伯父を追いかけた。

途中で僕に気づいた伯父が振り返った。
「おう。なんだ、和久」
普段と変わらない口調。

顔は腫れているのにけろっとしている。

さっきまで殴られていた人物とは思えなかった。
「僕、まだ伯父さんのこと嫌ってないよ」
「そうか。それを言いに来たのか」
僕はしっかりうなずいた。
「でも、これからは嫌うかもしれない」
「ああ。それでいい」
伯父は満足そうに笑った。
「みーのためになるのなら、俺はいつだって悪者になるよ」
そう言うと、伯父は手を振って去っていった。


その後も、伯父は僕と母の住む家にやって来た。

母が伯父を殴ることは変わらない。

きっと、そうすることによって、母は伯父を救っているのだろう。

伯父は、父を死なせたという罪の意識で凝り固まっていた。

僕がどんなに伯父を嫌っても、母は変わらず、伯父が大好きだった。

そして、伯父が死んで一番泣いたのは、母だった。

また来る、とは言ったものの、どこか行きづらい気持ちになっていた。

俺は本当に行っていいのだろうか。

あやかしのたまり場に、人間の俺が興味本位で近づいて、本当によかったのだろうか。

今更ながらにそんなことを考えるのは、きっと、あの場所に行かなくていい理由を探しているんだと、俺自身気づいていた。

単なる言い訳。

俺は、怖くなったんだ。

受け入れてもらえたのは錯覚で、本当は俺のことを煩わしいと思っているんじゃないか、と怖いんだ。


はあぁ、と盛大なため息をついて、知らず喫茶店に向かう道を歩いていた。

体に染みついた習慣というのは、なかなか思考と一致してくれない。

このまま喫茶店に行こうか引き返そうか、道のど真ん中に立ち止まって逡巡していた。
「シュー…、シュー…」
そうしていると、機械が空気漏れをしているような音が聞こえてきた。

どこかで故障でもしているのかときょろきょろと辺りを見回すと、目が、合った。

瞬間、ゾアッと鳥肌が立った。
「シュー…、シュー…」
チロチロと舌を出し、低い体勢から俺の様子をうかがっている。

トカゲだ。

大きなトカゲ。

舌が二本見える。

あやかしだ。
「シュァー!」
トカゲが大口を開けて俺に襲いかかってくる。

俺は動けない。

体と思考が混乱状態で、どこにも命令が行かない。

鋭く尖った歯列が眼前に迫ってきた瞬間、トカゲが吹っ飛ばされた。
「な…に…」
俺はかろうじて声が出たけれど、思考は全く追いついていない。
「本内」
名前を呼ばれてやっと意識がはっきりする。

俺は急いで振り向いた。
「頭柳(あたまやなぎ)」
頭柳がこっちに近づいてきていた。

俺が彼女に向かって駆け出そうとすると、頭柳は顔をしかめて俺に待ったをかける。

頭柳は空中に指で円を描き、その円の中心を弾いた。

その瞬間、俺の背後で何かが弾け、吹っ飛ばされた。

俺が慌てて後ろを振り返ると、さっきのトカゲが仰向けに昏倒していた。
「一撃で倒せていなかった。悪かった、本内」
「え、あ、いや、大丈夫、ありがとう」
大丈夫、とは言ったものの、先ほどの出来事をようやく認識した体が、震えて止まらなかった。
「今日、会えて良かった。本内、私はここを出る」
頭柳の言葉に、俺の体は思わず震えが止まった。
「ここを、出る…?」
「本内があの店に引き寄せられたのは、私のせいだ」
突然の言葉に俺はまた思考がついて行かなくなった。
「何? どういうこと? 順序立てて説明してくれよ」
俺が情けない声で頭柳に訴えると、頭柳は一つため息をついていた。
「私は、元々封印されたあやかしなんだ。今もまだ、本体は封印されたまま。今この場にいる私は、本体から分離した一部のようなもの。一部を分離させられるまで力を回復したから、玉緑(たまりょく)のすすめであの店に働いていたんだ。今の人間とあやかしの様子を知るには、いい場所だろうと言っていて。店長は、私の本体を見守る役目を持った一族の一人なんだ」
なんだか俺の想像を超えるような事実で、俺は少し混乱していた。
「それで、なんで、俺が関係するんだ?」
俺がそう聞くと、頭柳はどこかあきらめたような息を吐く。
「本内の先祖が、私が封印されることになったきっかけを与えた人物なんだ」
「先祖?」
「そう。

