「おつかいお願いね」
とびきりの笑顔で姉が財布を渡しながらそう言った。
「いい? 間違って買ってきたら、あんた今日安心して寝られなくなるからね」
脅しの言葉も忘れない。

さすが鬼姉。
「じゃ、さっさといってきなさ~い」
「い、いってきまーす…」
とぼとぼとCDショップへ歩いていく。
「ちっくしょー! いつか絶対にあいつを負かしてやるー!」
こぶしを震わせて気合いを入れているのに、
「あんたなんかに私が負けるわけないでしょ!」
わざわざ玄関を開けて鬼姉がそんなことを言ってきた。

ガクンッと肩を落として、やっぱりとぼとぼと歩いていった。

俺が鬼姉に勝てるのは、いったいいつのことになるだろうか。


「青実(あおざね)。青実。青実」
ネオンテトラに言われて食事を運んでいた青実に、プリステラが突進して抱きつく。
「ぎゃあ!」
「食事。青実。運ぶ。まだ」
「う、えーっと…」
どういう意味だ、と青実はプリステラを振り返って困惑する。
「まだ食事を運んでないのかって聞きたいんだろ」
そこへ、ネオンテトラがやってくる。
「お腹空いてるんですかね」
「というより、お前に何かあったのかと心配したんだろ」
ネオンテトラが呆れたようにプリステラに視線を向けると、ネオンテトラの言葉を肯定するようにプリステラはうなずく。
「青実。なりたて。あやかし。海。危険。獰猛。多い」
プリステラが言葉を連ねるが、青実はやはり意味を捉えかねている。
「お前はあやかしに成り立てだから、海の中での対処法をよく知らない。海の中は危険も獰猛な生物もあやかしも多い。だから心配。そう言いたいんだろ」
プリステラの言葉を通訳するようにネオンテトラが告げる。
「ネオンテトラさん、よくわかりますね」
「兄妹だからな」
それよりさっさと食おう、とネオンテトラに促され、三人は食事をする。
「食事中に話すことかどうかわからないが」
ネオンテトラはそう前置きをして青実の方を向く。

青実は食べていた貝を急いで呑み込む。
「お前、なんで海の中で死にかけていたんだ? 目立った外傷もなかったようだけど。土左衛門か?」
最後の言葉にげふっと青実は思わず息を吐き出す。
「土左衛門なんて、よく知ってましたね」
「いつだったか小耳に挟んだからな。で、なんでお前は海にいて死にかけていたんだ?」
ネオンテトラの問いかけに、青実は困ったような顔をする。
「話さないと、いけないですか?」
「海の中で起きた出来事だ。海に住むあやかしとして、見過ごすわけにはいかない。人間にどうこうされるほど落ちぶれてはいないつもりだが、何かの異変の前触れかもしれないし」
どうなんだ、とネオンテトラは真剣な表情で青実に聞く。

プリステラも青実が何を言うのか集中している。

青実は少し逡巡するように視線を泳がせたが、意を決したようにネオンテトラに顔を向ける。
「俺を、人魚を捕らえる餌にしよう、と言い出して、俺は、船から突き落とされたんです」
「人魚?」
その言葉にネオンテトラは顔をしかめ、プリステラは首をかしげる。

青実はどこかばつが悪そうに顔を伏せる。
「これは、俺の予想ですけど、たぶん、人魚というのは、あなた達のことだと思うんです」
プリステラとネオンテトラは思わず顔を見合わせる。
「……青実。念のため言っておくが、俺たちは人魚じゃない。強いて分類するなら、半魚人だ」
「はい。それは、わかっています」
プリステラとネオンテトラは上半身も下半身も人間の姿をしている。

ただ、泳ぐための水かきが発達している。

半魚人よりも、さらにカッパの方が近いかもしれない。
「でも、海のど真ん中を何の装備もなく泳げるのは、きっと人魚に違いない、と誰かが言い出して、この辺りの海に人魚がいる、という話が広まってしまったんです」
「それで、なんでお前が人魚の餌になるんだ? 人魚って肉食なのか」
ネオンテトラの言葉に青実は軽く笑う。
「それはきっと、都合のいい言い訳なんだと思います。

 俺は、船の中のお荷物でしたから。

 俺、前の船長の子どもで、今の船長と前の船長は犬猿の仲で、前の船長が死んだのも、今の船長が殺したんじゃないか、って言われていましたし。

 俺は前の船長しか身寄りがなかったし、船で働くしか、能がなかったですから。

 今の船長は、俺をさっさと捨てたかったんだと思います。

 でも、他の船員からの信用もあるし、なかなか実行できないと思っていたんじゃないかと。

 そこに都合良く人魚の噂が流れてきて、人魚を捕らえようと船員達が言うようになって。

 それで、どうやったら人魚を捕まえられるかって話しているときに、人魚はきっと若い男を好む、だから俺を海に放り投げて人魚をおびき出そう、って船長が言い出して。

 そうして俺は抗議する間もなく船から突き落とされて、海を漂っていたんです。

 ある程度は泳げますけど、船にたどり着けるだけの体力も、まして陸に泳ぎ切るだけの体力もなくて、力尽きて気を失ったんだと思います」
青実の話を聞き終わったネオンテトラは、プリステラの方を向く。
「プリステラ。青実の近くに船はあったか?」
プリステラは首を横に振る。
「じゃあ、近づいてくる船は?」
それにも首を横に振る。
「と、なると、お前が船から居場所を捉えきれないほど流されたのか、人魚を捕らえること自体を船があきらめたのか、元からお前を捨てるための狂言だったのか。といったところか」
最後の言葉に青実は血の気が引いた。

途端、プリステラが青実の腕を掴む。

青実ははっとしてプリステラを振り返る。
「青実。いる。私。兄。ここ。大事。守る。好き」
青実はやはり意味を解することは難しかったが、プリステラが青実を心配していることと大事に思っていることは、理解できた。
「ありがとう、プリステラ」
青実がほっとしたように告げると、プリステラは無表情ながらもどこか表情が和らいでいた。




「おう、青実。お前が乗っていた船の見当がついたぞ」
プリステラから周辺の生物の名前を教えてもらっていた青実は、ネオンテトラの言葉に瞬時に反応した。
「え!」
「ここからそう離れていない場所に停泊している。お前から聞いた特徴とも合致した。間違いないだろう」
ネオンテトラの言葉に青実は混乱する。
「え、え、え、なんで、どうして、この近くに?」
慌てふためいている青実に、ネオンテトラは呆れたような表情をする。
「おそらくは、人魚を捕まえることをあきらめたわけじゃなかった、ってことだろ」
「人魚。私。兄。船。捕まえる。近く。海。来る。中。ここ」
プリステラが、傍目にはわかりにくいが、どうやら驚いたようにネオンテトラに話しかけていた。
「そうだな。青実が乗っていた船が、俺とお前を捕まえに、海の中に入ってくるだろう」
プリステラの言葉を通訳するように言ったネオンテトラに、青実はザアッと顔を青ざめた。
「じゃ、じゃあ、いったい、これから、どうすれば…」
戸惑う青実の言葉を受けて、ネオンテトラはあごに手を添えて考え込む。
「よし。プリステラ」
ネオンテトラが呼びかけると、プリステラはきょとんと目を瞬かせた。
「お前が船を撃退しろ」
「えー!」
思わず青実は叫んでいた。
「ちょちょちょちょっと、ネオンテトラさん! プリステラに何をさせようとしてるんです! まだ幼いじゃないですか!」
青実がネオンテトラに詰め寄るが、ネオンテトラはうっとうしそうにするだけだった。
「お前なぁ、幼いと言ってもあやかしなんだ。船を撃退することなんてわけない」
「だ、だからって、そんな…」
「それに、その言葉はちょーっとプリステラの実力を見誤ってるな」
「は?」
ポカンと呆ける青実に、ネオンテトラはにやりと笑う。
「ま、見ていればわかるさ」
青実は目を瞬かせてプリステラに視線を落とす。

