阪上(さかがみ)家の末っ子である長女・和(かず)は、夜の林の中が苦手だった。

それは、幼い頃の出来事に起因している。

それがあって、和は夕方の暗くなりかけた頃に林へ近づくことはなかった。

だが、その事実を知っているのは、長兄・利(とし)だけだった。

母親と次兄・雅(まさ)には言わないでくれ、と和が頼んだのだ。

そのため、原因となった出来事から五年以上経った今でも、母親と雅は何も知らないままだった。




利の中学校入学祝いにと阪上家の面々は、緑に囲まれた温泉旅館へ来ていた。
「うおう! 絶景!」
「若葉がきれいだね」
小学六年になった雅と小学五年になった和が窓を開けて歓声を上げている。

この旅行の主役であるはずの利は、皆の荷物を部屋に運んでいる。

利は眼鏡のずれを直して、窓にへばりついている弟妹をギロリと睨む。
「雅。和。自分の荷物くらい自分で運べ」
「げっ、兄貴っ」
「利兄、ありがとう」
二人はそそくさと利のところへ向かう。
「利ー。ドアが開かないんだけどー」
部屋の外から母親の声がして、子どもたちはドアからのぞき込んだ。
「母さん! そこ、他の人の部屋! 俺たちはここ!」
「あ、そうなんだ」
利が慌てて母親の元へ向かう。
「母さん、相変わらずとぼけてるよなー」
「うん。利兄、苦労するね」
雅と和はくすりと笑った。
「和、ここさ、星がきれいに見えるところなんだって。夜になったら、外に行って見てみない?」
雅の言葉に、ぴくりと和の体が震えた。
「この部屋からでも、見えるんじゃないかな?」
「うーん、まあ、そうかもしれないけど、ほら、高い木に囲まれてるから、見えにくいかも」
二人は窓の外を見る。

たしかに、雅が言ったとおりだった。

空が狭い。
「うん。考えとく」
和の返事に雅はきょとんとしたが、すぐにへらっと笑みを浮かべた。
「雅ー、和ー。テーブルにお菓子が置いてあるよー」
「あ、食べる」
母親の言葉に雅はすぐテーブルのところに行った。

入れ替わりに利が和のところへ行く。
「大丈夫なのか? 和」
利は眉間にしわを寄せ、心配げに聞く。

先の雅と和の会話のことだった。

和は少し首を傾げる。
「大丈夫だと思う。林の中に入るわけじゃないから」
「ていうことは、雅と星を見るのか」
「うん。雅兄が楽しみにしてるみたいだし」
利は、はあ、とため息を吐いた。
「和は雅に甘いな」
「うーん、そうかな?」
和はまた首を傾げたが、すぐに元の位置に戻した。
「利兄、私もお菓子食べてくるね」
「うん」
利はまだ心配げな表情で和の背中を見送った。
「隙ありっ」
トン、と利は眉間を人差し指で叩かれた。

慌てて人差し指の主を見ると、母親がにっこり笑って利を見ていた。
「利、また眉間にしわが寄ってたよ。何か難しいことでも考えていたの?」
「いや、ちょっと…」
利はちらりと雅と和の方を見る。

二人は美味しそうにお菓子を食べていた。

その視線に母親も気づいた。
「利は、本当に、弟妹想いだね」
「別にそんなことないけど…」
利は言い方がしどろもどろになっている。

母親はにっこり笑って、よしよし、と利の頭をなでた。
「利は優しい子ね」
利は照れくささに顔を赤くした。




早速温泉に入ろう、という母親の提案で、皆は露天風呂につかっている。
「は~。気持ちいい」
男湯にいる雅は岩の一つを背もたれにして、全身の力を抜いた。
「雅、おぼれるなよ」
「そこまで間抜けじゃないよ!」
どうだか、と呟いて、利も岩に体を預けた。

見上げた空には、うっすらと朱色が混ざっていた。

その様子を見て、利は少しばかり顔をしかめた。
「和さー、なんで星を見るの渋ったのかなー? たしか、星空が好きって言っていたはずなのに」
雅はしきりに首を傾げている。

利は顔をしかめたまま彼を見た。
『利兄、言わないでね』
今よりも幼い和の声が利の頭の中に響いた。

利はたまらず、雅から顔をそらしてうつむいた。
「兄貴、何か知らない?」
雅が利の顔をのぞき込む。
『雅兄に言わないでね。雅兄、きっと、悲しくなるから』
「…雅は、心当たりないのか?」
雅の顔を見ないまま、利は聞いた。

雅は、うーん、とうなって首を傾げている。

それをちらりと見て、利はため息を吐いた。




女湯では、和が岩に寄りかかって空を見上げていた。
「空気が澄んでいて緑の匂いが心地よいね」
そう言いながら露天風呂に入ってきた母親の方を向いて、和はコクンとうなずいた。

母親はにっこり笑って和に近づく。
「雅と星を見に外へ行くの?」
「うん」
「二人きりの方がいい? 雅はシスコンだから、私と利は邪魔に思うかもね」
「利兄のお祝いで来てるんだけどね。雅兄ならあり得る」
和と母親はくすくすと笑い合った。
「利が、心配そうに雅と和を見てたよ」
和は目を数度瞬かせた。

母親は穏やかな笑みを浮かべて、和を見る。
「何か、気になることでもあるの?」
じっと母親を見たあと、顔をそらして和はうつむいた。
「…雅兄と星を見るために、克服しなくちゃいけないことがあるの」
「うん」
「だから、これから、それを克服しようと思うの」
「これから?」
母親はきょとんとして首を傾げる。