 あいつは、気弱な人間だった。

 そのくせあやかしに対しては物怖じしない人間で、よくあやかしと対決していたんだ。

 その対決はいろいろ。

 戦闘もあったし、知恵比べもあったし。

 そいつが何の気まぐれか、ここらで一番強い力を持つ私に、戦闘での対決を申し込んできた。

 馬鹿か、と思ったけどね。

 あいつは、人間といるよりも、あやかしといる方に楽しみを見いだしていた。

 何度も何度も戦闘対決をして、最初の方は私が圧勝だったのに、だんだん勝つのが難しくなっていって、ついには私が負けてしまった。

 あいつは単純にそのことを喜んで、周りにいるあやかしに自慢なんかしていたよ。

 だから、油断したんだ。

 あいつと戦って力尽きていた私を、あやかし退治をしている人間が、ここぞとばかりに封じたんだ。

 あいつはそんなつもりは全くなかったのに、あやかし退治がこっそりあいつを尾行して、私を封じる機会を虎視眈々と狙っていたんだ。

 私が封じられたときのあいつは、目も当てられなかったよ。

 何度も封印に立ち向かって、私を解き放とうとした。

 でもそれは叶わなかった。

 私の封印が解かれる前に、あいつが死んでしまった。

 だがあいつは、死ぬ前に魂に縛りをかけた。

『必ず頭柳の封印を解く。そのために、どんなに時代を経ようとも、頭柳を見つけだし、封印を解く手だてを探す』。

 本内は、あいつの子孫だ。

 だから、私を見つけた。

 これ以上一緒にいると、お前をあやかしの世界に引き込んでしまいかねない。

 お前は人間だ。

 人間の中で、生きていてほしい」
頭柳は言うだけ言うと去っていこうとする。

ようやく思考の追いついた俺は、急いで頭柳の手を取った。
「頭柳。まだ、行かないでくれ。俺も、言いたいことがあるんだ」
頭柳が驚いたような顔で俺の方を向く。
「俺、頭柳のことも、先祖のことも、初めて知った。俺と頭柳にそんな関係があったなんて、考えてもいなかった。俺が頭柳に興味を持ったのは、たしかに先祖がきっかけだったかもしれない。でも、それで切りたくないんだ。それだけで、頭柳との関係を終わらせたくない。俺はもっと頭柳と一緒にいたい。俺のことを思うなら、俺ともっと関わってくれ。そうして、俺も頭柳の封印を解く手だてを考える。これでさよならなんて、嫌だ」
子どものわがままみたいな言い分だった。

でも、それ以外のことが思い浮かばなかった。

俺の気持ちだけ押しつけているだろうか。

頭柳は俺のことなんか気にもかけていないだろうか。


俺が自信なくうつむいていると、頭柳がぎゅっと手を握り返してくれた。
「変な子ども」
「ひどい」
「でも、久々にうれしかった」
頭柳がふっと笑みを浮かべた。

俺もほっとして顔がほころんでいた。
「喫茶店においで。店長も、玉緑もいる」
「行く」
俺と頭柳は手をつないだまま喫茶店に向かって歩く。

俺と頭柳との関係はまだまだ始まったばかり。

俺はどこまで頭柳と一緒にいられるだろうか。

わからないけれど、まだまだ手放す気はなかった。




あの喫茶店があやかしのたまり場だということを知っても、俺は足繁く通った。

怖いもの見たさというのもなきにしもあらず。

でも一番は、人型のあやかしだという頭柳(あたまやなぎ)が気になるから。

あの人はどれだけ観察してみてもただの人間に見える。

何も不自然なところはなくて、逆に店長の方が人間であることを疑ってしまう。

玉緑(たまりょく)が言っていたように、やっぱり狐なんじゃないかと、俺も思ってしまった。

玉緑と言えば、初めて見たあの日から喫茶店には来ていないみたいだった。

二足歩行の狐はけっこうかわいげがあったから、ちょっとがっかりだ。

その代わり、と言うのも変だけど、玉緑以外のいかにもあやかし然としたあやかしが喫茶店にたびたびやってきた。

毛玉に棒きれみたいな手足がついているあやかしとか、顔が異常に大きいあやかしとか。

やっぱり初めて見かけるとびっくりして固まってしまう。

でもしばらく接すれば慣れて、会話を交わしたりできる。

人間の順応性は偉大だ。


俺は今日も喫茶タカマへとやってきて、コーラとトーストを注文した。
「本内くん、学校の方は慣れたの?」
コーラとトーストをカウンターに置いたとき、店長がそう聞いてきた。
「だいぶね。授業はついて行くのがいっぱいいっぱいって感じだけど」
「中学と高校じゃ、勉強の難易度はあからさまに違うからねぇ。苦労するのは無理のないことかもしれないね」
「店長も苦労した?」
「苦労したよ。何と言っても、古文だね。あれ本当に日本語? って根本から否定したくなったし」
あははー、と店長は遠い目をして乾いた笑いをしていた。

ひょうひょうとしている店長でも、勉強には手こずったみたいだ。
「頭柳。あやかしの世界には、勉強ってないの?」
俺が頭柳に話を向けると、頭柳は顔をしかめていた。
「本内が習うようなものではないけれど、知識を獲得するというのなら、同じ種族の長老共から教わる」
「へぇ。あやかしの世界でも、似たようなことってあるんだ」
頭柳はけっこう口が悪い。

でも、基本的には優しいから、あまり気にならなかった。


それからもおしゃべりをしながら食べて飲んでと過ごしていると、ガランガラン、と喫茶店の扉が乱暴に開かれた。

みんなして、なんだなんだと振り返ると、人型の男性あやかしが凶悪な形相で立っていた。

全体的に色素が薄くて、耳がとんがっている。
「番(ばん)?」
「番くん、久しぶり。どうしたの?」
頭柳と店長が不思議そうに番というあやかしに声をかける。
「玉緑から聞いて来たんだ」
番はそう言って俺をジロリと睨む。

あまりの眼光に、俺は瞬時に身がすくんでしまった。
「頭柳。こいつは、あの人間の子孫なんだろ。なんで平気で同じ空間にいられるんだ」
苛立っているような声で番が頭柳に話しかけている。

この人の言っていることが、俺にはよくわからない。

俺が当事者のはずなのに。

「番。私は別に気にしていない」
「気にしないわけがないだろ!」
頭柳の言葉を瞬時に否定している。

その声は空気も物体もビリビリと震わせた。
「あの人間の所業をそう簡単に忘れられるか! あいつはお前を、」
「番」
頭柳が低い声で言葉を遮る。
「私が気にしていないと言っているんだから、いいんだよ」
平坦な声で告げる頭柳に、俺はなぜか背筋が凍った。