プリステラもきょとんとして青実を見上げていた。




ザバァーンッ、ザバァーンッ、と海面に大波が襲いかかる。
「すごい…」
「だから言っただろ。プリステラの実力を見誤るな、って」
ネオンテトラが得意げに鼻を鳴らす。


プリステラは海中で腕を大きく動かし、海面に大波を生じさせている。

海の中は至って静かだ。

海面だけが、別の空間のように荒れ狂っている。

当然、この近くに停泊していた船は、大波に煽られて舵がきかなくなっている。
「人間達も、これに懲りて、この海域には近づいてこないだろう」
ネオンテトラはやれやれと肩を落とした。
「それにしても、プリステラって、とても力のあるあやかしだったんですね」
「まあな。海の中のあやかしだと、プリステラは間違いなく上位のあやかしだ。だが、その力があるからこそ、言語能力も、表情を変化させる機能も極端に低くして、そっちに比重が傾けられてしまった。体の均衡を保つには、それは致し方ないことではあるんだがな」
青実とネオンテトラが見ていると、プリステラが最も大きな波を生じさせ、船を陸の方へと押しやっていた。

それが終わると、プリステラはくるりと方向転換し、青実に突進してきた。
「お疲れ様、プリステラ。本当に、ありがとう」
青実がほっとしたように笑うと、プリステラも幾分表情を和らげる。
「青実。いる。ここ。好き。結婚。夫婦」
「はあ!?」
プリステラが言った瞬間、ネオンテトラが叫んだ。

青実はビクッとし、思わずプリステラを抱きしめる。
「プリステラ…。お前、今、何て…」
ネオンテトラはこめかみに青筋を浮かせ、口元がピクピクと引きつっている。
「好き。青実。プリステラ。結婚。夫婦」
「誰が認めるかー!」
ネオンテトラの叫びに海水がビリビリと震え、魚たちが一目散に散っていった。
「決めた。プリステラ。夫婦。結婚」
「そんなの知るか! 絶対に認めないからな!」
プリステラとネオンテトラがけんかのような言い合いをしているが、青実だけが、何を話をしているのか理解できていなかった。

それでもプリステラを腕に抱えたままなので、彼女の望みが叶うのは、そう遠くないことだろう。




ザバッと海水が波立つ。

夕日に照らされた海は、宝石のようにキラキラと輝きを放っていた。

海面からちょこっと顔を出した少女が、じっと沈んでいく太陽を見つめている。

ゆらゆらきらきらと波で遊んでいると、彼女の視界に波間に漂う物体が入り込んだ。

また人間が落としていったゴミだろうか、とうんざりとした様子で少女は漂流物の方へ近づいていく。


それは確かに人間が落としていったものだった。

正確には、人間自体が落ちているのだが。


年の頃は少女よりも年上の青年。

青白い顔で、ほとんど死ぬ寸前と言ってもいい状態だ。

少女はまじまじと青年を見つめると、きょろきょろと辺りを見回し、青年を引き寄せ、彼の口に唇を重ねた。

少女の息を青年に与えると、少女は青年から唇を離し、彼を抱えて海の中に潜っていった。




「わ。びっくりした」
ネオンテトラは目の前の光景に思わず口が開いていた。
「プリステラ。状況を説明しろよ」
岩場の住処に帰ってきたら妹が人間を引き込んでいたってどんな状況、というかここ海の中なんだけど、なんで人間がいるの、死んでるの? と兄のネオンテトラはたたみかけるようにプリステラに話しかける。

プリステラはきょとんとしたあと、波間で捉えてきた青年に視線を落とす。
「死にかけ。拾った。同化させた。生きてる」
プリステラはぶつ切りの単語だけを連ねたが、ネオンテトラはそれだけで理解できてしまい、ひくっと口元が引きつった。
「プリステラ。いくら死にかけだったからって、人間をあやかしに変えたのか」
「陸。遠い。死ぬ」
「わかったよ。そいつを生かすには同化させるしかなかったって言いたいんだろ?」
ネオンテトラのあきらめたような言葉に、プリステラはこくりとうなずいた。
「だが、少々浅慮だったんじゃないか? こいつの性格も何もわかってない段階で、ここに引き入れるなんて」
「直感」
プリステラの言葉に、ネオンテトラはまた口元が引きつった。
「あーもー! わかったよ! お前の好きにしろ! その代わりっ、お前が面倒見ろよ!」
ネオンテトラは自分の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜてから、プリステラに吐き捨てる。

プリステラは、わかった、と言うように、神妙にうなずいた。




青実(あおざね)ははっとして目を覚まし、ガバッと起き上がった。

ハアハアと荒い息をつき、呼吸を整える。

最後に一つ長く息を吐き、ゆっくりと寝床に倒れ込む。

寝床の上で何度か深呼吸をして、そこではたと気づき、またガバッと起き上がる。

きょろきょろと辺りを見回し、次第に顔色が青くなる。
「何…、ここ…。海…?」
ゴツゴツとした岩場。

辺りには海水が満ち、海草がゆらゆらと揺れている。

寝床に使っているのも、どうやら海草だった。
「何…、これ…。夢…?」
でもさっき起きたし…、と自分で答えてから、青実はさらに顔色を悪くした。

これからの行動の判断が付かないときに、ドンと後ろから何かに突進され、ぎゃあ! と叫び声を上げた。
「起きた。人間。生きてる」
何だ何だ、と青実が戦々恐々としながら振り返ると、人の姿をした少女が彼の腰にしがみついていた。
「……は?」
「名前。プリステラ。名前。人間」
「は?」
さっきから単語しか言わない少女に、青実はポカンと口を開けている。
「げっ。起きてる」
また別の人物の声がかかり、青実は、ぎゃあ! と叫ぶ。
「何何何何! 何事!」
青実が驚愕のままに声のした方を向くと、そこには青実とさほど年齢の変わらない男性がいた。

その表情はすこぶる機嫌が悪そうに眉間にしわが寄っている。
「うるさい、叫ぶな、食うぞ」
「ぎゃあ!」
「だからうるさいっての」
男性の脅し文句に悲鳴を上げ、青実は男性に拳骨を落とされた。

