拍手喝采を




ゴーン、ゴーン、と二時の鐘が鳴る。


私はゆっくりと目を覚まし、天井の木目を見つめる。

雨漏りの痕跡が一カ所、深い茶色でもって主張されている。

私はそれを見つめた後、ゆっくりと起きあがり、身支度を整える。

持っていくものは小さな包みのみ。

それを背中から肩を通って結び、固定する。

準備が整えば、部屋に用はない。

私はまたゆっくりと歩き出し、部屋を出た。


廊下は冷たい。

まだまだ真夜中の刻限。

生き物たちは息を潜めて眠り、野生動物からの襲撃に備えている。

板の廊下はミシミシと音がしている。

その音で、動物たちが目を覚まさないことを祈る。


門前に近づくと、今晩の鐘突が私の方をじっと見ていた。
「お前は今夜行くのか」
どこか感慨深そうに鐘突が言う。

私はゆっくりとうなずく。
「はい。行きます」
「では、これをお前に」
鐘突はそう言って、一本の杖を渡してきた。

私の腰元までの長さで、雪色の杖だった。
「こちらは?」
「あの方の忘れ物だ。ついでに使えばいい」
「……そのようなことをして、よろしいのでしょうか」
「良いに決まっている。あの方はおそらく、わざと忘れていったのだから。お前に使ってもらうために」
確信しているような声で鐘突が言う。

私は驚きに目を丸くし、じっと雪色の杖を見つめる。
「……では、お借りします」
「うむ。それでいい」
私は杖を受け取り、鐘突に一礼をして、門の方へ歩いていく。
「克彩(かっさい)」
鐘突から名を呼ばれ、私は振り返る。
「あの方にお会いしたら、またこの寺に来てくれるよう、お願いしてくれ」
どこか待ちわびているような鐘突に、私はゆっくりと笑みを浮かべる。
「わかりました。必ず、お頼みします」
私の返事に鐘突は満足そうに笑い、私は今度こそ、門から出て行った。




じゃり、じゃり、と足下から音がする。

この辺りは砂が多く、濁った音が鳴る。

辺りは真っ暗で、体の感覚と雪色の杖のみが頼りだった。


次第に足下の音が変わってきた。

きゅっ、きゅっ、と音がする。

草地に入ったようだ。
《あの方の杖だ》
《そうだ、そうだ、そうに違いない》
《うらやましい人間ぞ》
《我らですら、あの方のものをお借りできぬというのに》
草地に入ると、そんな声が聞こえるようになってきた。

周りを見回してみるが、真っ暗なだけで姿は見えない。

だがおそらく、声の調子から小鬼だろう。
《いったいどこの人間じゃ》
《あの方の杖を持っているということは、麓の寺の人間であろう》
《寒行が始まっておるから、そのためであろう》
《おお、また来たか。早いものだ》
《今度はどんな遊びを仕掛けようか》
クスクスクスクスと、小鬼の笑い声が聞こえてくる。

私は少し足を速めた。
《あや、逃げようとしているぞ》
《逃がしはせぬ。夜は長いんじゃ。まだまだついていくぞ》
《はじめはこれじゃ》
小鬼がそう言った瞬間、足下から冷気がせり上がってきた。

思わず足を止めそうになったが、それをこらえ、私は先に進む。
《うむ。さすがは寺の人間じゃ。これしきでは根を上げぬ》
《ならばこれはどうじゃ》
次に襲ってきたのは強烈な寒風だった。

しかも向かい風であるため、歩みが遅くなってしまう。

だが、それでも、止めることはしなかった。
《うーむ、なかなか粘るのう》
《いつだったかの若い人間は、これで引き返したのだが》
《ならば、これならどうじゃ》
頭上に急速に雲が集まり、強い雨が降ってきた。

しかも、強風はそのままだ。
《おお、よいではないか。これはなかなかのものじゃぞ》
《あの方の元に、そう易々と行かせはせぬぞ》
だんだんと歯の根があわなくなり、体も震えてきた。

前方は相変わらず真っ暗。

ちらりと右手に視線を落とす。

その手に握る雪色の杖を確認して、私は歯を食いしばり、前方を睨みつける。

歩みは止めない。

あの方に、会うために。
《おお、なんじゃ、なんじゃ》
《こやつ、まだ進むのか》
《うーむ。もはや執念じゃのう》
《よし。これで最後じゃ》
次の瞬間、雨に雪が混じりだした。