和は母親の方を向いて、しっかりとうなずいた。
「私、先に上がるね」
ザバ、と音を立てて和は風呂から上がり、母親は彼女の背中を目で追うことしかできなかった。




利と雅が部屋に戻ってくると、母親が一人で窓の外を見ていた。
「あれ? 和は?」
雅が聞くと、母親は困ったような顔をして息子二人を見た。
「出かけちゃったみたいなの」
「え、もうすぐ夕飯なのに?」
母親の様子を見て、利は彼女の近くに座った。
「お風呂で何かあったの?」
母親は眉毛をハの字にして利を見た。
「雅と星を見るために、克服しなくちゃいけないことがあるって、言って、これから克服するって、言って、お風呂から上がってそのまま」
母親の言葉に利は顔をしかめた。
「克服って何を?」
雅が間髪入れずに聞く。
「それはわからない」
母親はしゅんとしてうつむいた。
「和はきっと、林の中にいるよ」
利の言葉に二人は彼を見た。
「和は、夜の林の中が怖いんだ」
「ど、どうして?」
「『どうして』?」
利はギロリと雅を見た。
「お前のせいだろ、雅!」
「お、俺!?」
雅はすくみ上がる。
「和に、言うな、って言われたけど、お前がちっとも覚えてないようだから言ってやる!」
「兄貴?」
利は立ち上がって雅を正面から見た。
「お前が五歳で和が四歳の時だ」
雅はゴクリとつばを飲み込む。
「お前は、暗くなるまで林の中に和を連れ回して、和が辺りの暗さに泣き出したら、うるさい、って言って、和を置き去りにしたんだ」
雅は目を見開いた。
「お前しか帰ってこなくて、俺が和を迎えに行った。和は、怖いのに、泣くのを我慢してじっとうずくまっていた」
利はまた雅を睨みつけた。
「それから和は、泣かなくなった。泣いたらお前が怒ると思って。夜の林にも行かなかった。その時のことがまざまざと思い出されるから」
雅は目を見開いたまま、何も言えないでいる。
「覚えてなかっただろ。あの時のことは、お前の中では二度と思い出したくない嫌な記憶だからな。あの時のお前は、和の泣き顔が見たくなかったんだよ。それを見てしまって、嫌な気持ちになったんだ」
利の言葉で、雅はその時の記憶を思い出していた。

和が泣き出す前までの高揚感、泣き出してからの不快感、それらが一気に蘇った。
「俺…」
「…和は、このことをお前に言うな、って言ったんだ。お前が悲しむからって。和は、…お前を責めることなく、お前を気遣ったんだ」
ダッ! と雅は走り出した。

利と母親は、彼の背中を見送った。
「利。どうして、そのこと、私に言わなかったの?」
利はばつが悪そうに母親の方を向いた。
「…母さんも、つらくなるかと、思って」
母親は、よしよし、と利の頭をなでた。
「利はやっぱり、優しい子ね」
利は顔を赤らめた。




雅はときどきつまずきそうになりながら、林の中を走っていた。

夕日は地平に沈もうとしている。
「和ー!」
目をこらして和の姿を捜した。

息が乱れてきた頃、視界の端に人影が見えた。
「和!?」
そちらに顔を向けると、和が膝を抱えて地面にうずくまっていた。
「和!」
雅は和の元へ走った。
「雅兄?」
雅の声に気づいて、和が顔を上げた。

ガバッと雅は和を抱きしめた。
「ごめん、和。俺、全然覚えてなくて。和が、苦しんでるの、全然気づいてなくて。ごめんな、和。泣いていいから。怖かったら、怖いって言って、泣いていいから。本当、ごめん」
ぎゅっと、雅は和を抱きしめる腕に力を込めた。

和は雅の胸に顔を埋めて、抱きしめ返した。

そして、ボロボロと涙があふれてきた。

四歳の時の記憶がフラッシュ・バックする。
「雅兄…、雅兄ぃ、怖かったよぉ…。暗くて、ひとりぼっちで、ずっと、怖かったぁ…」
「うん。もう大丈夫だから。俺がいるから」
和は雅の胸の中でむせび泣いた。

雅は和が泣きやむまで、抱きしめる腕をゆるめなかった。




辺りはすっかり暗くなっていた。

雅と和はしっかり手をつないで林の中を歩いている。
「和、見て」
林から出たところで雅が空を指さした。

和は空を見上げる。
「…きれい」
空には、月明かりに邪魔されない満天の星空が広がっていた。

雅はぎゅっと握る手に力を込めた。

和は雅の方に顔を向ける。

雅は星明かりに照らされて、穏やかな微笑みを和に向けていた。

和も、手を握り返して、満面の微笑みを浮かべた。

そしてまた、二人は幾万と輝く星々を見上げた。

日曜日の朝、弟と妹と一緒に一階に下りたら、母さんが台所にいた。
「利(とし)、雅(まさ)、和(かず)。今日はお天気がいいから、ピクニックに行きましょう」
満面笑顔で母さんは言った。