青実は頭を抱えて痛みにもだえる。
「痛い。兄。殴った。頭。寝起き」
そう、寝起き、と青実は無意識に少女の言葉に同意していた。
「ん? 兄?」
少女が言った単語の中にそれが紛れていることを耳で拾い、青実は少女の方を向く。
「兄。ネオンテトラ。殴る。凶暴」
「てっめぇ…」
少女の言葉に男性が口元を引きつらせ、こめかみに青筋を浮かせていた。

その様子にまた青実は、ぎゃあ! と叫ぶ。
「だから叫ぶな、うるさい」
「すみません!」
男性は一つため息をつくと、青実の側に座った。
「俺とプリステラは海の中に住むあやかしだ」
突然説明された言葉に、青実はピシリと固まる。
「あ、や、か、し」
「一文字一文字区切るな、うっとうしい」
「すみません!」
青実は反射で謝っていた。
「死にかけのお前が海面に漂っているところを、プリステラが拾った。陸に運ぶには遠すぎて、その間にお前が死ぬだろうと判断し、プリステラはここに連れてきた。言っておくが、全部プリステラの独断だからな。俺は関与していねえ」
不機嫌そうな男性の言葉に恐々としながらも、一つの可能性にたどり着いた青実は、顔を強ばらせて男性に問いかけた。
「あの…、なんで俺…、海の中にいるのに息ができているんですか?」
青実の言葉に、男性は実に面倒くさそうな表情をする。
「プリステラがお前を海のあやかしに変えたから」
棒読みで告げられた言葉に、青実はしばらく固まる。
「ぎゃあ!」
「お前はそれしか言えないのか!」
「すみません! ちょっと勘弁!」
男性が殴る仕草をしたら、青実は急いで頭をガードした。

二人がそうやってやりとりをしている間も、元凶であるはずの少女は、青実の腰にしがみついたままだった。



続く


「嘉穂ー。明日は叔父さんたち来るんだから、部屋の掃除しなさいよ」
学校から帰ってくると、お母さんにそう言われた。

私はぶつぶつ文句を言いながら自分の部屋へ行った。

叔父さんと叔母さんは家に来ると毎回部屋をチェックしていく。

掃除は面倒だが、やらないわけにはいかない。


ひとまず机の上を片づけることにした。

教科書・ノートが山盛りにされている。

{使う・使える}と{使わない・使えない}に分けていく。

バサバサと床に置いて教科書・ノートを分けていると、一番下まで来た。

残っている三冊のうち一冊を手にとって中を見た。
『自分で自分を自覚し人から自分を自覚するな』
最初のページの一番上に大きな字でそう書かれていた。

その下にも何か書かれていた。
『ドラゴンが少女を食べた。

 ドラゴンが人を殺したのは初めて。

 次にドラゴンは町へ行った。

 そこで家々を壊し、火を放った。

 町の人たちは逃げまどう。

 ある者は倒壊する家屋の下敷きになり、ある者は火災に見舞われ、ある者はドラゴンに食われた。』
私は目を見開いた。

次のページもその次のページも、ドラゴンが行ったことが書かれていた。

そのノートは最初から最後まで、ドラゴンの行動の記録しか書かれてなかった。

私はとっさに右腕の袖をまくり上げた。

今朝ついていた引っ掻き傷は、今朝よりもくっきりと、そして赤くなっていた。

私は怖くなってベッドの布団にくるまった。
(何なの、あれ。知らない知らないあんなの知らない!)
今日の出来事を、すべてないものにしたかった。




私はそのまま眠ってしまったらしくて、起きると朝になっていた。

廊下の方から声が聞こえて、私は部屋のドアを開けた。
「あら、今起きたの? 嘉穂ちゃん」
叔母さんがもう来ていた。

そして、私の了解も得ずに部屋の中に入っていった。
「ふーん。割ときれいにしてるじゃない。上出来、上出来」
私はまだ寝起きでぼうっとして、叔母さんのペースについてこれなかった。
「あら、なぁに? このノート」
叔母さんは机の上にある古ぼけたノートに目をとめて、手に取った。

私ははっとした。

ドラゴンのことが書かれたノートだ。
「叔母さん、それ…」
「あら、懐かしい」
叔母さんの言葉に私は目を見開いた。

『懐かしい』?
「あなたが小さい頃に書いた、観察日記風の物語でしょう? まだ残っていたのねえ」
叔母さんはノートをぱらぱらとめくって、流し読みしている。

私は、そんなノートの内容を書いた覚えなどなかった。
「確かこれ、ご近所に住んでいた女の子と一緒に書いていたのよね。えーっと、名前は何だったっけ?」
その言葉に心臓が激しく脈打った。

まさかその女の子は、『りょうちゃん』なのでは…。
「あ! 思い出した! 莉緒ちゃんよ!」
それを聞いて、私はほっとした。

でも、『りょうちゃん』に近い名前だ。


叔母さんは、懐かしい懐かしい、と言って、部屋を出て行った。


叔母さんが部屋を出て行ったあと、私は机に近づいてノートを手に取った。

そして、ぱらぱらとめくった。

昨日見たときと内容は変わっていない。

最後のページを開いたとき、私はぞっと身震いした。
『十月二十七日(日)午前十時にあの洞窟へ来てね、嘉穂ちゃん』
最後のページの一番下に書いてあった。

昨日見たときは書いてなかった。

指定の日付は今日だ。

しかも、もうすぐで午前十時になる。

冷や汗がどっと流れた。

行きたくない。

それなのに体は勝手に動いて、ノートを持ったまま家を出ていた。




まるで周り全体に靄がかかったように景色がはっきりとしなかった。

ここは本当に現実なのだろうか?

もしかしたら夢なのかもしれない。

だって、その証拠に、私の足が私の言うことを聞かずに勝手に進んでいるのだから。


いつしか周りは住宅街から離れ、自然の風景が広がっていた。

そして、前方には、あの洞窟が見えていた。
(いやだ。いやだ。あそこに行きたくない!)
それなのに、私の足は止まってくれない。

私の足はなおも洞窟に近づいている。


洞窟の前に来て、足はようやく止まってくれた。

引き返したいのに、今度は凍ったように動かなかった。
「やっと来てくれたのね、嘉穂ちゃん」
洞窟の方から声が聞こえた。

私は目をこらした。

洞窟の中から女の子がこちらへ歩いてきている。

その姿を見て、私は血の気が引いた。
「…りょうちゃん」
「久しぶり、嘉穂ちゃん」
りょうちゃんはにっこり笑っている。

その顔を見て、私は目の前が真っ暗になった。
「思い出してくれた? 嘉穂ちゃんのことも、私のことも、…ドラゴンのことも。私の名前、嘉穂ちゃんが呼びやすいから、って、『りょうちゃん』になったんだよね」
りょうちゃん、…いや、莉緒ちゃんが、くすくすと笑って私に話しかける。
「わかってるでしょ? 嘉穂ちゃん。あなたと私はドラゴンの守り役なの。その役目からは逃げられないの。束の間の夢の世界はどうだった? ふふ、その様子だと、あまり楽しんだようではないみたいだね。でも、大丈夫。これからはまた一緒にドラゴンの守り役をするから。つまらないことなんてないよ。さ、洞窟の中へ行きましょう。ドラゴンが私たちを待ってるわ」
りょうちゃんが私の腕を取って、洞窟へと誘う。