みぞれだ。

雨よりもさらに体が凍りそうだ。

雪色の杖を握りしめ、前へ前へと進む。

寒さでほとんど体の感覚はない。

それでも止まらない。

この時期でなければ、あの方には会えないのだから。
《ああ、もう駄目じゃ》
《これで終わりか》
《我らの領域はここまでじゃ》
《口惜しいのう。これでこやつは、あの方に一歩近づいてしまう》
《阻止できなんだ》
小鬼たちの落胆した声が聞こえる。

前方を見ると、草地が終わった。

みぞれも強風もやむ。

一つ大きく息を吐き出したが、まだまだだ。

周りを確認すると、林だ。

私は気を引き締めるように奥歯をかみしめ、足を踏み出す。




着物は湿ったままで、それですら寒いが、林の中は空気自体がひんやりと冷たい。

吐く息は白く、そのまま氷の結晶になってしまいそうだった。
《来たぞ》
《またあの方に近づこうとする不届きものがやってきたか》
《寺の人間がなんだというのだ》
《あの方は我らですら神聖なお方。人間になど、お名前を呼ぶことすら憚られることだというのに》
《今回もまた、邪魔してくれる》
この不穏な声は、おそらく烏天狗だろう。

この殺気にも近い怒気は、何度遭遇しても慣れないものだ。

彼らをやり過ごそうと私は駆け出した。
《逃げるぞ!》
《そうはさせるか!》
びゅう! と暴風が吹き、体が浮く。

突然のことに私は体を強ばらせる。
《そおれ!》
烏天狗のかけ声で、私はどこかへ飛ばされる。

なすすべもなく視界を回していると、体が何かにたたきつけられ、そのまま沈んでいく。

体に触る感触から水だと気づく。

とにかく水面を探すように頭上に腕を突き出し、水を掻く。

やがて指先に空気が触れ、私は一気に足をばたつかせ、水面に顔を出す。

目の前に見えたのは巨大な滝だった。

白いしぶきが水面を弾き、私の顔に水滴を降らす。

私は右手に雪色の杖があることを確認し、川から出ようと岸にまで泳ぎ出す。
《あいや、あいや、そうはさせぬ》
《これは序の口。まだまだ邪魔はこれからだ》
烏天狗の声が聞こえたかと思うと、川面が波立ち、水量が増す。

水面に顔を出すのが難しくなり、口の中に水が入る。

体も冷え、体力が徐々に消耗されていく。
《あの方にお会いすることをあきらめれば助けてやるぞ》
《どうだ。早々に降参した方が得だぞ》
嘲笑混じりの烏天狗の言葉が聞こえる。

右手にある雪色の杖の感触を確かめる。

私はまだ進める。

烏天狗の思い通りになるつもりはない。

私は両手両足を動かし、泳ぎ出す。
《むむっ。こやつ、我らに逆らう気か!》
《我らがこれで手を引くと思うか!》
《我らの力はこれぐらいではないぞ!》
川の流れが急速に強まる。

私の力では押し流されるのが関の山だ。
《どうだ、どうだ。これでは無理だろう》
《さっさとあきらめろ。無駄なことだ》
烏天狗たちがはやし立てる。

その言葉に頭に来たが、私は全身の力を抜き、流れに身を任せる。
《お、あきらめたか》
烏天狗の言葉が聞こえた次には、私は岸近くに雪色の杖を突き出していた。
《ああ! あの方の杖が!》
《なんということだ! このままでは杖が折れてしまう!》
《急いで流れをゆるめるんだ!》
川の流れがゆるんだ瞬間、私は岸に乗り上げた。
《くそ! あの人間め! 我らを謀ったな!》
《あの方の杖を利用するなど、なんと極悪非道な》
《あの岸を越えられては我らは力が使えぬ》
《そこまで計算していたか》
《ずるがしこい人間じゃ》
烏天狗たちの声を背中に、私は林を抜け、山の中へと入った。