俺はため息をついた。
「母さん」
「なぁに? 利」
「それ、弁当?」
テーブルの上にある重箱を指さして、俺は言った。

母さんは笑顔を崩さず、
「そうよ」
と、とても明るい声で返事をした。

俺はまた大きなため息をついた。
「母さんっ。冷凍食品を袋のまま入れるなっ。炊いてない米を入れるなっ。野菜をそのまま入れるなっ。こんな弁当があるか!」
「うっ、利、ひどいっ」
「母さんの自称弁当の方がよっぽどひどいよ」
弟の雅も妹の和もうなずいている。
「う~。三人して~」
「弁当は俺が作るから、母さんは身支度してきて」
「えーっ、私が作るのにー」
「母さんに作らせたら、食べ物が食べ物じゃなくなる」
「そんなことないわよ!」
「お母さん、ほら、服、着替えに行こう。まだパジャマのままなんだから」
和はそう言って、母さんを無理矢理台所から連れ出した。
「毎度のことながら、大変だなー、兄貴」
母さんと和を見送りながら、雅が言った。

俺はため息をついてエプロンを着た。
「もう慣れた」
「…そんな風には見えないぞ」
俺はギロリと雅を睨んだ。

雅は首をすくめて、
「お、俺も着替えてくる!」
と、急いで自分の部屋に行った。

俺もパジャマのままだったが、まあいいか、と思って、メガネのずれを直してから、弁当作りにとりかかった。


小学校六年(この前卒業したが)ですでに、俺は一通りの家事ができた。

あの母さんに家事を任せたら、とんでもないことになる、と幼いながらに直感し、祖母ちゃんに家事を教わった。

一歳下の雅と二歳下の和も時々手伝ってくれるから、それほど大変ではない。

家事も慣れれば案外楽しいものだ。
「あ、おいしそう」
着替えを終えた母さんが台所へやって来た。
「利は本当に、料理が上手ね~」
「祖母ちゃんに教わったから」
母さんはひょいっと肉団子をつまみ食いした(ちなみにこの肉団子は俺の手製だ)。

母さんはにっこり笑って、
「うん、お祖母ちゃんの味にそっくり」
と言った。

俺はちょっと照れた。
「利兄。あとは重箱に詰めるだけ?」
和も着替えて台所にやって来た。
「そう、それだけ」
「じゃ、あとは私がするよ。利兄、着替えに行った方がいいよ」
「ああ、ありがとう。じゃぁ、頼むな、和」
和はひらひらと手を振って俺を見送った。

部屋に戻っていると、隣の部屋から雅が出てきた。
「兄貴、弁当作り終わったのか?」
「料理は作り終わった。今、和が重箱に詰めてる」
「あ、じゃ、俺も和の手伝いに行こう」
雅は喜々として階段を下りた。
「あいつは本当にシスコンだな」
俺の手伝いはあまりしないくせに、と心の中で毒づいて、自分の部屋に入った。


身支度を終えて階下に降りると、みんなの準備も万端だった。
「じゃ、みんな揃ったから、お父さんに挨拶して、出かけましょう」
母さんに従って、俺たちは仏間へ行った。

鈴を鳴らして仏壇にお参りする。

俺たちの父さんは、俺が三歳(雅が二歳、和が一歳)の時に肺炎をこじらせて亡くなった。

体が特に弱いというわけではなかったが、風邪を放っておいたら肺炎にまでなったそうだ。

父さんのことがあったから、母さんは風邪には敏感だった。

子供の誰かが風邪を引いたら、仕事を休んでつきっきりで看病した。

そういうときの母さんは、何かせっぱ詰まったものを感じさせる。
「じゃ、いってきます、お父さん」
車に弁当と敷物などを積めて、俺たちは出発した。
「母さん、どこに行くんだ?」
俺は助手席に座って、運転している母さんに聞いた。
「私が昔遊んだ野原。大きな木があるのよ」
「そこって、まだあるの?」
「大丈夫。この間見てきたから。あるかどうか不安だったんだけどね」
母さんはうれしそうに笑っていた。

俺は窓の外に目をやった。

祖母ちゃんの家へ行く道筋だ。

大きな木がある野原なんて、あの辺にあったんだ。

知らなかった。
「兄貴ー。着いたらさ、キャッチボールしようよ」
後ろの座席から身を乗り出して、雅が言った。
「ああ、いいぞ。雅、道具持ってきたんだろ?」
「当ったり前!」
「雅兄。私とは?」
「あ」
考えてなかったのか。
「和は私とバドミントンしよう」
バックミラーを見て、母さんが言った。
「うん、そうしよう。道具あるしね」
母さんの提案に、雅はホッと胸をなでおろしていた。


祖母ちゃんの家への道筋を離れて、民家がほとんど見あたらないところへと出てきた。
「ほら、ここ」
道の先に、野原が広がっていた。

母さんの言った大きな木も、枝を広げ、若葉が茂っていた。
「わぁ。こんなところあったんだーっ」
雅が窓を開けて歓声を上げた。
「花もいっぱい咲いてる。きれいなところだね」
和は野原を凝視していた。


車を道の脇に停めて、野原に踏み込んだ。
「兄貴ーっ。行くぞーっ」
「おう」
俺と雅は早速キャッチボールを始めた。

母さんと和もバドミントンをしている。


バスンッと音を立てて、雅のグローブにボールが入った。
「くう~。兄貴のボール、やっぱり痛ぇ」
雅が顔をしかめている。
「それでよくキャッチボールしようなんて言うよなー、雅」
「だって、俺より上手いやつとしないと、俺が上手くならないだろ?」
雅がボールを投げてきた。

