阪上(さかがみ)家の末っ子である長女・和(かず)は、夜の林の中が苦手だった。
それは、幼い頃の出来事に起因している。
それがあって、和は夕方の暗くなりかけた頃に林へ近づくことはなかった。
だが、その事実を知っているのは、長兄・利(とし)だけだった。
母親と次兄・雅(まさ)には言わないでくれ、と和が頼んだのだ。
そのため、原因となった出来事から五年以上経った今でも、母親と雅は何も知らないままだった。
利の中学校入学祝いにと阪上家の面々は、緑に囲まれた温泉旅館へ来ていた。
「うおう! 絶景!」
「若葉がきれいだね」
小学六年になった雅と小学五年になった和が窓を開けて歓声を上げている。
この旅行の主役であるはずの利は、皆の荷物を部屋に運んでいる。
利は眼鏡のずれを直して、窓にへばりついている弟妹をギロリと睨む。
「雅。和。自分の荷物くらい自分で運べ」
「げっ、兄貴っ」
「利兄、ありがとう」
二人はそそくさと利のところへ向かう。
「利ー。ドアが開かないんだけどー」
部屋の外から母親の声がして、子どもたちはドアからのぞき込んだ。
「母さん! そこ、他の人の部屋! 俺たちはここ!」
「あ、そうなんだ」
利が慌てて母親の元へ向かう。
「母さん、相変わらずとぼけてるよなー」
「うん。利兄、苦労するね」
雅と和はくすりと笑った。
「和、ここさ、星がきれいに見えるところなんだって。夜になったら、外に行って見てみない?」
雅の言葉に、ぴくりと和の体が震えた。
「この部屋からでも、見えるんじゃないかな?」
「うーん、まあ、そうかもしれないけど、ほら、高い木に囲まれてるから、見えにくいかも」
二人は窓の外を見る。
たしかに、雅が言ったとおりだった。
空が狭い。
「うん。考えとく」
和の返事に雅はきょとんとしたが、すぐにへらっと笑みを浮かべた。
「雅ー、和ー。テーブルにお菓子が置いてあるよー」
「あ、食べる」
母親の言葉に雅はすぐテーブルのところに行った。
入れ替わりに利が和のところへ行く。
「大丈夫なのか? 和」
利は眉間にしわを寄せ、心配げに聞く。
先の雅と和の会話のことだった。
和は少し首を傾げる。
「大丈夫だと思う。林の中に入るわけじゃないから」
「ていうことは、雅と星を見るのか」
「うん。雅兄が楽しみにしてるみたいだし」
利は、はあ、とため息を吐いた。
「和は雅に甘いな」
「うーん、そうかな?」
和はまた首を傾げたが、すぐに元の位置に戻した。
「利兄、私もお菓子食べてくるね」
「うん」
利はまだ心配げな表情で和の背中を見送った。
「隙ありっ」
トン、と利は眉間を人差し指で叩かれた。
慌てて人差し指の主を見ると、母親がにっこり笑って利を見ていた。
「利、また眉間にしわが寄ってたよ。何か難しいことでも考えていたの?」
「いや、ちょっと…」
利はちらりと雅と和の方を見る。
二人は美味しそうにお菓子を食べていた。
その視線に母親も気づいた。
「利は、本当に、弟妹想いだね」
「別にそんなことないけど…」
利は言い方がしどろもどろになっている。
母親はにっこり笑って、よしよし、と利の頭をなでた。
「利は優しい子ね」
利は照れくささに顔を赤くした。
早速温泉に入ろう、という母親の提案で、皆は露天風呂につかっている。
「は~。気持ちいい」
男湯にいる雅は岩の一つを背もたれにして、全身の力を抜いた。
「雅、おぼれるなよ」
「そこまで間抜けじゃないよ!」
どうだか、と呟いて、利も岩に体を預けた。
見上げた空には、うっすらと朱色が混ざっていた。
その様子を見て、利は少しばかり顔をしかめた。
「和さー、なんで星を見るの渋ったのかなー? たしか、星空が好きって言っていたはずなのに」
雅はしきりに首を傾げている。
利は顔をしかめたまま彼を見た。
『利兄、言わないでね』
今よりも幼い和の声が利の頭の中に響いた。
利はたまらず、雅から顔をそらしてうつむいた。
「兄貴、何か知らない?」
雅が利の顔をのぞき込む。
『雅兄に言わないでね。雅兄、きっと、悲しくなるから』
「…雅は、心当たりないのか?」
雅の顔を見ないまま、利は聞いた。
雅は、うーん、とうなって首を傾げている。
それをちらりと見て、利はため息を吐いた。
女湯では、和が岩に寄りかかって空を見上げていた。
「空気が澄んでいて緑の匂いが心地よいね」
そう言いながら露天風呂に入ってきた母親の方を向いて、和はコクンとうなずいた。
母親はにっこり笑って和に近づく。
「雅と星を見に外へ行くの?」
「うん」
「二人きりの方がいい? 雅はシスコンだから、私と利は邪魔に思うかもね」
「利兄のお祝いで来てるんだけどね。雅兄ならあり得る」
和と母親はくすくすと笑い合った。
「利が、心配そうに雅と和を見てたよ」