番も言い返すことなく体がブルリと震えていた。
「さっさと戻れ、番」
番は何か言いたそうな顔をしていたけれど、結局何も言わずに喫茶店を出て行った。

そのあと、緊張した空気が解けて、俺は思わず大きなため息をついていた。
「悪かった、本内。怖い思いをさせてしまった」
頭柳が普段の調子に戻って謝ってきた。
「いや、いいよ、謝らなくて。大丈夫だから」
俺の返事に頭柳はほっと息をついた。
「本内くん。今日はもう帰った方がいいかもしれないね。さっきの番くんみたいなあやかしがやってくるかもしれないし。あれじゃあ、本内くん、ゆっくりできないでしょ」
店長がにっこり笑って告げることに、俺はつい苦笑を浮かべてしまった。
「じゃあ、お言葉に甘えて。今日のところはこれで帰ります」
「うん。またね、本内くん」
「また来ます」
どこか消化不良を感じながらも、俺は喫茶店から出た。




「本内くんに何も弁明しなくて、よかったの?」
食器の片づけをしている頭柳に、高間がそっと聞く。

頭柳は手を止めて、うつむく。
「あれをどう、弁明すればいいんですか」
「…でも、本内くんがあの人の子孫だとは、まだ決まったわけじゃないんだし…」
「いいえ」
高間の言葉に頭柳は力強く否定する。
「本内は、あいつの子孫です。私が、それを間違うわけがないんです」
頭柳は、ぎりっと歯を食いしばる。
「頭柳…」
高間は彼女にどう声をかければいいのか、わからなかった。
「情けない姿だね、頭柳」
聞こえた声にはっとして二人は入り口を振り返る。
「玉緑」
二足歩行の狐、玉緑がカウンター席へと座る。
「番が私のところへ駆け込んできたよ。まあ、無理もないことだけれど。番は頭柳に気があるからね」
にやり、と玉緑が笑う。

頭柳は顔をしかめる。
「頭柳。本内をどうするつもりだ?」
頭柳は顔をしかめたままうつむく。
「……私にも、わからない。ただ…」
ふっと息を吐き、頭柳は玉緑の方を向く。
「あいつと同じことには、させないつもり」
「……そう。お前がそれでいいなら、私はこれ以上は言わない」
玉緑はピョン、とカウンター席から降り、喫茶店の扉の方へ歩いていく。
「番のことは、私がどうにかしておく。私がまいた種でもあるからね」
「ありがとう、玉緑」
玉緑はにやりと笑って、今度こそ喫茶店から出て行った。
「店長」
「ん?」
「ここに帰ってこなかったら、ごめん」
頭柳の言葉に、高間は苦笑を浮かべる。
「いいよ、謝らなくて。頭柳が自分で決めたことなんだし」
高間の言葉に、頭柳はかすかに笑みを浮かべた。



続く


わかった、と了承したので、昨日と同じ時間に喫茶店を訪れた。

喫茶店の名前は『喫茶タカマ』。

店長の名前そのままだ。


カランカランと鈴を鳴らして扉を開ける。
「いらっしゃい」
店長がまたそう声をかけてきたが、俺は目の前の光景に固まるしかなかった。
「お。なかなかいい反応」
「性格が悪いね、高間」
「あはは。いつものことじゃないか、玉緑(たまりょく)」
店長とその、玉緑と呼ばれたものとの会話が耳を素通りしていった。
「き…」
「き?」
「狐がしゃべってる!」
俺の叫び声に店長と玉緑(こいつが狐だ!)は、にやにやと笑って俺を見ていた。
「いじめるな」
バゴンッ! と音を立てて頭柳(あたまやなぎ)が店長と玉緑にお盆を振り下ろした。
「悪かったね、本内。この馬鹿店長が頭悪くて」
「え、ちょっと、それひどくない? 頭柳」
店長が頭柳に抗議したが、頭柳はすぐさまお盆で店長を叩いた。
「それくらいにしたら? 頭柳。そろそろ説明した方がいいだろ」
玉緑が腹を抱えて笑いながら(狐なのに!)頭柳をなだめた。

頭柳はフンッと息を吐き出して、俺にカウンター席に座るように促す。
「見てのとおり、玉緑は狐のあやかし。おばけと言った方がわかりやすい?」
「いや、どちらでも」
俺にお冷やを渡してくれながら頭柳が説明する。
「おいおい、頭柳。私の説明だけするのか?」
玉緑は足(後ろ足?)を組んで頬杖をつき(前足で?)ながら、どこか皮肉な笑みを浮かべて言う(狐ってこんなに表情豊かなのか)。

頭柳は嫌そうに顔をしかめて玉緑を睨みながらも、俺の方に向き直った。

憮然とした表情はそのままだったけれど。
「……私も、あやかしだ」
「はい!?」
俺の反応に頭柳はますます顔をしかめ、玉緑は復活した店長と一緒にゲラゲラと笑っている。
「頭柳は人型のあやかしだからね、なかなか気づかれないんだよ」
「人間と大差ないでしょ? 僕も最初は、うっそだー、って思ったんだけど、証拠を見せる、って言って、あやかしの力を見せてくれてね。これは本物だ、って思ったよ」
玉緑と店長の言葉に、俺ははっとして意識を戻す。
「あやかしの力、って?」
店長と玉緑は顔を見合わせて人の悪い(玉緑は狐だけど)笑みを浮かべていた。