バスッと音を立てた。
「雅もいろいろ考えてるんだなー」
雅にボールを投げた。

俺の投げたボールは、バスンッと音を立ててグローブに入った。

雅はまた顔をしかめた。
「雅。顔に出過ぎだぞ」
「わかってるよ!」
雅が力任せにボールを投げた。

ボールは大きくそれた。
「ノーコン」
雅は、ブスッとした顔をした。

俺は軽く笑ってボールを取りに行った。


ボールを取ったとき、ちらっと母さんと和を見た。

和がサーブを打った。

母さんは真剣な顔をしてラケットを振った。

でも空振り。

今度は母さんがサーブを打つ。

和は難なく打ち返した。

そして母さんはまた空振り。
「兄貴ー。まだー?」
「今行く」
俺が雅のところへ戻ると、雅が近づいてきた。
「母さん、相変わらず運動音痴だな」
雅も見ていたらしい。
「でも、だいぶ上手くなったよ。母さん、前までサーブも打てなかったんだから」
今はサーブが打てる。

後は打ち返すだけ。

雅がじーっと俺を見ていた。
「なんだ?」
「兄貴って、母さんのことよく見てるよなー。尊敬」
そんなことで尊敬されてもなー。

俺は苦笑いを浮かべた。


それから一時間ぐらい運動して、俺たちは弁当を食べる用意をした。

運動の後だけあって、重箱の中身はみるみるなくなっていった。
「利兄。この茹で野菜の和え物、おいしいね」
「兄貴が作るきんぴらごぼう、冷凍食品よりおいしいよな」
「利のおにぎり、いつ見ても綺麗な三角形よねー」
みんなが口々にほめるから、照れる。

けっこうな量だったのに、弁当はきれいになくなった。
「うーん。眠くなってきたなー」
母さんは伸びをして、あくびまでしている。

そのまま後ろに倒れて寝そうだ。
「兄貴。また遊ぼうぜ」
「あ、ああ」
雅に誘われたが、俺は母さんが気になった。
「雅兄。今度は私と遊ぼうよ」
「うん。遊ぶ遊ぶ」
雅の顔がでれっとなった。

俺は少し雅を睨んでしまった。
「と、いうわけだから、利兄、お母さんよろしくー」
ぴらぴらと手を振って和が言った。

どうやら、俺が母さんを気にしていたことに気付いていたらしい。

俺は和に苦笑いを向けて、母さんの方を向いた。

母さんは大木のところへさっさと歩いていっていた。
「母さん! そこで寝転がったら服が汚れる!」
俺は敷物を手に持って大木のところへ走った。

俺を見て和がため息をこぼしていた。
「利兄は苦労性で心配性だなー」
そんなことを呟いていたとか。


「ほら、母さん。寝転がるならこれ敷いて」
「はーい」
大木の根本に寝転がっていた母さんに敷物を差し出した。

母さんは笑いながら起き上がり、敷物を敷いて、今度は座った。

隣をポンポンとたたいて、俺も座るように促した。

俺は黙って母さんの隣に座った。
「ここね、私のお気に入りの場所なの。気持ちいいでしょ?」
大木の若葉が日差しを和らげてくれて、吹く風も心地よい。

たしかに、気持ちのいい場所だ。

日向ぼっこにはちょうどいい。

俺はちらっと母さんを見た。

母さんはにこにこ笑っている。
「母さん」
「なぁに?」
「…再婚、しようとは思わないの?」
母さんはけっこうもてる。

実際、父さんが死んだ後でも、何人かとつき合っていた。

母さんは、うーん、とうなった。
「再婚してみたいとは思うんだけどねー。相手がいないの」
「…いたじゃないか」
「それはお付き合いした人でしょう? 再婚できる相手はいなかったの」
母さんの言葉がわからなくて、俺は首を傾げた。
「結婚はね、相性だよ」
母さんはにっこり笑って言った。
「お付き合いするのはいいけれど、結婚には不向きな人っているの。

 それに、再婚するってことは、私だけじゃなくて、子どもたちのことも好きになってくれて、子どもたちが好きになれる人じゃないとダメなの。

 愛情だけで結婚はできない。

 この人となら、おばあさんになっても一緒に暮らしていけるな、って思えなくちゃ。

 しかも、相手もそう思っていてくれないと。

 バランスなのよ」
「バランス…」
「そう。バランスが悪いと…」
そう言いながら、俺からメガネを取った。
「こんな風に、どこかが悪くなっちゃう」
母さんは自分に俺のメガネをかけた。

う、と顔をしかめた。
「利ー。このメガネきつすぎ。もう、勉強のしすぎよ」
俺は母さんからメガネをひったくった。

俺はちょっと母さんを睨んでしまった。
「だからね、まだ再婚しないの」
わかった? と母さんはにっこり笑った。
「母さん、一人で俺たち育てて、つらくないの?」
「つらくないわよー。だって、利も雅も和も大好きだもの」
母さんはあっさりと言った。

そして、俺の頭をなでた。
「利は優しい子だね。私の心配してくれたんでしょ?」
俺は照れて目を泳がせてしまった。
「三人の中で、利が一番お父さんに似ているね。お父さんもとても優しい人だったのよ」
母さんはうれしそうにそう言った。