洞窟の中からドラゴンの咆吼が聞こえた。


私はまたここに帰ってきてしまった。

何度も逃げ出したのに、何度も連れ戻される。

私はいつまでここに縛られたままなの?
   ずっと、だよ。
りょうちゃんの、心底楽しそうな声が聞こえた。




夢を見た。

私は洞窟の中にいた。

地面にいくつもの四角い穴が開いている。

穴の下の方から赤い光が見える。

おそらく炎だろう。

穴の側に何本もの先のとがった棒が立てかけられている。

石の柱も立っていて、地面と天井がつながっている。

周りを見回してみると、壁に大きな穴が一つ開いていた。

あそこはドラゴンの寝床。

夢の中の私はそれを知っている。

ドラゴンは人を喰らい、暴れ回る、凶暴な生き物。

私の隣に女の子がいる。

私と同い年くらいで、黒髪で、さらさらのロングヘア。

私はその子のことを「りょうちゃん」と呼んでいる。

りょうちゃんは何かを紙に書き留めている。

それはここにやって来た人たちの記録。

私とりょうちゃんは、ドラゴンの守り役だ。

何年も何年もここにいる。


不意に、男の人が洞窟にやってきた。

その人の顔には怒りの表情が浮かんでいる。
   ドラゴンを倒しに来た。
その人は言う。
   あいつに妻が食われた。仇を取ってやる。
私とりょうちゃんは、静かにその人を見ていた。

りょうちゃんはその人の記録を書く。

私は地面の穴の側にある棒を取って、男の人に渡す。
   この棒の先を、ドラゴンののどに突き刺せば、ドラゴンは死にます。
私はドラゴンの倒し方を教える。

男の人は棒を持ってうなずきながら聞いている。

壁の大穴を見ると、ドラゴンが出てくるところだった。

私とりょうちゃんは壁に背中をつけて座り、縮こまった。

男の人も、私達にならって縮こまっている。
   石のようにじっと動かなければ、ドラゴンは襲ってきません。
私は男の人に説明している。

ドラゴンは寝起きの運動なのか、洞窟の中を縦横無尽に飛び回っている。

すぐ近くまで来ることもある。

でも私達はじっとして動かない。

男の人はドラゴンを倒す機会をうかがっている。

ドラゴンがまた私達の近くに飛んできたとき、男の人が動いた。
   うわあああああ!
叫び声を上げて、ドラゴンに棒を構える。

だが、棒の先がドラゴンののどに刺さる前に、ドラゴンが男の人に噛みついた。

そして、男の人もろとも、ドラゴンは地面の穴の中へ落ちた。
   さっきの人、どうなった?
私の背中に顔をくっつけて、りょうちゃんが聞く。
   穴に落ちたよ。
私は短く答える。

りょうちゃんは私から離れてまた記録を書いている。

ドラゴンはまだ穴から出てこない。

私は立ち上がって、棒を取った。
   どうしたの?
そんな私に、りょうちゃんがまた聞く。
   もう、終わりにしようと思って。
私は力無く答える。

りょうちゃんが悲しそうな、寂しそうな顔をする。
   私の記録は書かないでね。
そうお願いすると、りょうちゃんはうなずいた。

私は棒を構えた。

ドラゴンが穴からぬっと出てきた。

私は棒をドラゴンののどに突き刺そうとした。

でも、その前にドラゴンが私の右腕に噛みついた。

ドラゴンはまた穴へ戻っていく。

私も穴の中へ落ちていく。

後ろを振り返ってりょうちゃんを見た。

りょうちゃんは、悲しそうに笑っていた。

私は目を閉じた。

暗闇しか見えない。

私はこのあと、炎に焼かれるか、地面に激突するだろう。

そう思っていた。

だが、そのどちらも私の身には起きなかった。

私はふわりと地面に降ろされた。

すぐ隣には炎があったが、私にはあたっていない。

目を開けるとドラゴンが私を見ていた。
   もう、私の守り役をしてくれないのか。
とても悲しそうに、ドラゴンは呟いた。

私も悲しくなった。

私は何も言わずに、また目を閉じた。




「嘉穂っ。起きなさいっ。遅刻するわよ!」
お母さんに叩き起こされて、私は目を覚ました。

まだ少しぼうっとしていたが、お母さんにせかされて、急いで着替えをした。

上のパジャマを脱いでぎょっとした。
(何? これ)
右腕に引っ掻いたような痕が何本もできていた。

夢の中でドラゴンに噛みつかれた位置だった。

私はぞっとして、急いで制服を着て学校へ向かった。

今日の一時間目は体育だ。

今の季節、ジャージを上に着ていてもおかしがられることはない。
「平均台の用意してねー」
平均台やマット、跳び箱などを体育館に並べる。

それらの道具を使って、コースを造る。

最近の体育は障害物競争が主だった。
「位置について、用意」
ピッと笛が鳴って第一陣が走り出す。

私の番はまだだった。
(今朝の夢、なんだったんだろう)
とても詳しかった。

それに、今でも内容が思い出せる。
(りょうちゃん、って誰なんだろう。ドラゴンが出てくるのも初めてだった。それに)
私はジャージの上から右腕を触った。

引っ掻かれたような痕が浮き上がっている。
(夢の出来事が現実の私の体に影響するなんて)
「次の人」
呼ばれてスタートラインに立つ。

私は右から二番目の位置。
「位置について、用意」
ピッ。

私達は一斉に走り出す。

最初の方まで難なく突破していった。

平均台を渡るとき、私の体がぐらついた。

足がつきそうになったとき、体が勝手に動いて位置を戻した。

私は驚いて一瞬体が止まったが、競争中だと思い出して、そっちに集中した。

結果、私はビリだった。


この日の授業は頭に何も入らず、私は今朝の夢のことばかり考えていた。



続く


「いやぁ、はっはっはっ。参ったね、こりゃどうも」
父・晴夫は、目の前の光景を見て、遠い目をしながら乾いた笑いを漏らす。
「いや、本当、まったくですね、父上殿」
隣にいる娘・絵里は、木の実をガリゴリと食べながら、平坦な口調で晴夫に同意する。
「お前、全然そんな風に思ってないだろ」
「父上殿だって、感情がこもってなかったですよ」
お互い様ですよ、と平然と絵里は答え、なおも固い木の実を盛大に音を立てながら食べる。
「だって、これ、もう、笑うしかないじゃん」
「いい年して『じゃん』とか言わない方がいいですよ、父上殿」
「お前が指摘するのはそれだけか。というか、お前こそ、会話中にそんなでかい音を立ててものを食べるな」
「いやいやだって、あれを見ると、無性にこっちも食べたくなってしまって」
父上殿も食べます? と絵里が差しだしてくる木の実を、晴夫は、いらない、と突っぱね、目の前の光景を見て、深くため息をついた。