頭柳は、嫌っそうに顔をしかめている。
「まあ、こんな狭いところで見せたら、一瞬で木っ端微塵だ」
「ちょっと、玉緑。僕の店なのに狭いって言わないでよ」
「事実だ」
店長と玉緑の言葉に、俺は血の気が引いた。

ここが一瞬で木っ端微塵になる力ってなんだ。
「店長、玉緑。本内が怯えている。あまり脅すな」
「ほほほ。これは悪かったね、頭柳。高間以外の人間との接触に、ちょっと浮かれていたようだ」
玉緑の言葉に、頭柳は呆れたような表情をしたけれど、それ以上咎めることはなかった。

でも俺は、玉緑の言葉に、んん? と引っかかりを覚えた。
「え、えーっと、もしかして、店長は、人間なの?」
俺の問いかけに二人と一匹(と言っていいのか?)は一瞬固まって、どっかんと爆笑した。

なんと頭柳も一緒になって。

笑い声の波が俺に押し寄せてきていた。
「わかる。わかるよ、本内。私も店長が人間だなんて今でも信じられないし」
「えー! 頭柳、それはないでしょ? 何年一緒にいると思ってるのー!」
「まだ三ヶ月ですよ。一年も一緒にいないじゃないですか」
「私も、高間が人間だとは最初は全く信じていなかったよ。まるで本物の人間みたいに化ける狐だな、と思っていた」
「僕を狐って…っ。ひどいっ、玉緑!」
わっと店長があからさまな泣き真似をした。
「だから本内、このうさんくさい店長は人間だ。これでも」
「『うさんくさい』も『これでも』も余計だよっ、頭柳!」
二人と一匹のやりとりに俺はポカンとしていたけれど、次第に笑みが浮かんできた。
「こんなあやかしがやってくる喫茶店は、気味が悪いか?」
玉緑が俺に近づいて、どこか俺の様子をうかがうように聞いてきた。
「……なんか、いろいろ驚いたけど、でも、楽しい」
俺が正直な感想を言うと、玉緑はうれしそうに笑った。
「また、ここへおいで。もちろん、人間の世界も大切だ。人間の世界も、楽しんでおくれ」
玉緑の言葉が、狐のはずなのに、なんだか田舎の祖母に言われているようで、心がほっとした。




「いやはや。本内くんに受け入れてもらってよかったねぇ、頭柳」
本内が帰っていった後に、高間がにこにこ笑って頭柳に話しかけた。

頭柳はジロリと高間を睨む。
「だが、頭柳が人間に興味を持つのは珍しいね。どういう風の吹き回しだ?」
玉緑がにやにやと笑って頭柳を見る。

頭柳は玉緑も睨みつけてから乱暴に食器を洗う。
「玉緑から見て、本内くんはどうなの?」
頭柳の返事を期待してなかったのか、高間が玉緑に矛先を向ける。
「なかなかいい少年だと思うよ。ただ…」
玉緑はそう言って、耳を忙しなく動かす。
「ちょっと、気配が変わっているね。だからこそ、この店に引き寄せられたのかもしれない」
「……それ、どういうこと?」
高間は声を落として聞く。

玉緑はちらりと頭柳に視線を向ける。
「……もしかしたら、あいつの、子孫、かもしれない」
答えたのは頭柳だった。
「あいつって…」
高間がその言葉を繰り返して、はっと気づいたように頭柳に顔を向ける。
「え、え、本内くんが? でも、名字は違うし」
「名字など、同じだった方が不自然でしょう、この時代」
呆れたように頭柳が言うと、それはそうだけど、と高間は尻すぼみになる。
「なかなか、難儀な関係になりそうだね」
玉緑の言葉が、いやに店の中に響いていた。



続く


ポタポタと汗がしたたる。

夕方になっても暑さは一向に衰えない。

どこか暑さをしのげるところはないかと辺りを見回す。

そのとき、夕日に照らされる古びた喫茶店を見つけた。

冷房はあるかと心配になったけれど、この際気にしてはいられない。

学生鞄を抱え直し、俺はその店へと足を進めた。
「いらっしゃい」
カランカラン、と音を立てて鈴が鳴る。

見回すと、至って典型的な喫茶店。

観葉植物があって、カウンターがあって、テーブル席がある。

店長はけっこう若い男。

年寄りが運営しているのかと思ったけれど違った。

その男の後ろに俺と同じくらいの若い女が、食器をかちゃかちゃと鳴らして棚に戻している。
「見ない顔だね」
カウンター席に座ると店長に声をかけられた。
「別の町に住んでいて、高校がここで」
「ああ、そういうこと」
ことん、と軽い音を立ててお冷やが置かれる。
「何もないところでしょ、ここ」
「そうですね」
「娯楽施設も少ないし。どうしてここに?」
「偏差値が、ちょうど良かったんです」
「ふぅん。そんなものだよね」
店長はけっこうしゃべる。