その時、ふと、俺は将来、母さんのような人を相手に選ぶのかもしれない、と思った。

うれしいような、嫌なような、複雑な気分。
「さ、利、昼寝しよう。昼寝には絶好の場所なんだから」
そう言うが早いか、母さんは寝転がった。

俺も寝転がった。

ぽかぽかしていて気持ちいい。

すぐに睡魔がやってきた。
「利、おやすみー…」
母さんの声が少し遠くで聞こえた。

心地よい眠りだった。

お昼からずっと弟と一緒に、近くのススキ野原で遊んでいた。

追いかけっこしたり、かくれんぼしたり、ススキの穂でくすぐりあったりしていた。

いつしか辺りは橙色に変わっていた。

僕は振り返って弟に、そろそろ帰ろう、と言おうとした。

でも、僕の後ろに弟はいなかった。

僕は心臓がぎゅっと縮まる感じがした。

橙色に染まったススキが揺れている。

僕はススキをかき分けて弟を捜した。

いない、いない、いない。

僕の顔はゆがんで、泣きそうになった。
「姉さーん! どこーっ?」
弟が僕を泣きながら呼んでいる。
「僕はここにいるよ!」
ここにいるよ。


僕は弟の声がした方へ進んでいった。

そのうちに弟と会うことができた。

僕も弟も安心して泣き笑いを浮かべていた。

そのとき、とても強い風が吹いて、ススキの穂の綿毛を空へ舞い上げた。

夕日に照らされて、綿毛はきらきらと輝きながら舞っている。

僕と弟は口をあんぐりと開けて、その光景に見とれていた。

風が収まって、僕と弟の上に綿毛が降り注ぐ。

僕はなぜか大声で泣きたくなった。




また強い風が吹いた。

僕の涙は乾いてしまった。


縁側でうとうとしていたら、西の空が橙色に変わっていた。

宵の明星も、輝きを放っている。

どれくらい寝てしまっただろうか。

数えるのが億劫だ。

夕飯を作らなければ。

そう思うのに、体は動こうとしない。

私は、だんだん見えなくなってくる金星を、飽きずに眺めていた。


あの子は惑星や星座を見つけるのが得意だった。
   お母さん、見て。あれがね、木星なんだよ。それでね、あっちの空の、ほら、あそこ、あれがオリオン座なの。
あの子は代名詞ばかり使って説明したから、私はなかなか見つけることができなかった。

それでも、あの子はちっとも嫌な顔をしなかった。

私が見つけようとしている姿が見られれば、それでよかったようだ。


柱時計が低い音を響かせている。

金星はもう見えない。

私はまだ、縁側から動けない。


この家も、私だけになってしまった。

皆、この家から出て行った。

あの子は今、何をしているだろう。

あの子はもう、ここへは来ないのだろうか。

それは哀しい。

せめてもう一度だけ、あの子に会いたい。

会って、あの子の笑った顔が見たい。

叶わない願いだろうか。

でも、今の私には、それが一番の願い。

あの子は、こんな私に、会いたいと思ってくれるだろうか。

あの子は今、どこにいるのだろう。




   お母さん、お母さん。
   おいで。私の愛しい子。




一陣の風が吹いた。

私の髪の毛が揺れた。


暖かい日の午後、黒猫が昼寝をしているのを見かけた。

屋根の上。

寝相が悪くてゴロゴロと転がっている。


落ちるかっ? と思うが、すんでの所で寝返りを打って難を逃れる。

思わずほっとため息を吐いてしまった。


だが、そんなときだった。
「ぶぎゃっ!」
つぶれたような声が聞こえた。

見ると、黒猫とカラスがけんかしている。


どうやら黒猫は新参者のようで、この屋根はカラスの縄張りらしい。


数分間の攻防の末、黒猫が負け惜しみの鳴き声を出して退散した。

カラスは意気揚々と日向ぼっこをしている。


今日も平和だ。

しばらく仕事部屋で仕事をしていた林(はやし)は、窓の外で風が強まっているのを見て部屋を出た。

一階に下りると、森(もり)と桜婆(さくらばあ)がお互いで遊んでいた。
「ちょっとカイロ買ってくる。これから寒くなりそうだし」
「今から行くのか?」
「これ以上風が強くならないうちに買ってこようと思って。楓(かえで)も寒いかもしれないし」
「風に飛ばされないように気をつけるんだよ」
「桜婆じゃないから大丈夫だよ」
じゃ、いってくる、と言って、林は出て行った。


しばらくしてカイロを買ってきた林は、顔色が真っ青になっていた。

彼の顔を見た森と桜婆はぎょっとして彼に駆け寄る。
「どうしたんだいっ、林!」
「何があったんだ!」
林はフラフラしながらもテーブルにカイロを置き、ソファに座り込んだ。
「しまったな…。この風は、当たっちゃいけなかった…」
うっ、とうめいて頭を抱え、林はソファに倒れ込んだ。
「林っ、苦しいのかい!」
「林っ、目を覚ませ!」
森と桜婆が必死で呼びかけるが、林はうめき声を上げるだけで、起きる気配は一切なかった。
「まさか、楓もこの風の影響で…」
森の呟きに桜婆ははっとする。
「言われてみれば、楓もこの風が吹いているときに、町に食材を買いに行っていたよ」
森と桜婆は顔を見合わせる。
「森、二人を見ていておくれ。私は町の様子を見てくるよ」
「ああ、わかった」
桜婆は飛び上がり、天窓から外へ出て行った。