晴夫と絵里の目の前では、羽をはやした巨大なドラゴンが、二人の家をボリボリと食べている光景が繰り広げられていた。
「絵里…。これからどうすればいいんだ…」
目の前のドラゴンに対抗することなどできず、晴夫はがっくりとうなだれている。
「心配は無用ですよ、父上殿」
相も変わらず固い木の実をガリリッゴリリッと食べている絵里が、さも何てことはないとばかりにさらっと答える。

晴夫はびっくり仰天して絵里を凝視する。
「あのドラゴンの住処を乗っ取りました。家具調度も台所用品もお風呂セットも就寝道具もそろい済み。あとはあのドラゴンが、家の大黒柱に仕込んだ腹下し剤を食らって腹を下すのを見届けるだけです。それで堂々と新居に移れますよ」
あの一角を食べ終わったら、大黒柱にたどり着きます、もうすぐですね、と絵里は淡々と述べる。

娘の言葉と行動に、父・晴夫はポカーンと口を開けて固まる。
「こんな素晴らしい娘を持ってよかったですね、父上殿」
「お、う、うぅん…」
晴夫はうなずいていいのかどうか迷い、曖昧な返事をした。


しばらくすると、絵里が言ったとおりドラゴンは苦しげなうめき声を上げて腹を下した。

「本日は何にしましょうか」
「赤・青・黄」
「信号ですか?」
「そうだよ。微妙なグラデーションもつけてね」
にこにこと何がそんなにおかしいのか、美沙子さんは笑みを浮かべたまま俺が作業するのを見ている。

赤い花、青い花、黄色い花。

微妙な色味違いも併せて、だいたい九種類の花を選んで花束にする。
「毎度のことながら、私の要望にきっちり応えてくれて、うれしいなぁ」
美沙子さんはやっぱりにこにこ。

お客様の要望に応えられたのなら、店としても大満足だ。

が、しかし、
「でも、ちょーっと、葉の形のバランスが悪いわねぇ」
なかなか細かいところまでチェックされるのが難点だ。
「美沙子さん、色しか指定してないじゃないですか」
「それ意外も鑑みるのが花屋の腕の見せ所でしょ」
「そこまで美沙子さんのこと知りませんから、予想できません」
「政孝くんも、言うようになったねぇ。おもしろいわ」
思わずがっくりうなだれてしまった。

とりあえず、美沙子さんから指摘された葉っぱのバランスも考えて、また花の選び直しだ。

赤い花、青い花、黄色い花。

ギザギザの葉っぱ、丸い葉っぱ、細長い葉っぱ。

そのほかいろいろ。

さっきよりも種類が増えて、だいたい十四種類の花の束。
「どうですか」
「どれどれ」
俺が差しだした花束を、美沙子さんはためつすがめつ観察する。

時々、うーむ、とうなったりするから、心臓に悪い。
「うん。見事」
美沙子さんからOKサインをもらって、俺はどっと安堵した。
「じゃ、包装も期待しているよ」
「はいはい。どんなのがいいんですか?」
「そうだなぁ。白と淡い緑かな」
「わかりました」
棚の中からいろいろな包装紙を取り出して、台の上に並べる。

ちらりと目線を上げて、美沙子さんの反応を見る。

比較的、美沙子さんが長く見ていた包装紙を選ぶ。

花束をそれで包んで、濃い緑と真っ白なリボンで結ぶ。
「どうですか」
「うん。見事、見事」
美沙子さんが満足げに笑ってくれて、俺はほっと息をついた。
「政孝くん、いい仕事するねぇ」
「そりゃどうも」
「やっぱり花を買うなら政孝くんのところだよね。大好き」
花束を抱えて満面の笑みで美沙子さんは言う。

俺は不覚にもドキッとしてしまった。

美沙子さんはそんなつもりはないのだろうけれど、やっぱり最後の言葉は心臓に悪い。

雪を待っていたわけではないけれど






「こんな具合でどうですか?」

できあがった花束を浩一に見せる。
「そうだね。聡美(さとみ)に似合うと思う」
「そうですか? よかった」
成(なる)がほっとして笑みをこぼす。

浩一は代金を支払い、花束を受け取る。
「成」
「……はい?」
浩一に名前を呼ばれ、成はためらいがちに返事をする。

彼女の頬はうっすらと赤くなっている。
「僕が君に花を贈るのに違和感があるなら、君が僕に花を贈ればいい」
「……え」
「君にとっては、いい人は雪がつれてくるんだろ? 僕のいい人は君だから、雪に見立てて白い花束を持って僕を訪ねたら?」
「……なんなんですか、それは」
うー、とうなって成は顔を赤くしたまま浩一を見上げる。

浩一は彼女を見て楽しそうに笑う。
「まあ、今のは単なるたとえ話だけれどね」
「たとえでも言わないでくださいよぉ」
そんな気恥ずかしいことをさせられるのかと思いましたよ、と成は文句を言う。

成の言葉に、浩一の笑みはとまらない。
「浩一さん、いい加減笑うのやめてくださいよ」
「君がおもしろいから」
つい笑ってしまった、と言って、浩一は目を和らげる。

成はまた、うー、とうなってしまったが、他の客がいることに気づき、はっとして表情を改める。

浩一も他の客に気づき、それじゃあ、と言って、店の出入り口に行く。
「また花が必要になったら来てくださいね」
「うん、また」
じゃ、と手を挙げて、浩一は店を離れる。

またのお越しを、という成の声が背中から聞こえた。

成が接客する様子が気になり、浩一は少し歩いてから立ち止まり、店を見た。






店の中に成はいなかった。

成と面差しのよく似た女性が、仕事着のエプロンを着て接客している。

店の外に立って、浩一はその様子を呆然と眺めた。

女性が店先に出て、またのお越しを、と客に言っている。

お辞儀していた頭を上げたとき、女性が浩一に気づき、目を丸くしている。
「…もしかして、日野浩一さん?」
名前を当てられ、浩一はわずかばかり目を見張る。
「成から写真を見せてもらっていたんですよ。お会いするのは初めてでしたね、成の母です」
浩一も名を名乗り、お辞儀する。
「成さんは、いらっしゃらないのですか」
浩一の言葉に、成の母親は、驚いた顔をする。
「あの子、あなたには告げていなかったんですか」
浩一は嫌な予感を抱き、動悸が激しくなった。
「成は、あの子の父親の実家へ行ってしまったんです」


私と夫はもうずいぶん前に離婚しているんです。

離婚してから、あの人との連絡は途絶えていたんですけれど、ついこの間、あの人が倒れたという連絡が病院から入ったんです。

あの人には頼る親類がいなかったらしく、それならと、成があの人のところへ行ったんです。

最初は、私が行った方がいいんじゃないか、って言ったんですけれど、お母さんにはお店があるからと言って、聞かなくて。

慌てて出て行った様子でしたけれど、そうですか、日野さんに何も告げずに、あの子は出て行っていたんですね。

あの子に代わって、お詫び申し上げます。


成がいつ出て行ったのかを聞いたら、三日前と答えが返ってきた。

成の父親の実家というのは、交通網が複雑な場所だった。
「彼女が、いつ、帰ってくるか、わかりますか?」
浩一がそう聞くと、成の母親は首を横に振る。
「こちらから電話をかけて聞くんですけれど、あの子自身も、いつ帰ってこられるのかわからないと」
「そうですか」
お役に立てず申し訳ありません。