俺もすんなり言葉が出ていた。
「ご注文は?」
「コーラ」
「軽食とかはいらない?」
「じゃあ、トースト」
「ん。承りました」
店長は作業に戻っていく。

俺は水を飲みながらカウンターの中を観察する。


店長がトーストを用意して、女がコーラを用意している。

飲み物は彼女が担当なのかもしれない。

それとも、担当は気まぐれなのかもしれない。
「はい、おまちどおさま」
「どうも」
店長がコーラとトーストを俺の前に置く。

女は食器洗いに戻っていた。
「この町のことはどれくらい知ってる?」
トーストにかじりついていると店長が聞いてきた。
「あんまり、知らないです。高校も入ったばかりだし。町になじむよりも、高校になじむことに手一杯で」
「あはは。そうか。そうだよね」
じゃあ、と言って、店長はカウンターに頬杖をついて俺に心持ち顔を近づける。
「この辺りが『出る』ってことも、知らないか」
その言葉に、俺は思わず動きが止まった。
「『出る』、って…、何が…」
店長は人が悪いような笑みを浮かべる。
「おばけだよ」
「おばけ…」
俺は一気にしらけたような気分になった。
「あ、その顔は信じていないね」
「信じるも何も、いないでしょ、そんなもの」
「それが困ったことにいるんだよ。そうすぐには信じられないだろうけど」
店長はそう言って本当に困ったような顔をする。

俺はうさんくさそうに店長を見る。
「嘘だと思うなら、明日もこの時間においで。いるから」
さっきは『出る』と言ったのに、『いる』と言った。

俺はやっぱりうさんくさい気がしたけれど、確認するくらいなら別にいいかと思って、わかった、とうなずいた。
「じゃあ、決まりだね。えーっと、お名前は?」
「本内圭司」
「本内くんだね。僕は高間健人」
よろしく、と店長が言ったので、よろしく、と返した。

それで店長は終わりそうだったので、俺は若干慌てて話しかけた。
「あの人は?」
俺が目で女を示すと、ああ、と店長はうなずいた。
「彼女は頭柳(あたまやなぎ)」
変わった名前だ。

でも、彼女の名前を覚えるように、頭の中で何度も頭柳と繰り返していた。




「店長。勝手なことを言わないでください」
本内がいなくなったあと、頭柳が高間に胡乱な眼差しを向ける。
「ま、いいじゃない」
「よくないです」
楽観的な高間に、頭柳がジロリと睨む。
「この町の新入りを、歓迎しているだけじゃないか」
「どこが」
ケッと頭柳は吐き捨てる。
「あの少年で遊ぶつもりなんじゃないですか?」
「んー。そんなつもりはないんだけどなぁ」
「だいたい、明日来るのは玉緑(たまりょく)ですよ。あからさまじゃないですか」
「あからさまだからおもしろいんじゃないか」
高間の言葉に、またケッと頭柳は吐き捨てる。
「性根が腐ってる」
「ひどいなぁ」
高間はそう言いながらも、口元は笑っていた。

頭柳はますます顔をしかめていた。



続く


夕飯は大食堂で食べるんだけど、組ごとに分かれて座る。

笹岡くんと江本さんがさっさと向かい合わせに座ったから、私は例のごとく橋野くんの対面に座った。

笹岡くんと江本さんは、本当に、よくそんなに話すことがあるなぁ、と感心するぐらいおしゃべりが尽きなかった。

私と橋野くんはそんなことはなく、お互い黙々と食事を平らげていった。


で、お風呂に入ったあとは就寝となったのだけれど、江本さんがとんでもないことを言ってきた。
「あのね、青井さん。もうすぐ、笹岡くんがこっちの部屋に来るの。だから、青井さんはあっちの部屋で寝てほしいな、って思うんだけど」
就寝部屋は男女に分かれているのだけれど、江本さんの言うことはつまりそういうことなんだろうとは思うけれど、私の意見というか意志はまったく無視されているわけのようで、部屋から追い出された。

で、私がトイレの方でうだうだしていると、本当に笹岡くんが女子部屋に入っていってしまった。

これは完全に女子部屋に戻れない。

どこで寝ようかどうしようか、と考えていると、橋野くんがトイレに来た。

私がトイレの前にいるのを不思議そうに見ていたけれど、生理現象だからかさっさとドアの向こうに行ってしまった。

さすがにそこに居続けるのはまずいだろうと思い、リビングのソファに場所を移した。

もういっそここで寝てしまおうか、と思っていると、橋野くんがトイレから出てきて、やっぱり私を不思議そうに見ていた。
「部屋に戻らないの?」
そう聞かれて、しどろもどろにこうなった現状を説明した。

話を聞いた後、橋野くんは驚いたような顔をしていた。

どうやら笹岡くんが男子部屋にいないことに気づかなかったらしい。
「こっちで寝れば?」
橋野くんの言葉が一瞬わからなかった。

こっちってどっち。
「男子部屋」
続けて言った橋野くんの言葉に、私はびっくり仰天して、口をあんぐり開けてしまった。
「そこで寝たら、たぶん、朝起きたときに筋肉が強ばるよ」
「え、あの、橋野くんと、同じ部屋に、寝ていいの?」
「ベッド二つあるし」
橋野くんがあまりにもあっさりしているので、私はポカンとしながらも橋野くんについていって、男子部屋に入った。
「じゃ、おやすみ」
「お、おやすみなさい」
橋野くんはさっさと布団に入って寝てしまった。

私はこの状況に緊張してしまって、なかなか寝付けなかった。

ぐるぐると寝返りを打っていたけれど、全然眠気が来なかった。

私はあきらめて起き上がって、何か飲もう、とベッドから出た。

ドアに手をかけたとき、サイドテーブルに何かの紙が乗っているのが見えた。

なんだろうと思って見てみると、橋野くんの自己紹介カードだった。

瞬間、心拍数が上がって、そのカードを凝視してしまった。

まさか、こんなところにポンと投げ出されているとは思わなかった。

ちらりと橋野くんを見たけれど、布団から起き上がる気配はなかった。

ちょっとだけ、ちょっとだけ、と思って、カードの内容を見た。
『名前 橋野雄一』
こんな漢字なんだ。
『家族構成 父・母・弟一人』
もしかして、この間見た男の子は弟さんなのかもしれない。