外の風は家を揺らす程に強くなっている。

ソファに寝転がっている林は、頭を抱えて苦しげに眠ったままだ。

森は楓の様子を見た後一階に下り、ソファ近くの床に座って、心配げに林を見つめた。

風はなおもガタガタと家を揺らす。
「林はまだ寝てるのかい?」
天窓を通って外から帰ってきた桜婆は止まり木に着地し、心配げに森に聞く。

森は桜婆に顔を向け、首を横に振る。
「やはり人間にはこの風は体に毒のようだ。うなされているのに起きようとしない」
「やっかいな風だね。人間だけを攻撃するものなど」
いつもだったら生物全体に影響するのに、と桜婆はため息をついて言葉をこぼす。
「他の家々も、人間は寝込んでいたか?」
「ひどいものだったよ。人間以外の動物たちがその事態に右往左往している。どうやって回復させればいいのか、見当もつかない」
「医者も駄目なのか」
「医者も倒れているよ」
森と桜婆は大きなため息をつく。
「我々には何もできることはないのだろうね」
「自然と目覚めるのを待つしかないのだろう」
どこかやるせない口調で森と桜婆は言う。
「それは…、」
突然聞こえた声に森と桜婆ははっとして振り返る。
「どうかと思う」
部屋の入り口に楓がぐったりと寄りかかっていた。
「楓!」
森と桜婆が楓の元に急ぐ。
「楓。寝てなくて大丈夫なのかい」
「大丈夫じゃないけど、また眠るのは嫌だから」
顔色が蒼白のまま答え、楓は林がいるソファに目を向ける。
「結局、林も風に当たっちゃったか」
「気づいてやれなくて悪かったよ、楓」
「風の可能性を考えなかった我々の落ち度だ」
そんなことない、と楓は首を横に振り、じっと林を見る。
「林は、まだなんだね」
目、覚ますの、と呟いて、楓はふらふらとした様子でソファに近づく。

森と桜婆は彼女の側に寄り添う。
「林…」
楓はソファに寄りかかるように座り込み、林の顔をのぞき込む。

林の表情は眉間にしわが寄り、脂汗も浮かんでいた。
「林、起きて…。そんなものに取り込まれないで…。お願いだから、戻ってきて…。林のいないこの家なんて、嫌だよ…」
楓は林の背に覆い被さる。
「林……。助けて……」
誰にも聞こえないくらいの大きさで、楓は言葉を落とした。

森と桜婆は何も言葉をかけてやれず、ただじっと二人を見ているしかなかった。


それからさほど時間は経っていなかった。

林のまぶたがかすかに震え、ゆっくりと開いていった。
「楓…」
まだどこか苦しげな表情をしている林だが、しっかりと楓に目を向ける。
「おはよう、林」
「おはよう、楓」
彼らの家の周りだけ、風がやんだ。




人間を苦しめていた風は、二日ほど経った頃に完全になくなった。

林と楓も、すっかり元の生活に戻った。
「林。ご飯、できた」
「んー、わかった」
仕事部屋で仕事をしていた林は、楓の言葉に手を止めて眼鏡を取った。
「森と桜婆は?」
「森は新しくできた彼女と散歩。桜婆も狩りに行っている」
「元気だなぁ、森と桜婆」
呆れたように林がため息をつく。


食堂に入って、楓が作ったグラタンを食べる。
「楓」
「何?」
「あのとき、楓はどんな夢を見た?」
楓は手を止めて林に顔を向ける。
「あのとき、って?」
「人間だけを襲った風が吹いたとき。あれ、悪夢を見せる風だっただろ? 楓は、どんな夢だった?」
そう聞かれて、楓は視線を泳がせた。
「そう、言う、林こそ、何を、見たの?」
苦し紛れに楓はそう聞く。
「俺? 俺はねぇ、」
カツッ、と林はグラタン皿の底にフォークを当てる。
「楓が俺に大嫌いって言って、去っていく夢」
「へ?」
「楓に大嫌いなんて言われたら、俺、生きていけない」
間の抜けた顔で固まっている楓を見て、林はテーブルに頬杖をつく。
「楓は、どんな夢を見た?」
「わ、私、は…」
楓は林から視線をそらす。
「林が、私に、大嫌いって言って、私の前からいなくなる、夢…」
「お互い、夢で良かったね、楓。まあ、楓が見た夢は、現実で起こるわけがないんだけれど」
「へっ?」
楓がまた固まるが、林は素知らぬ顔でグラタンを食べている。

楓がようやく問いかけようとしたとき、森と桜婆が帰ってきてしまい、結局聞くことはできなかった。

楓は不満を抱えながらも、口元にうっすらと笑みをほころばせ、グラタンを一口食べた。




弱い風が地面を滑る。

路地裏にうずくまる女性にも、容赦なく風はぶつかる。
「…う、うぅ…」
女性はガタガタと震え、薄い衣に包まれた体をなでさする。
「風は弱くてぬるいのに…、なんで、こんな、寒いの…」
女性はまた、うぅ、とうめき声を上げながら体をきつく抱きしめる。

女性が路地裏から動けずにガタガタと震えているとき、ザッ、と音をさせ、黒い足が彼女の視界に入ってきた。

女性は震えながらゆっくりと顔を上げる。
「ゲッゲッゲッ、若い人間の女だ」
「この風に当たって凍えてやがる」
黒い大型の犬が二匹、長い舌を垂らして彼女を見つめている。
「ゲッゲッゲッ、今襲いかかったら、抵抗なんかされないだろうな」
「若い人間の女の肉はうまい。さっさと食おうぜ兄弟」
「余った肉はわしらにも分けてくれてよ」
いつの間にか、数匹のネズミも集まっている。