いえ、お気遣いなく。


二人はあまり感情を交えず会話を終え、お辞儀をして浩一は店を離れた。


浩一は自宅に向け歩を進める。

自分の父親が倒れたと聞き、成はどう思っただろうか、と彼の思考はそのことで占められていた。

そのときのことを想像すると、浩一には初めて成に接したときの、背中を向けてしゃがんでいる姿が浮かんだ。

どこか頼りなく、孤独を背負っているような小さな背中を、浩一は想像の中でじっと見つめた。






「兄貴」
背後から声をかけられ、浩一はゆっくりと振り返る。

居間の入り口のふすまに、妹の聡美が立っていた。

彼は今しゃがんでいる状態のため、自然と彼女を見上げる形になっていた。

彼と目が合うと、聡美は彼に近づいた。
「兄貴。迎えに行かないの」
その言葉を聞き、浩一はまた外に顔を向ける。
「兄貴はいつだって、成さんの行動を認めて、成さんを縛ることはしてこなかった。今だってそうだ。本当は連れ戻したいのに、それは成さんの本意じゃないから実行していない。でも、もう充分だよ。兄貴は一年待ったんだ。もう、迎えに行っていいよ」
聡美はそう言うと、浩一の隣に座った。

二人並んで静かに降り注ぐ雪を見つめる。
「成さんにとって、いい人は雪がつれてくるものなんでしょ」
聡美の言葉が、浩一の中にしみ込んでいく。

浩一は一度目をつぶり、ゆっくりと息を吐き出すと、おもむろに立ち上がる。
「いってらっしゃい、兄貴」
聡美の言葉を背後に聞き、浩一は家を出た。




最寄りの駅に向かい、浩一は歩を進める。

雪の降る勢いは変わらないが、まだやむ気配はなかった。

白い息を吐き出し、うっすらと地面に積もった雪を踏みしめる。

傘は持ってこなかった。

ただでさえ雪のせいで視界が狭くなっているのに、さらに狭くする必要はないだろうと、浩一は考えていた。


最寄り駅のすぐ近くの踏切に引っかかる。

電車が三本通過するのを見届けると、遮断機が上がる。

上がりきる前に足を踏み出す。
「どこに行くんですか?」
背後から声をかけられ、浩一は踏み出した足を戻す。
「そっちに行かれたら困るんですよ」
さくさくと地面を踏みしめる音が近づいてくる。

浩一はゆっくりと振り返った。
「何をしているの」
「いや、別に何ってほどのことは何もしていないですけれど」
「君って本当、期待を裏切るよね」
「どういう意味ですか、それは」
「そのままだと思うけれど」
しばらく見ない間に頭のねじでもゆるんだ? と浩一は首をかしげる。

失礼ですよ、とふてくされた声が返ってくる。
「おかえり」
「……ただいま」
「なんで、連絡をよこさなかったの」
「……決まり悪くて」
何も言わずに出て行ってしまったのに、どの面提げて連絡しているのって言われそうで、ともごもご言う。
「どの面提げて帰ってきたの」
「……浩一さんはそっちですよねぇ、やっぱり」
わかってはいたんですけど度胸がなくて。

ははは、と乾いた笑いを付け加える。
「で」
「はい?」
「それは?」
あ、やっと指摘してくれるんですか、と少し声の調子が浮上する。
「わたくし、相模成は、畏れ多くも日野浩一さんのいい人に認められましたので、雪につれられて舞い戻ってきました。これはその証です。どうぞ受け取ってください」
成はそう言うと、腕に抱えた白い花束を浩一に差し出す。

浩一は成の顔と花束とを交互に見る。
「……何その芝居がかった語り口調」
「いや、そっちの方がおもしろいかなぁ、と思いまして」
「君って本当、たびたび変だよね」
「浩一さんもなかなか変ですよ」
二人はじっと相手を見合う。
「……成」
「はい?」
「いい人の意味はわかったわけ?」
「わかりましたよ」
だからこれを差し出すんです、とにっこり笑って成は告げる。

ふぅん、と呟いて、浩一はそっと花束を受け取った。
「受け取りましたね?」
「受け取ったよ」
「これで浩一さんも、私のいい人になりましたね」
相思相愛ですね、とうれしそうに成が言う。

知らなかったの? と浩一が意地悪げな笑みを浮かべる。

そのやりとりに、二人は同時に笑いをこぼす。
「おかえり、成」
「ただいま、浩一さん」
二人はお互いの手を取り合い、ゆっくりと歩を進める。

二人が歩いた後には、雪に混じって白い花びらがはらはらと舞い落ちた。





雪を待っていたわけではないけれど






いつものように図書準備室に入って、浩一は成(なる)をいすに座らせる。

ついでに彼女の膝にタオルケットを掛けた。

簡易キッチンでお茶を用意し、成に渡す。

成はまた、ありがとうございます、と呟き、お茶をゆっくりと飲んでいく。

彼女の頭から水滴が落ちているのを見た浩一は、彼女の後ろに回り、別の乾いたタオルで水分を取っていく。

成はそれを素直に受けていた。
「高校生になっても、えげつない人間はえげつないよね」
そう思わない? と浩一が聞く。
「日野先輩、見ていたんですか?」
「けっこう人通りの多い場所だし、目立つ場所でもあったからね」
たまたまだよ、と続ける。

彼がわざわざ見学するような人物ではないとわかっているので、成は、本当にたまたまだったのだろう、と思った。
「もうすぐ卒業だから、高校生活最後の鬱憤晴らしだったんですかね?」
「さぁ? だからといって、上級生が下級生にバケツの水をぶっかける言い訳にはならないでしょ」
しかも掃除で使ったバケツの水だし、悪意の固まりだね、と浩一は続ける。

言葉は素っ気ないが、成の頭をタオルで拭く手つきは、とても優しいものだった。
「地毛だって、何度も言ってるんですけどねぇ」
そう呟いて、成は自分の髪を一房つまむ。

彼女の髪は鮮やかな茶色だった。
「その色落としてやる、って言って、バケツの水をかけられたんです。女の人のすることじゃないですよねぇ。言葉も汚かったし」
成は努めて淡々と言葉を紡ぐ。

意識して言葉を出さないと、たちまち涙が流れそうだった。


ある程度水気をぬぐった浩一は、手櫛で成の髪を整え、彼女の肩にタオルを引っかける。

それが終わると、浩一は彼女の前に回り、床に膝をつき、成を見つめる。
「その髪を黒に染めるとか、バカなことは考えてないだろうね?」
「バカって…。まあ、考えてはいないですけど…」
「それならいいよ。せっかくの天然物なんだから、もったいない」
「もったいないって…」
「黒髪の君なんて、気持ち悪いだけだよ。君はその色のままでいい」
浩一の言葉に成は目を見開く。