ここが、最後の関門だ。




全身ずぶ濡れで、体力もだいぶ削られてしまった。

それでもここを登らなければならない。

一歩一歩踏み出すたびに、地面が体から落ちる水で濡れ、そのせいで滑りそうになる。

右手に持つ杖だけが、本当に頼りだ。
《まさに滑稽、滑稽。そのまま滑り落ちてしまえばいいものを》
《そう言ってやるな。あれでも必死なのだ》
《ここまで必死にならなくとも良いのに。人間とは、愚かしいものだ》
《愚か者だからこそ、あの方に近づこうなどと考えるのだ》
聞こえてきた言葉にぎくりとする。

狐と狸だ。
《さてさて、何をしようか》
《楽しみだな》
くくく、と笑い声が響き渡る。

姿は見えない。

だが、いる。

ぞくりと背筋に寒気が走った。

はっと周りを見ると、辺りには霧が立ちこめていた。

狐と狸の仕業だ。

冷えた体に霧がまとわりつき、ますます体温が奪われる。

つ、と冷や汗が流れる。

ゴクリとつばを飲み込み、一歩一歩前へと進む。
《愚かなり、愚かなり、人間め》
《我らの術中にはまっておるわ》
《そのまま歩き続けろ、人間》
《そのまま歩みを止めろ、人間》
くくく、くくく、と笑い声がこだまする。

辺りを見回すが霧で何も見えない。

歩みは止めない。

だが、方向がわからない。

登っているのか、下っているのか、それすらもわからない。

思わず体に力が入ったとき、右手に持つ雪色の杖を意識した。

私は杖をじっと見つめ、前方を見る。
《どうした、人間》
《とうとう歩みを止めるか》
狐と狸の声が聞こえる。

だが、私はもう、それを意識しない。

まぶたを閉じる。

そのまま、前へと進む。
《なんだと!》
《くそ! その方法を考えたか!》
頼りにするのは雪色の杖、そして、長年この山を歩んできた体の感覚。

私は、それを信じる。

狐と狸には、惑わされない。
《もっと何かないのか、狐!》
《狸も少しは考えろ!》
《なんだとつり目!》
《うるさい垂れ目!》
仲間割れの声を背中に聞いて、私は狐と狸の領域を抜けた。




ゆっくり目を開けると、そこは、雪色の世界が広がっていた。
「……何度見ても、圧巻だ」
この霊山の頂上に枝を広げる雪色の大樹。

葉も花もつけない、枝だけの樹木。

それ故に神木として崇められている。
『ようこそ、克彩』
大樹を眺めていた私の後ろから、そう声が聞こえた。

私はゆっくりと振り返る。
「……お久しぶりです。白雪(しらゆき)様」
『私の分身を大事に持っていたようだね。ありがとう』
全身が雪色に染まっているその方こそが、大樹に宿る神、白雪神。

女性とも男性ともつかない中性的なお姿で、柔和な表情をされている。
『私のところへたどり着いたのは、今年は克彩が初めてだよ。他のもの達は、妖怪達の術に敗れてしまったようだ』
「そうでしたか」
『妖怪達にも、困ったものだ。私を愛してくれているのはわかるが、年々度が過ぎていく』
白雪様が苦笑される。
「ですが、我々にとっては、よい修行です。身も心も、鍛えられます」
『いつからか、私の元へ来ることが寒行となっているようだね』
「私が寺に身を置いた頃には、すでに」
『本当に、困ったものだ』
白雪様はそう言いながらも、優しげな目をされている。
『克彩。疲れたであろう。ゆっくりお休み』
白雪様にそう言って頂いた瞬間、体の力が抜け、大樹の根本に倒れ込む。
「白雪様…」
『いつからか、この時期でなければ顕現できなくなってしまった。すまない。私がいつでも姿を現すことができれば、お前達にこのようなことをさせずにすむのに』
白雪様がゆっくりと私の頭をなでる。

だんだんとまぶたが降りてきた。
「そのようなことを、おっしゃらないでください…。私たちは、あなた様にお会いできるこの道中を、とても楽しみにしているのです…」
『だが、つらいであろう』
「それでも、あなた様にお会いできたときの喜びは、ひとしおなのです」
私の頭をなでていた白雪様の手が、ピクリと震えた。
「あなた様にお会いできたことに、感謝を」
私は完全にまぶたが降りてしまった。