女性は目を見開き、今度は恐怖に震える。
「い、や…。怖い…。誰か、助け…」
二匹の犬が目の色をぎらつかせ、体勢を低くしたときだった。
「ゲギャッ」
「痛ぇ! 何しやがる!」
二匹の黒犬に向かって、一羽のフクロウと一匹の犬が跳びかかった。
「動けなくなってる若い女の子を、襲うものじゃないよ」
戦々恐々としているそこに、落ち着いた男性の声が割り込んだ。
「ゲゲッ、人間の男だ!」
「攻撃されたら敵わねぇ! 退散だ兄弟!」
黒犬二匹は一目散に逃げていった。
「森(もり)、桜婆(さくらばあ)。ありがとう」
「林(はやし)が礼を言うことではないだろう」
「私ゃまだ暴れ足りないよ」
「そう言わないでくれよ、桜婆」
若い男性が、肩にいるフクロウの桜婆に苦笑を浮かべて告げる。

犬の森を横に沿わせ、男性は女性に近づく。
「怪我はしていない?」
男性の言葉に女性は一つうなずく。

女性は助かったことに安心し、また寒さに体を震わせる。

女性の様子に気づいた男性は、ちょっと失礼、と言って、女性の体を抱き上げた。

女性は突然のことに軽く悲鳴を上げる。
「これでもう寒くないはずだけど」
間近にある男性の顔に気をそらしていた女性は、その言葉にはたと気づいた。

先ほどまでの凍えるような寒さがない。
「地面を這っている風があったでしょう。あれがどうやら、女にだけ影響を与える風みたいなんだよ」
男性の肩にいる桜婆が教える。
「この風がやむまで、地面には降りない方が得策だろう」
森が女性を案じるように言う。
「でも…、私…、家がない…」
「それなら、うちに来れば?」
そんな提案をしたのは、彼女を抱き上げている男性。

へ? と女性は間の抜けた声を出す。
「うちの家、けっこう広いよ。一人増えても全然問題ない」
あっけらかんと告げる男性に、女性は目を瞬かせる。
「俺は林。あんたは?」
「名前、ない…」
「じゃあ、俺がつけてもいいか?」
女性は少し迷ったが一つうなずく。
「頬が赤いから、楓(かえで)。どうだ?」
そんなことで決めるのか、と呆気にとられたが、女性は一つうなずいた。




楓が林に拾われてからしばらく経った。

林の家は、桜婆が自由に行き来できるようにと、天井が高い造りになっている。

楓を襲った凍えさせるぬるい風は、今ではなくなっている。

たまにこのように生物に影響を与える風が吹いてくる。

対処の方法は未だに判明されず、風に怯えて生きるわけにもいかないので、そのときはそのとき、と場当たり的な姿勢を取るしかなかった。


「林。ご飯、できた」
「んー、わかった」
二階の林の仕事部屋に行って楓が声をかけると、林はパソコンに打ち込んでいた手を止めて、眼鏡を取る。
「森と桜婆は?」
「森は寝てる。桜婆は外」
階段を下りながらそんな会話をする。

階段を下りきったとき、林が楓を振り返る。
「何?」
楓の問いかけには答えず、林は彼女の頬を指の背でなでる。
「顔色、悪くない?」
楓は一瞬震えたが、気のせい、と言って、林を食堂に押しやる。

林は納得していないような表情だったが、それ以上追求することはなかった。


食卓に着いて楓が作ったスープスパを食べる。

二人で食事を取っていると、森が起きて食堂にやってきた。
「楓。私にもご飯をくれないか」
「うん。ちょっと待っていて、森」
楓は席を立って森のご飯を用意する。
「仕事は進んだのか、林」
「まあ、だいたい」
「その様子ではあまり芳しくないようだな」
林の返答に森が呆れたようなため息をつく。
「そこまで悪いわけではないさ。森こそ、こんな時間に昼寝か? 珍しいじゃないか。もしかして、また女の子にフラれたとか」
森はムスッとした表情になる。
「林。いつもいつも私が女子にフラれているわけじゃない。第一、最近は私自身がいいと思う女子との出逢いがないんだ」
「だからふて寝?」
「そうではない」
「単に持病の腹痛だよ。林と楓の心配ばかりしているから、胃液が過剰に出るんだ。バカだねぇ、森」
天窓から入ってきた桜婆が鼻で笑いながら話に加わる。
「俺と楓? 何の心配だ?」
林が不思議そうに首をかしげる。彼の様子に、森と桜婆があからさまなため息をついた。
「林はこれだからやっかいだねぇ」
「私たちの楽しみは、当分訪れそうにない」
森と桜婆の様子に、林はますます首をかしげていた。
「桜婆も、何か食べる?」
「私はいいよ、楓。外で食べてきたから」
「そっか」
楓の方を向いた桜婆は、ん? と首をかしげる。
「楓。顔色が悪いようだよ。どこか具合が悪いのかい」
桜婆の指摘に、楓は一瞬震えたが、ううん、どこも、と答えた。
「楓。やっぱり顔色が悪いんじゃないか。これを食べ終わったら寝ておけ」
「大丈夫だよ、林」
「そんな顔で言っても説得力がない」
林に押し切られ、食事が終わると楓は二階の部屋に引っ込むことになった。



続く


「しょうもない男だとは思わないでください」


それが、源田老人が私に語りかけるときの始まりの文句となっていた。

源田老人は私の反応など気にすることなどせず、とつとつと語っていく。

それは己の若い頃のことであったり、亡くなった妻のことであったり、己の元から旅立っていった子供達のことであったりと、話題はどれも源田老人とその家族のことが大半を占めていた。