橋野くんを、兄ちゃん、って呼んでいたし。
『趣味 弟と遊ぶ』
『特技 弟の友達の名前を覚える』
二つとも弟くん関連だ。
『将来の自分像 弟が結婚したい女性がいると言ってきて、俺は弟に味方して両親を説得する。弟と嫁さんが新居に住んで、甥っ子か姪っ子ができたら、弟や嫁さんが呆れるくらいのいい伯父さんになる』
橋野くんは本当に弟さんが大切で大好きなんだな。

そう思っていると、なぜか涙が流れてきた。

どうして流れるのかわからなくて、なかなか止まらない。
「そんなもの見て泣く女なんて初めて見た」
背後から橋野くんの声が聞こえて、びっくりして振り返った。

割と近い位置に橋野くんがいて、さらにびっくりしてしまった。
「ご、ごめんさい! 勝手に見てしまって」
「別にいいけど。だいたいそれって誰かに見せるために書いたわけだし」
「う、まあ、そうだけど」
私は視線をあちこちにさまよわせてしまった。
「なんで泣いたの」
「う、それを、聞かれると…」
「なんで泣いたの」
橋野くんは容赦ない。
「あの、橋野くんは、弟さんが大切で、大好きなんだな、って、思ったら、なんでか、泣いた」
「ふぅん。よくわからん」
ああ、また言われてしまった。
「あんたって本当に変な人だ」
「そ、そんなに強調しなくても…」
「でも、なんか、気に入った」
橋野くんはそう言って、優しく笑った。

まさか、私に向かってそんな風に笑ってくれると思わなかった。

私がぼうっと橋野くんを見ていると、橋野くんがゆっくりと近づいて、私にキスしていた。

私は、橋野くんが離れたときにそれに気づいた。

びっくりしすぎて固まっていると、橋野くんが私の腕をつかんだ。
「あんた、眠れないんだろ。こっちで寝れば」
橋野くんが私の腕を引いて、橋野くんが寝ていた方につれていく。

橋野くんが先にベッドに入って、橋野くんの隣に私を入れた。

なんというか、ここまで来ると、腹が据わる。
「あ、あの」
「何?」
「だ、抱きしめて、眠ってもいい?」
私の顔は最高潮に真っ赤だろう。

だが言ったものは取り消せない。

橋野くんはびっくりした顔をしたあと、普段の表情に戻った。
「別にいいけど」
「ありがとう」
了承の言葉をもらうと、横になって、橋野くんの頭を胸に抱えた。
「なんか、変なの」
「うん、まあ、そうだね」
二人でちょっと笑ってしまった。
「この間、橋野くんが住宅街の広場で、男の子と遊んでるのを見かけたんだけど、あれって、弟くん?」
「そう」
「仲がいいんだね」
「うん、まあ。俺は弟が好きだけど、弟もそうかわからないけれど」
「弟くんもきっと好きだよ。私にも姉と妹がいるんだけど、きょうだいが好きでいてくれると、うれしくなるし、もっと好きになるから」
「ふぅん。そういうもんなんだ」
そうやって話していたけれど、だんだん眠くなってきて、まぶたが上がらなくなった。
「おやすみ、橋野くん…」
「おやすみ、青井さん」
あ、橋野くんが名前を呼んでくれた、と思ったけれど、それからは意識がなかった。




あとあとで知ったけれど、あのクラス全体お泊まり会は、カップルを成立させるために企画されたようで、あのお泊まり会以降、私のクラスでのカップル率が上がった。

笹岡くんと江本さんは、どうやらカップル成立にはならなかったようだけれど。


私と橋野くんはというと、こちらもやっぱりカップル成立にはなっていない。

相変わらず挨拶だけで終わることが多いけれど、最近は会話が続くこともある。

佐織と由美子が私と橋野くんの進展を知りたがったけれど、別にそういうのがあるわけではないので、何もないよ、といつも答えている。


実は進展はあったわけだけれど。

まず、あの橋野くんの自己紹介カードを橋野くんがくれた。

お泊まり会の翌朝に、帰りの支度をしているとき、あんたにあげる、と言って。

あとは、
「弟にあんたのことを話したら、会ってみたいって」
「え、そうなの?」
「うん」
「私も会ってみたい!」
「じゃあ、日にちは…」
実はたまに二人で会ったりしている。

橋野くんに名前を呼んでもらえるのもうれしいんだけれど、二人になったときに、あんた、と言ってくれるのもけっこううれしかったりする。
「あー、どんな格好で会えばいいのかな。やっぱり弟くんの好みに合わせた方がいいのかな」
「あんたって本当に変な人だな」
「また言った!」
まあ、私と橋野くんはこんな感じ。