その拍子に、目の縁にたまっていた涙がこぼれ出す。
「僕は嫌いじゃないよ」
成はくしゃりと顔をゆがめ、うー、とうなりながらボロボロと涙を流す。

タオルケットを握りしめている成の手を取って、浩一がそっと握った。






「兄貴が女の人と手をつないでる」
後ろからそう声をかけられ、成と浩一は振り返る。

中学生ぐらいの女の子の姿を確認し、二人はそっとつないでいた手を離した。
「聡美(さとみ)。いたの」
「いたよ。学校からの帰り」
成が不思議そうに浩一と聡美を交互に見る。

その視線に気づいた浩一が、ああ、と呟いて、妹、と答える。
「中学二年」
「日野先輩、妹さんがいたんですか」
「言ってなかったっけ?」
「というか、家族構成を知らないです」
「君も言ってないと思うけど」
「そうでしたっけ?」
成と浩一は二人そろって首をかしげる。

その様子に、聡美がきょとんとしている。
「相模成さん、ですか?」
「あ、うん、相模成です。お兄さんの一歳年下の後輩です」
「兄貴からお話は伺っています」
聡美の言葉に成は浩一を睨む。
「何」
「どんなことを話したんですか?」
「いろいろ」
「たとえば」
「…いろいろ」
はっきりしない浩一の返事に成はさらに睨むが、浩一は顔をそらしている。

聡美はじっと成を見ている。
「兄貴。この人が、兄貴のいい人?」
聡美の言葉に二人は彼女の方を向く。

成は意味がわからなかったのか、きょとんとしている。
「そうだよ」
「なるほど」
「いい人って?」
「雨が降ったらつれてきてもらう人」
「はぁ?」
浩一の返事に成はいぶかしげな声を上げる。
「雨にお願いしている歌。私のいい人をつれてきて、って」
聡美がさらに付け加えると、ああ、と成が合点のいった声を上げた。
「うん、知ってる。でも、妹さん、よく知ってるね。古い歌なのに」
「最近、テレビで昔の歌謡曲がよく流れているから」
「なるほどねぇ。…でも、それと私が日野先輩のいい人って、何の関連があるの?」
成の返事に浩一が呆れたような表情をする。
「君って期待通りの反応をしない子だよね」
「日野先輩、私をバカにしているんですか?」
「どうかな」
なんですか、その返事は、と成が浩一に突っかかるが、浩一はどこ吹く風だった。
「君が僕を下の名前で呼んだら、教えてもいいよ」
「じゃあ、浩一さん」
「……君って本当、期待を裏切るよね」
浩一が大きくため息をついた。

成は訳がわからないのか、眉尻がつり上がっている。
「どうせだから浩一さんも私のことを下の名前で呼んでくださいよ。と言うか、いい加減、君って呼ぶのやめてください」
「こっちの方が慣れてるから」
「人には注文をつけておいて何ですか。しかも結局、いい人の意味を教えてくれないし」
「気が向いたらね」
浩一の返事に成はムスッとしたが、まあ、いいや、とすぐに表情を戻した。
「でも、なんで雨にお願いするんでしょうね。私だったら雪の方がいいなぁ」
「なんで雪?」
「ここら辺はなかなか雪が降らないじゃないですか。いい人の意味はいまいちよくわからないけれど、なんだか希少な存在のような気がするから、めったに降らない雪にお願いした方が希少価値が高まりそうだし、より願いを叶えてくれそうだし」
「君ってたびたび変なことを言うよね」
「浩一さんはけっこう失礼ですよね」
普段なら顔をしかめるはずの浩一が、成の言葉を聞いて彼女をじっと見つめている。
「浩一さん?」
「兄貴?」
成と聡美が首をかしげる。
「……君はもう、日野先輩とは呼ばないの」
「名前で呼べって言ったじゃないですか。嫌なんですか?」
「……まだ慣れないだけ」
なかなか言葉が出てこない浩一が珍しく、成と聡美はまじまじと彼を見ていた。

その視線が不快だったのか、浩一は顔をしかめ、さっさと前を歩く。

浩一の後ろ姿を見て、成はさらに首をかしげる。
「……結局、私の名前、呼んでくれてないし」
ずるいなぁ、と成が呟くと、聡美が彼女の袖を引く。

成はきょとんとして聡美を見る。
「兄貴、成さんのことを私に話すときは、名前で呼んでますよ。成、って」
聡美の話に成は目を丸くし、浩一の背中に顔を戻す。

浩一は少し遠い位置にいた。

成はじっと見つめた後、照れくさそうに表情を崩した。
「素直じゃないなぁ」






「君もね」
浩一の指摘に、うっ、と成は言葉を詰まらせ、仕事着のエプロンをいじる。
「せっかく僕が来たんだから、素直に喜べばいいのに」
「なんで浩一さんが来ただけで私が喜ぶんですか。浩一さんこそ、素直に私に会いに来たって言えばいいじゃないですか」
それなのに花を買いに来たとか言って、と成はぶつぶつと文句を言う。
「だって、ここ、花屋でしょ」
「それはそうですけどぉ」
成はどこかふてくされている。

その様子に浩一は首をかしげる。
「何? 機嫌が悪いの?」
「別に…」
「嘘はつかないでよ」
成はまた、うっ、と言葉に詰まっていた。

久々に聞いたなぁ、その言葉、と言って、成はうつむいている。
「何かあったの」
「浩一さんが来る前までは何もなかったですよ」
「僕が何かしたの」
成はうつむいたまま、うー、とうなっている。
「……成」
バッと成は顔を上げる。

目を丸くして、驚いたように浩一を見る。
「僕が何かしたの」
もう一度同じことを言うと、成は視線を泳がせた後、あきらめたのか一つため息をついて、浩一の顔を見た。
「……誰に、花をあげるんですか?」
成の言葉に浩一は首をかしげたが、ああ、と言って、あげるわけじゃないよ、と続ける。
「え?」
「母親からの頼まれごとだから。聡美が明日中学を卒業するから、その時に食卓に飾る花を買ってこいって言われて」
君が花屋の娘だってことは、両親にも言ってあるし、と浩一はさらっと言う。

成は彼の言葉を聞いた後、しばらく固まっていた。

その様子に浩一はまた首をかしげる。
「どうしたの」
「え、あ、うーんと…」
「どうしたの」
たたみかけるように聞くと、成は意を決したように浩一を見上げる。
「浩一さんが女性に花を贈るわけじゃないとわかって、ほっとしていたんです」
ふぅん、と呟いて、浩一は成をじっと見る。
「僕から花を贈ってほしかったの」
「いや、そういうわけではないです。だって、浩一さんが花を買うとしたらうちの家でしょ」
「そうなるだろうね」
「うちの家で買った花をもらうって、なんだか変な感じがしますし」
「そういうものなの」
「私の場合は」
ふぅん、と浩一はまた呟く。
「まあ、それは今はいいとして、僕は花を買いに来たんだけれど」
「あ、そうでした。食卓に飾る花でしたよね」
「予算は三千円で」
「わかりました」
成は暖色系の花を選んで、それほど多くもなく少なくもない花束を作っていく。