だが近頃では、源田老人の隣家に住むという書道教室を開いている女性のことが多くなっていた。

つまり、源田老人は老いた身で浅ましいと思いながらも(源田老人がたびたび自分をそう酷評している)、その女性に浅からぬ恋慕の情を抱いているというのだ。


「しょうもない男だとは思わないでください。

 先日、彼女と偶然出がけに出くわしたのです。

 わしはそれだけで天にも昇る気持ちでしたが、彼女はわしと少なくない会話を交わしてくれたのです。

 わしはもう、うれしくてうれしくて。

 いやいや、そのようなあからさまな様子を見せまいと、必死でこらえていましたけれど。

 それで変な顔になってしまっていないだろうかと、別れた後に心配してしまいまして。

 それでもやはり、彼女と会話ができたことは本当に本当にうれしかったのです。

 まるで己が初恋を知った少年に戻ったような気持ちで、なにやら恥ずかしくなりましたが、彼女がとても自然に笑っていてくださるので、やはりうれしさばかりがわしの心を占めたのです。

 ですが、わかっているのです。

 どんなにわしが彼女に恋心を抱いていようと、わしの気持ちを彼女に知られるわけにはいかないのです。

 彼女は結婚している上に、わしが彼女の恋愛対象の範囲に入らないことは重々承知しているのです。

 わしが単に浅ましいだけなのです。

 浅ましくも、彼女に恋心を抱いたわしが悪いのです。

 それでも、たとえ年老いたとしてもわしは人間です。

 男です。

 魅力的な女性に恋慕の情を抱くのも、無理からぬことだと思ってほしいのです。

 言い訳じみてしまって申し訳ないです。

 誰かに思いの丈を呟かなければ、わしは彼女に何か失礼なことをしてしまいそうで怖いのです。

 こんな男で申し訳ないです」
源田老人はそう締めくくって、深く深くため息を吐き出す。

空を見上げ、また長く長く息を吐く。

源田老人は自分を責めているようにも見え、また、隣家の女性に思いをはせているようにも見えた。
「犬男さん。いつもいつもわしの話を聞いてくれてありがとうございます。犬男さんに話すと、どこか心の一部がすっきりするんです。これもわしが暴れ出さないための一つの防止策として、これからもわしの話しを聞いてください。犬男さん、今日もありがとうございました」
源田老人は私に向かって丁寧にお辞儀をする。

何とも礼儀正しい人だと思う。

源田老人以外に私に接する人は、それなりに挨拶はするけれど、お辞儀までする人はいない。

源田老人はきっと昔から、このように礼儀に厳しい育てられ方をしたのかもしれない。
「犬男さん、また明日。明日まで元気でいて下さいね」
源田老人のしわだらけの手が私の頭をなでる。

私は返事の代わりにパタパタとしっぽを振った。

「明日休みだっけ?」
「私はね。あんたは違うけど」
「それくらいわかってるよ。どこかでかける?」
「そうだねぇ。でかけようかとは思うけど、場所は決めてないよ」
「じゃあさ、これ買ってきてよ」
「何の広告? 新作ワッフル?」
「そう! 海の見える丘の店だって。おしゃれそうじゃない?」
「ふぅん。あんた、こういうの好きだっけ?」
「好きだよー。知らなかったの?」
「あんたの趣味は知らないかな」
「二人暮らしが短くないっていうのに、薄情な。まあ、いいや。とにかくこれ買ってきてよ。でかける場所、決めてないんでしょ?」
「それはそうだけど、初めての道だし、けっこう距離あるしなぁ。迷う」
「お金は私が出すからさ」
「それならいいや」
「……現金なやつめ」
「買ってこないよ」
「嘘です! ごめんなさい!」
「ところでさ、あんたは特にどれが食べたいわけ? 全部とかは却下だからね」
「いや、さすがにそれはないよ。私はねー、この抹茶のやつが特に食べたい。あとはティラミスのワッフルかな」
「ふぅん。わかった」
「あなたはいらないの?」
「いるよ。私はどれにしようかな。無難なところでプレーンとか、チョコとか」
「……あなたって、以外と定番なものが好きなの?」
「そうだよ、知らなかったの? 二人暮らしをして短くないのに。薄情だね」
「うぅ。それ私がさっき言ったせりふだ」
「あんたも当てはまるとか、どうかと思うけどね」
「うー…。あ、そうだ。じゃあさ、じゃあさ、今度休みが重なったら、それぞれの好きな場所へ行こうよ。そうやって、お互いがどんなこと好きなのか知っていこうよ」
「ふぅん。いいかもね」
「でしょ?」
「とりあえず、あんたはもう寝たら? 明日も早いんでしょ?」
「あ、そうだった。じゃ、おやすみ。忘れないでね」
「わかった、わかった。おやすみ」

「さあ、どうだ!」
テーブルにずらりと並んだ秋刀魚料理。

焼き魚、刺身、衣揚げ、ムニエル、などなど。
「さあ、食え、皆の衆! 残した奴は許さん!」
「えー!」
皆からブーイングの声が挙がる。
「えー! じゃない! お前らが俺に作れって言ったんだからな! しかも俺が苦手とする魚料理! 余すことなく食い尽くせ!!」
皆はまだ、えー、と言いながらも食べ出す。

その様子に料理を作った本人は満足げ。
「あ、一つ言い忘れてたけど、その中に激辛のものが入ってるからな。気を付けろよ」
「えー!!」
ブーイングの声を言っているそばから、
「かっっっれー!!」
激辛に当たったやつが続出した。


阿鼻叫喚とはまさにこのことだ、ともだえる面々を見て、張本人は大満足でにっこり笑っていた。