和は目を数度瞬かせた。
母親は穏やかな笑みを浮かべて、和を見る。
「何か、気になることでもあるの?」
じっと母親を見たあと、顔をそらして和はうつむいた。
「…雅兄と星を見るために、克服しなくちゃいけないことがあるの」
「うん」
「だから、これから、それを克服しようと思うの」
「これから?」
母親はきょとんとして首を傾げる。
和は母親の方を向いて、しっかりとうなずいた。
「私、先に上がるね」
ザバ、と音を立てて和は風呂から上がり、母親は彼女の背中を目で追うことしかできなかった。
利と雅が部屋に戻ってくると、母親が一人で窓の外を見ていた。
「あれ? 和は?」
雅が聞くと、母親は困ったような顔をして息子二人を見た。
「出かけちゃったみたいなの」
「え、もうすぐ夕飯なのに?」
母親の様子を見て、利は彼女の近くに座った。
「お風呂で何かあったの?」
母親は眉毛をハの字にして利を見た。
「雅と星を見るために、克服しなくちゃいけないことがあるって、言って、これから克服するって、言って、お風呂から上がってそのまま」
母親の言葉に利は顔をしかめた。
「克服って何を?」
雅が間髪入れずに聞く。
「それはわからない」
母親はしゅんとしてうつむいた。
「和はきっと、林の中にいるよ」
利の言葉に二人は彼を見た。
「和は、夜の林の中が怖いんだ」
「ど、どうして?」
「『どうして』?」
利はギロリと雅を見た。
「お前のせいだろ、雅!」
「お、俺!?」
雅はすくみ上がる。
「和に、言うな、って言われたけど、お前がちっとも覚えてないようだから言ってやる!」
「兄貴?」
利は立ち上がって雅を正面から見た。
「お前が五歳で和が四歳の時だ」
雅はゴクリとつばを飲み込む。
「お前は、暗くなるまで林の中に和を連れ回して、和が辺りの暗さに泣き出したら、うるさい、って言って、和を置き去りにしたんだ」
雅は目を見開いた。
「お前しか帰ってこなくて、俺が和を迎えに行った。和は、怖いのに、泣くのを我慢してじっとうずくまっていた」
利はまた雅を睨みつけた。
「それから和は、泣かなくなった。泣いたらお前が怒ると思って。夜の林にも行かなかった。その時のことがまざまざと思い出されるから」
雅は目を見開いたまま、何も言えないでいる。
「覚えてなかっただろ。あの時のことは、お前の中では二度と思い出したくない嫌な記憶だからな。あの時のお前は、和の泣き顔が見たくなかったんだよ。それを見てしまって、嫌な気持ちになったんだ」
利の言葉で、雅はその時の記憶を思い出していた。
和が泣き出す前までの高揚感、泣き出してからの不快感、それらが一気に蘇った。
「俺…」
「…和は、このことをお前に言うな、って言ったんだ。お前が悲しむからって。和は、…お前を責めることなく、お前を気遣ったんだ」
ダッ! と雅は走り出した。
利と母親は、彼の背中を見送った。
「利。どうして、そのこと、私に言わなかったの?」
利はばつが悪そうに母親の方を向いた。
「…母さんも、つらくなるかと、思って」
母親は、よしよし、と利の頭をなでた。
「利はやっぱり、優しい子ね」
利は顔を赤らめた。
雅はときどきつまずきそうになりながら、林の中を走っていた。
夕日は地平に沈もうとしている。
「和ー!」
目をこらして和の姿を捜した。
息が乱れてきた頃、視界の端に人影が見えた。
「和!?」
そちらに顔を向けると、和が膝を抱えて地面にうずくまっていた。
「和!」
雅は和の元へ走った。
「雅兄?」
雅の声に気づいて、和が顔を上げた。
ガバッと雅は和を抱きしめた。
「ごめん、和。俺、全然覚えてなくて。和が、苦しんでるの、全然気づいてなくて。ごめんな、和。泣いていいから。怖かったら、怖いって言って、泣いていいから。本当、ごめん」
ぎゅっと、雅は和を抱きしめる腕に力を込めた。
和は雅の胸に顔を埋めて、抱きしめ返した。
そして、ボロボロと涙があふれてきた。
四歳の時の記憶がフラッシュ・バックする。
「雅兄…、雅兄ぃ、怖かったよぉ…。暗くて、ひとりぼっちで、ずっと、怖かったぁ…」
「うん。もう大丈夫だから。俺がいるから」
和は雅の胸の中でむせび泣いた。
雅は和が泣きやむまで、抱きしめる腕をゆるめなかった。
辺りはすっかり暗くなっていた。
雅と和はしっかり手をつないで林の中を歩いている。
「和、見て」
林から出たところで雅が空を指さした。
和は空を見上げる。
「…きれい」
空には、月明かりに邪魔されない満天の星空が広がっていた。
雅はぎゅっと握る手に力を込めた。
和は雅の方に顔を向ける。
雅は星明かりに照らされて、穏やかな微笑みを和に向けていた。
和も、手を握り返して、満面の微笑みを浮かべた。
そしてまた、二人は幾万と輝く星々を見上げた。