雪を待っていたわけではないけれど






いつものように図書準備室に入って、浩一は成(なる)をいすに座らせる。

ついでに彼女の膝にタオルケットを掛けた。

簡易キッチンでお茶を用意し、成に渡す。

成はまた、ありがとうございます、と呟き、お茶をゆっくりと飲んでいく。

彼女の頭から水滴が落ちているのを見た浩一は、彼女の後ろに回り、別の乾いたタオルで水分を取っていく。

成はそれを素直に受けていた。
「高校生になっても、えげつない人間はえげつないよね」
そう思わない? と浩一が聞く。
「日野先輩、見ていたんですか?」
「けっこう人通りの多い場所だし、目立つ場所でもあったからね」
たまたまだよ、と続ける。

彼がわざわざ見学するような人物ではないとわかっているので、成は、本当にたまたまだったのだろう、と思った。
「もうすぐ卒業だから、高校生活最後の鬱憤晴らしだったんですかね?」
「さぁ? だからといって、上級生が下級生にバケツの水をぶっかける言い訳にはならないでしょ」
しかも掃除で使ったバケツの水だし、悪意の固まりだね、と浩一は続ける。

言葉は素っ気ないが、成の頭をタオルで拭く手つきは、とても優しいものだった。
「地毛だって、何度も言ってるんですけどねぇ」
そう呟いて、成は自分の髪を一房つまむ。

彼女の髪は鮮やかな茶色だった。
「その色落としてやる、って言って、バケツの水をかけられたんです。女の人のすることじゃないですよねぇ。言葉も汚かったし」
成は努めて淡々と言葉を紡ぐ。

意識して言葉を出さないと、たちまち涙が流れそうだった。


ある程度水気をぬぐった浩一は、手櫛で成の髪を整え、彼女の肩にタオルを引っかける。

それが終わると、浩一は彼女の前に回り、床に膝をつき、成を見つめる。
「その髪を黒に染めるとか、バカなことは考えてないだろうね?」
「バカって…。まあ、考えてはいないですけど…」
「それならいいよ。せっかくの天然物なんだから、もったいない」
「もったいないって…」
「黒髪の君なんて、気持ち悪いだけだよ。君はその色のままでいい」
浩一の言葉に成は目を見開く。

その拍子に、目の縁にたまっていた涙がこぼれ出す。
「僕は嫌いじゃないよ」
成はくしゃりと顔をゆがめ、うー、とうなりながらボロボロと涙を流す。

タオルケットを握りしめている成の手を取って、浩一がそっと握った。






「兄貴が女の人と手をつないでる」
後ろからそう声をかけられ、成と浩一は振り返る。

中学生ぐらいの女の子の姿を確認し、二人はそっとつないでいた手を離した。
「聡美(さとみ)。いたの」
「いたよ。学校からの帰り」
成が不思議そうに浩一と聡美を交互に見る。

その視線に気づいた浩一が、ああ、と呟いて、妹、と答える。
「中学二年」
「日野先輩、妹さんがいたんですか」
「言ってなかったっけ?」
「というか、家族構成を知らないです」
「君も言ってないと思うけど」
「そうでしたっけ?」
成と浩一は二人そろって首をかしげる。

その様子に、聡美がきょとんとしている。
「相模成さん、ですか?」
「あ、うん、相模成です。お兄さんの一歳年下の後輩です」
「兄貴からお話は伺っています」
聡美の言葉に成は浩一を睨む。
「何」
「どんなことを話したんですか?」
「いろいろ」
「たとえば」
「…いろいろ」
はっきりしない浩一の返事に成はさらに睨むが、浩一は顔をそらしている。

聡美はじっと成を見ている。
「兄貴。この人が、兄貴のいい人?」
聡美の言葉に二人は彼女の方を向く。

成は意味がわからなかったのか、きょとんとしている。
「そうだよ」
「なるほど」
「いい人って?」
「雨が降ったらつれてきてもらう人」
「はぁ?」
浩一の返事に成はいぶかしげな声を上げる。
「雨にお願いしている歌。私のいい人をつれてきて、って」
聡美がさらに付け加えると、ああ、と成が合点のいった声を上げた。
「うん、知ってる。でも、妹さん、よく知ってるね。古い歌なのに」
「最近、テレビで昔の歌謡曲がよく流れているから」
「なるほどねぇ。…でも、それと私が日野先輩のいい人って、何の関連があるの?」
成の返事に浩一が呆れたような表情をする。
「君って期待通りの反応をしない子だよね」
「日野先輩、私をバカにしているんですか?」
「どうかな」
なんですか、その返事は、と成が浩一に突っかかるが、浩一はどこ吹く風だった。
「君が僕を下の名前で呼んだら、教えてもいいよ」
「じゃあ、浩一さん」
「……君って本当、期待を裏切るよね」
浩一が大きくため息をついた。