きっと恋人と呼べる関係ではないだろうけれど、それでよし。




気になる男の子がいる。

いや、この年で男の子と言っていいのか。

でも一年前までは確実に男の子と呼んでいい年齢だったわけで。

だからやっぱりまだ男の子と言っておこうと思う。


気になる男の子がいる。

大学に入学して半年ほど経ったけれど、私のクラスは他に珍しくクラス全体が仲がいい。

私もそれなりにクラスの人の大半と話すことができる。

でも、その男の子に対しては、一日一回言葉を交わせればいい方で、しかもその交わす言葉が、おはよう、だけという実情で。

その男の子は男子とはだいたい話しかけたり話しかけられたりしているけれど、女子に対しては話しかけられないとあまり言葉を交わさない。

容貌はかっこいいわけでなく、だからといって不細工というわけでなく、平均的だと思う。

表情は無表情でいることが多い。

男子達と話していてちょっとだけ吹き出すことがあるぐらい。

おしゃべりというわけでもない、けっこう静かにしている。

勉強好きというわけでもないようで、授業中は気がつけば寝ていることが多い。

性格はどうだろう。

見ている限りではよくわからない。
「明里(あかり)って、橋野くんが好きなの?」
「へ!?」
昼食を食べているとき、友達の佐織が思い出したように突然言った。
「あ、それ、私も思ってた」
「由美子もそう思うでしょー? で、明里、どうなの」
「ど、どうって…」
二人が身を乗り出して聞いてきて、私は思わず体を縮めてしまった。
「明里がどこか見てるなー、って視線を追うと、いつも橋野くんがいるんだよね」
「そうそう。ほら、こういったら失礼かもしれないけど、橋野くんって別に二枚目ってわけじゃないでしょ? だから目の保養で見ているってわけではなさそうだし」
「うちのクラスの二枚目って言ったらやっぱり笹岡くんだもんね」
佐織の言葉に由美子もうなずいている。

笹岡くんは俳優みたいにかっこよくて、性格も明るい。

だから笹岡くんの周りにはいつも人がたくさんいる。

私もやっぱり女なので、笹岡くんを見ると、かっこいいなぁ、と思うわけで。

それでもなんだかブラウン管の向こうの人を見ている気持ちになるんだけれど。
「明里、さっさと白状しなさいよ。橋野くんが好きなんでしょ?」
「あれだけ見ていて好きじゃないっていう方が失礼だよー」
二人ともにやにやと笑って、私をからかおうとしているのが見え見えだ。
「いや、あの、単に気になるだけだよ」
「なんで気になるの?」
「うーん、それは私にもよくわからないけど…」
そう、よくわからないんだ。

気になるのは気になるけれど、別に恋人になりたいというわけでもないし、まあ、もう少し話をしてみたいなとは、思っているけれど、それが恋心かと聞かれると、どうも違う気がするし。

これはいったい何なんだろうか。


私が本格的に悩むと、佐織も由美子も顔を見合わせて首をかしげていた。




午後の授業の一つが休講になって、早めに帰ることができる。

買いたいものがあったから、ついでにそれを買おうと、スーパーマーケットがある方向に歩く。
「あれ?」
スーパーマーケットに行った帰り、住宅街の一角に広場があって、そこに橋野くんがいた。
「橋野くん、この辺りに住んでるのかな?」
ついくせで橋野くんをじっと見ていると、橋野くんの方に小学生ぐらいの男の子が駆けてきた。
「兄ちゃん、ボールあった」
「よかったじゃん」
橋野くんと男の子はそう言うと、ボール遊びをし出した。

何より驚いたのは、あの橋野くんが、男の子に向かって優しそうに笑ったことだ。

あんな顔、大学じゃ見たことなかった。

なんだか、強いショックを受けて、その場からフラフラと離れた。


家に帰ってもそのショックは続いて、ベッドに寝転がってうだうだしていた。
「うー。なんだか、悔しい。あの男の子には笑いかけられるなんて」
いや、別に、私は橋野くんの近しい人間ではないわけで、悔しがること自体間違っているのは重々承知しているのだけれど。
「…笑ったらどんな風なのかと思っていたけれど、まさかこんな形で見ることになるとは」
できることなら私に向かって笑いかけてほしかった、とは、高望みも高望みの願いだろうけれど。

どうせ私はただのクラスメートAですよ、もしかしたらYとかZとか後ろの方かもしれないけれど。

自分の思考に打ちひしがれて、お母さんが夕飯の呼びかけをしてくれるまで、ふて寝していた。




もうすぐ夏休みというわけで、しかもうちのクラスは全体的に仲がいいというわけで、クラス皆で泊まりがけの遊びに行こうではないか、となった。

何の因果か、ペンション経営をしている親戚がいると言う子がクラスに存在し、格安で貸してくれるということになり、その計画が決まってしまった。

で、どうせなら仲良しグループで組むのではなくて、いろいろな人と交流できるように、くじ引きで組もう、となった。

で、なぜか男子二人女子二人で一組になるように組むそうで。
「青井さんは、笹岡くんと橋野くんと江本さんの組だね」
くじ引きの人にそう言われ、幸か不幸か、橋野くんと同じ組になってしまった。
「明里ー、よかったじゃん」
「江本さんは笹岡くん狙いだから、絶対橋野くんと二人きりになれるよ」
佐織と由美子がそう言ってくれたけれど、私はこの状況を素直に喜べなかった。




日々は無情に流れ、クラス全体お泊まり会の日となった。
「へぇ。けっこうかわいいペンションだね」
「そうだね。女の子の好きそうなデザインだ」
笹岡くんと江本さんが和気あいあいと話しながらペンションの中を見て回っている。

私と橋野くんは荷物を置くと、その場に突っ立ってボーっとしてる。

よくそんなに話せるなぁ、と感心して笹岡くんと江本さんを見ていると、(あの)橋野くんが(なんと!)話しかけてくれた。
「あんたはあっちに加わらなくていいの」
あっち、とあごで笹岡くんと江本さんを示していた。

私は多少ぎくしゃくしながらも首を横に振る。
「わ、私は、別に…」
「あんたも笹岡と一緒にいたいんじゃないの」
「ち、違うよっ。私は、橋野くん…」
と一緒にいたい、とは、続けられなかった。
「俺?」
「あの、橋野くんと話したことなかったから、話してみたいなぁ、って…」
最後の方は尻すぼみになってしまった。