続く


雪を待っていたわけではないけれど





昇降口に向かって並んで歩く。
「日野先輩」
「何?」
「図書準備室で勉強していたって言っていましたけど、受験勉強ですか?」
「この時期にそれ以外あるの」
「いえ、あの、日野先輩が勉強している姿って、見たことがなくて…」
図書準備室ではお茶を飲んでいるか本を読んでいるかだったし、と成(なる)が小声で続ける。
「あの場所は静かだからね。はかどるんだよ」
「そうですか。…日野先輩も、受験生なんですよねぇ」
「…何」
「いえ、なんか、寂しいなぁって」
意外な言葉を聞き、浩一はまじまじと隣にいる成を見た。
「だって、受験が終わったら卒業じゃないですか」
「そうだね」
「図書室の主がいなくなるなんて、変な感じなんです」
主なんですからずっといてくださいよ、と成はどこかふてくされたような声音だった。

また意外なものを聞いたと思い、浩一は思わず立ち止まった。

少し先で成も立ち止まり振り返る。
「どうしました?」
「…君、そんな風に思っていたんだ」
「…悪いですか」
「いや、そこまで僕に気を配っていたとは、思わなかったから」
驚いているだけ、と言うと、日野先輩でも驚くんですか、と成が驚いて言う。

失礼だよ、と浩一が言うと、すみません、と成は素直に謝った。
「高校、この中学の系列校で、そこにも図書準備室にキッチンがあるんだよ」
「じゃあ、高校でも図書室の主をするんですか」
「当然でしょ」
さらっと浩一が答えると、成がほっとしたように笑った。

本日初めて見る笑顔で、浩一の方もほっと息をついた。
「あ」
「何ですか?」
「君、さっき腕を枕にして眠っていたでしょ」
「ええ、まあ、そうですけど…」
「制服の痕、額についてるよ」
「え!」
カァッ、と成の顔が真っ赤になり、口をあんぐりと開けている。

浩一は彼女の様子を気にすることなく、彼女の額に手を伸ばす。






ベシッ、と小気味よい音を立てて、成は額をはたかれた。
「痛!」
「合格おめでとう」
成の額をはたいた浩一は、平坦な口調でそう述べる。

成は額をさすりながら、うー、とうなり声を上げて、浩一を恨みがましく見上げる。
「なんではたくんですか」
「いや、あまりに満面の笑顔で駆けてくるものだから、前髪もきれいに流れていたからね、はたきたくなった」
「そんな理由ですか、ひどいですよ」
「そんなにひどくないよ」
大袈裟じゃない? と続く浩一の言葉を聞き、成はムスッとする。
「日野先輩はひどいですー」
「何? そんなこと言うなら学校案内しないよ」
嘘ですっ、ごめんなさいっ、と成がすぐさま謝る。

その様子がおかしかったのか、浩一がプッと吹き出し、クスクスと笑う。

成は、カァッ、と顔を赤らめながらも、やっぱりきれいに笑う人だな、と浩一を見上げて思っていた。
「今から学校の中見る?」
「いいんですか?」
「いいから言ってるんでしょ。どこから見たい?」
「もちろん図書室と準備室ですよ」
「何? 居座る気?」
「そりゃあ、当然ですよ。私は図書室の主の相棒なんですから」
「いつからそんなものになったの」
「日野先輩が中学を卒業した後からです」
中学三年では私が図書室の主をしていたんですよぉ、と続けると、へぇ、と浩一の返事があった。
「君って物好きだよね」
「日野先輩ほどじゃないですぅ」
「…やっぱり学校案内をやめようか」
「ごめんないっ、すみませんっ、口が滑りましたっ」
成が慌てて言うと、ははっ、と浩一は声を上げて笑った。

そんな風に彼が笑う姿を見るのは初めてで、成は、うわー、と小声で呟きながら、顔を赤くしていた。

声を上げて笑うと、年相応の表情になるんだ、と新たな発見に成の胸は温かくなる。
「まあ、いいや。こっちにおいで」
「はい」
少し先を行く浩一に、成は彼の斜め後ろに位置してついて行く。




「ここが図書準備室」
浩一に案内してもらった図書準備室を見て、成は、おお、と声を上げていた。
「さすが日野先輩、中学の時の図書準備室と大差ない配置具合ですね」
「僕が過ごしやすい部屋にしているから」
さすがですねぇ、と呟いて、成はきょろきょろと辺りを見回し、窓辺の棚を見て、あ、と声を上げた。
「あの鉢植え…」
「ああ。まだ枯れてなかったから、僕が卒業するときに中学から持ってきた」
「私はてっきり捨てられたんだとばかり思っていましたよ」
成の言葉に、まさか、と浩一は呟く。
「もったいないって、言ったでしょ」
それは今でも有効だよ、と浩一は続ける。

成は、カァッ、と頬を赤らめて、ありがとうございます、とぼそぼそと礼を言う。
「そこら辺に座って。お茶入れるから」
「えーっ、そんな、いいですよ、わざわざ」
「さっさと座って」
「……はい」
相変わらず有無を言わせないですよねぇ、まあ、それが日野先輩ですけど、とぶつぶつ呟きながらもいすに座る。

それを聞いていたのか、簡易キッチンにいる浩一がクスクスと笑っている。
「白玉団子があるけど、食べる?」
「食べます! 好物です!」
「君って現金だよね」
お茶は渋ったくせに、と続けられ、成は、うー、とうなっていた。
「はい、お茶と団子」
トンと長机に浩一が湯飲みと皿を置く。

ありがとうございます、と言って、成はお茶を飲む。
「久々に飲みますねぇ、日野先輩のお茶」
やっぱり美味しいですよ、と言って、成はにっこり笑う。
「まさかご機嫌取り?」
「違いますよ。正直な感想です」
「ふぅん」
成は白玉団子も食べ、にこにこと笑みを浮かべている。

彼女の様子を見ていた浩一が、ふっと柔らかに微笑む。
「そんなに言うなら、またいつでもおいで」
成は少しの間固まり、顔を真っ赤にさせて、照れ隠しに浩一に拳を振り下ろす。






ダンッ、と音をさせ、扉が揺れる。

振り下ろした成の拳が赤くなる。

ギリッと歯をかみしめ、もう一度拳を振り上げる。
「それ以上やると、骨折するよ」
振り上げた成の腕を浩一がつかむ。

成は一度ビクリと震えた後、体から力を抜いて後ろを振り返る。
「日野、先輩…」
成は思いの外情けない声が出て、顔をゆがませる。

成をじっと見下ろしていた浩一は、つかんだ腕をそのままに、こっち、と言って、彼女を移動させる。

成は腕をつかまれたまま、素直に浩一の後を歩く。


浩一がつれてきたのは、運動部が使うシャワールームだった。
「タオルと着替えは僕のを使えばいいから」
そう言って成をシャワールームに押し込む。

成は、ありがとうございます、と呟いて、シャワーを使う。

汚れたバケツの水を浴びせられた頭を、早く洗い流したいと、成は思っていた。


浩一のジャージに着替えた成がシャワールームから出てくると、浩一はまた成の腕をつかんで移動する。

成は何も言わず浩一についていった。



続く