成は訳がわからないのか、眉尻がつり上がっている。
「どうせだから浩一さんも私のことを下の名前で呼んでくださいよ。と言うか、いい加減、君って呼ぶのやめてください」
「こっちの方が慣れてるから」
「人には注文をつけておいて何ですか。しかも結局、いい人の意味を教えてくれないし」
「気が向いたらね」
浩一の返事に成はムスッとしたが、まあ、いいや、とすぐに表情を戻した。
「でも、なんで雨にお願いするんでしょうね。私だったら雪の方がいいなぁ」
「なんで雪?」
「ここら辺はなかなか雪が降らないじゃないですか。いい人の意味はいまいちよくわからないけれど、なんだか希少な存在のような気がするから、めったに降らない雪にお願いした方が希少価値が高まりそうだし、より願いを叶えてくれそうだし」
「君ってたびたび変なことを言うよね」
「浩一さんはけっこう失礼ですよね」
普段なら顔をしかめるはずの浩一が、成の言葉を聞いて彼女をじっと見つめている。
「浩一さん?」
「兄貴?」
成と聡美が首をかしげる。
「……君はもう、日野先輩とは呼ばないの」
「名前で呼べって言ったじゃないですか。嫌なんですか?」
「……まだ慣れないだけ」
なかなか言葉が出てこない浩一が珍しく、成と聡美はまじまじと彼を見ていた。

その視線が不快だったのか、浩一は顔をしかめ、さっさと前を歩く。

浩一の後ろ姿を見て、成はさらに首をかしげる。
「……結局、私の名前、呼んでくれてないし」
ずるいなぁ、と成が呟くと、聡美が彼女の袖を引く。

成はきょとんとして聡美を見る。
「兄貴、成さんのことを私に話すときは、名前で呼んでますよ。成、って」
聡美の話に成は目を丸くし、浩一の背中に顔を戻す。

浩一は少し遠い位置にいた。

成はじっと見つめた後、照れくさそうに表情を崩した。
「素直じゃないなぁ」






「君もね」
浩一の指摘に、うっ、と成は言葉を詰まらせ、仕事着のエプロンをいじる。
「せっかく僕が来たんだから、素直に喜べばいいのに」
「なんで浩一さんが来ただけで私が喜ぶんですか。浩一さんこそ、素直に私に会いに来たって言えばいいじゃないですか」
それなのに花を買いに来たとか言って、と成はぶつぶつと文句を言う。
「だって、ここ、花屋でしょ」
「それはそうですけどぉ」
成はどこかふてくされている。

その様子に浩一は首をかしげる。
「何? 機嫌が悪いの?」
「別に…」
「嘘はつかないでよ」
成はまた、うっ、と言葉に詰まっていた。

久々に聞いたなぁ、その言葉、と言って、成はうつむいている。
「何かあったの」
「浩一さんが来る前までは何もなかったですよ」
「僕が何かしたの」
成はうつむいたまま、うー、とうなっている。
「……成」
バッと成は顔を上げる。

目を丸くして、驚いたように浩一を見る。
「僕が何かしたの」
もう一度同じことを言うと、成は視線を泳がせた後、あきらめたのか一つため息をついて、浩一の顔を見た。
「……誰に、花をあげるんですか?」
成の言葉に浩一は首をかしげたが、ああ、と言って、あげるわけじゃないよ、と続ける。
「え?」
「母親からの頼まれごとだから。聡美が明日中学を卒業するから、その時に食卓に飾る花を買ってこいって言われて」
君が花屋の娘だってことは、両親にも言ってあるし、と浩一はさらっと言う。

成は彼の言葉を聞いた後、しばらく固まっていた。

その様子に浩一はまた首をかしげる。
「どうしたの」
「え、あ、うーんと…」
「どうしたの」
たたみかけるように聞くと、成は意を決したように浩一を見上げる。
「浩一さんが女性に花を贈るわけじゃないとわかって、ほっとしていたんです」
ふぅん、と呟いて、浩一は成をじっと見る。
「僕から花を贈ってほしかったの」
「いや、そういうわけではないです。だって、浩一さんが花を買うとしたらうちの家でしょ」
「そうなるだろうね」
「うちの家で買った花をもらうって、なんだか変な感じがしますし」
「そういうものなの」
「私の場合は」
ふぅん、と浩一はまた呟く。
「まあ、それは今はいいとして、僕は花を買いに来たんだけれど」
「あ、そうでした。食卓に飾る花でしたよね」
「予算は三千円で」
「わかりました」
成は暖色系の花を選んで、それほど多くもなく少なくもない花束を作っていく。



続く