顔も上げられない。
「あんた変な人だな」
ズバッと言ってくる人だなぁ。

私は少し肩を落としてがっくりしてしまった。
「あの、もしかして、一人になりたい? 私がいない方がいい?」
もしかして邪魔だなって思われてないだろうか。
「別に、いいけど」
微妙な返事だ。
「青井さーん、橋野くーん。広場に集まってってー」
江本さんに呼ばれて、私と橋野くんはそんな微妙な状態のまま広場へと向かった。




クラス全体でのお遊びやご飯作りなどで時間はけっこう過ぎた。

どの時間も、基本的に同じ組の人と一緒にいるように、と言われていて、一人だけで別の組に行くことはダメだ、となっている。

で、笹岡くんと江本さんはだいたいいつも一緒にいていろいろな組を回っているので、自然と私と橋野くんが二人でいることが多くなってしまった。

まあ、それでも、私に話しかけてくれる別の組や橋野くんに声をかける別の組の人もいるわけで、全体でいるときはあまり二人きりという状態ではなかった。

それでも、橋野くんとの会話はけっこう成立して、割と普通に話せるようになった(進歩!)。

それでもなかなかスムーズに話せないし、会話の内容も事務的なものが多いし、会話も続かないけれど、挨拶だけで終わらないからこれでよし(進歩!)。


で、とうとうそれぞれの組だけで活動する時間になって、どんなことをするのかはその組が決めていいことになっていた。
「青井さん、お願い、私、笹岡くんと一緒にいたいの」
江本さんがそう言ってきた。

なんとなく、そうなるだろうなぁ、と思っていたので、二人ずつで行動することになった。

江本さんは笹岡くんの腕を引いて、さっさとどこかに行ってしまった。

私と橋野くんはペンションの中にポツンと残された。
「あ、あの、橋野くん、散歩、に、行かない?」
「別に、いいけど」
また微妙な返事だ。

でも嫌だって言われたわけじゃないから、じゃあ行こう、と思い切って外に促した。


何も会話がなく歩いているだけだけれど、橋野くんは私の隣についてきていた。

あちこちで組ごとにいろいろなことをしている。

二人ずつに分かれたのはうちの組ぐらいだろうなぁ。
「あんたは、本当に、笹岡と一緒じゃなくていいのか?」
ボーっとしていると、橋野くんがそう話しかけてきた。

私ははっとして橋野くんを見る。

橋野くんはどこか不思議そうに私を見ていた。
「そ、そんなこと思ってないよ」
「女ってああいうのが好きなんじゃないの?」
「いや、人それぞれだと思うよ。私は、うん、笹岡くんのことは別に」
「あんたやっぱり変な人だな」
うぅ、また言われた。

今度はしっかり肩を落としてしまった。
「無理して俺といるんじゃないのか?」
「ち、違うよっ。それは断じて違うっ。私は、本当に、橋野くんと話してみたくて、橋野くんと、いる、わけだから…」
面と向かって言うのは照れる。

やっぱり尻すぼみになってしまった。

何か話題はないかと必死で考える。
「あ、そうだっ。自己紹介カード、あれ、橋野くんは何を書いたの? 見てもいい?」
同じクラスでもよく知らないこともあるだろうからと、自己紹介カードなるものを書いていた。

家族構成や趣味・特技といった定番のことや、将来の自分像なんてものまで書いた。


私が橋野くんにそう聞くと、橋野くんは顔をしかめた。
「そう言う女は嫌い」
ズバッと言われた。

私はかなりの影を背負って肩を落とした。
「ごめんなさい…」
「…前に、今回みたいなことを書いて、それを見せたことがある。内容どうこうよりも、字が汚いと言われた」
なるほど、そんな過去があったのか。
「もう言わない。ごめんなさい。あ、お詫びに私の自己紹介カード見る?」
「別に、あんたの自己紹介カードなんて見たいと思ってない」
本当にズバッと言う人だ。
「あの…、私のこと、あんた、って言っているけど、名前、知ってる?」
これで知らないって言われたら相当へこむ。

地面にめり込むくらいへこむ。
「青井明里さん。出席番号一番だから、すぐに覚えた」
フルネームで言ってくれた。

しかもさん付け。

さらにはすぐに覚えたって。

か、感動…。
「あ、あの、じゃあ、なんで、名前で呼ばないの?」
「二人でいるときは二人称を使うものだろ」
橋野くんの中にはそんな法則があるらしい。
「そ、そうなんだ」
「あんたは違うみたいだけど」
「うん、まあ…」
ははっ、となぜか照れてしまった。
「あんたやっぱり変な人だ」
「また言った!」
三回も言われるほど私って変なわけ?
「俺とここまで会話が続く女って、あんたが初めてだ」
クスッと、橋野くんがちょっと笑った。

橋野くんの笑った顔をこんなに間近で見るなんて初めてで、思わずポカンとしてしまった。
「何?」
橋野くんの不思議そうな声に、はっとした。
「う、ううん。なんでもない」
「ふぅん。さっきから気になってたけど、あんたって話すとき、どもるのが多いの?」
「う、あ、こ、これは、その、き、緊張、というか、その、心臓が、どきどきして、うまく、声が、出ない、というか…」
「ふぅん。よくわからん」
一生懸命話したのに、よくわからん、って言われてしまった。

それからもうだうだと散歩を続けて、夕飯の時間になった。



続く