だから、この後の白雪様の表情を知らない。
『それなら私は、お前に拍手喝采を、贈ろう』
その言葉のあとに、私は、柔らかな祝福をこの身に感じた。




これが、私が行った今年の寒行のいきさつである。

目が覚めたときには、私は寺の自室で眠っていた。

枕元には雪色の杖があり、持ち手のところには、雪の結晶の彫り物がされていた。

来年も、この杖を持って、あの方に会いに行こう。

それが、ここで暮らす私たちの、力となる。


パチン、パチン、とはさみで何かを切っている音が聞こえた。

青野(あおの)はその音が気になって、音の出所を探る。

きょろきょろと道の真ん中で見回していると、一軒の古民家に目をとめた。

若い女性が盆栽の枝を切っているところだった。

青野は何気なくそれを見つめる。
「何か、おもしろいですか?」
パチン、パチン、と音が鳴っている中、女性が青野に話しかけてきた。

青野は一瞬ドキリとして、思わず左右を確認してしまった。
「私が話しているのはあなたですよ、若い男性さん」
女性の視線は盆栽からはずれない。

青野はドキドキしながら、古民家の垣根に近づく。
「私が盆栽を整えているのを見て、何かおもしろいですか?」
女性はまた話しかける。

それでも青野に視線を向けない。

青野は心拍数の早い胸に手を当てて、ゴクリとつばを飲む。
「あ、あの…」
「はい」
「……初めて見たから、とても興味深いんです」
「おもしろいですか?」
「検討中です」
青野の返事に女性はピタリと止まって、ゆっくりと青野を見る。
「なかなか興味深い返答ですね」
「そ、そうでしょうか…」
青野が引きつった笑みを浮かべるが、女性はおもしろそうに笑う。


パチン、パチン、とはさみの音がまた響く。

そろそろ幕引きかもしれない、と浅見(あさみ)は考えている。

どうしたものだろうか、とぐるぐる部屋の中を歩き回る。
「どうしたもこうしたもないと思いますよ、浅見先輩」
バンッと大きな音を立てて、浅見の後輩である佐川(さがわ)は部屋に入ってきた。
「さっさと終わらせてしまえばいいんです。かっこいい幕引きなんて考えなくていいんです。元々かっこよくないんですから」
「おい」
佐川の暴言に浅見は思わず低い声が出ていた。
「浅見先輩は演出家ではありません。役者でもありません。まして監督でもないんです。浅見先輩が考えることではないんですよ」
「だがな、佐川」
「『だが』も『でも』もありません。浅見先輩は俺の言葉を信じていればいいんです」
「佐川…」
浅見は思わず、じーん、と感動していた。
「先輩は所詮劇団の雑用なんですから、幕引きも何もありませんよ」
「さーがーわー!」
「おっと失敬。本音がポロリ」
「さーがーわー!!」
浅見ー、佐川ー、さっさと倉庫から出てこーい、と監督から呼び出しがあった。

「早めの行動を心がけたつもりだったのですが、それはもしや『つもり』で終わってしまったのでしょうか」
「いえいえ、岡崎(おかざき)さんはきちんと早めの行動を心がけていますよ。

 ただ岡崎さんより、私の方がさらに早めの行動を心がけていただけのことです。

 何も落胆することではありませんよ、ええ、本当に」
「本当に本当にそうでしょうか、笹原(ささはら)さぁん…」
「語尾が弱々しくなってますよ、岡崎さん。

 そんな調子では私も素に戻ってしまいますよ、ええ、本当に、マジで」
「もう戻ってるじゃん、笹原さん」
「だって岡崎さんが、絵に描いたようながっくり具合なんだもん。

 戻っちゃうよこれはもう、仕方ないって」
「せっかくの初デートで気合いを入れてきたのに、まさかこんな結果が待ち受けていようとは…」
「大袈裟だなぁ、岡崎さん。

 大丈夫。

 ちょっと抜けてるぐらいが女の子の母性本能をくすぐるんだって」
「笹原さんは母性本能くすぐられた?」
「そこそこ、割と」
「微妙だ!」
「おお、いいね、岡崎さん。

 その落胆っぷり。

 笑えるわー」
「笑わないでー。

 彼氏の威厳が!」
「あるよ、多分、きっと」
「不確かですね!」
歩きながら早口でしゃべるカップルに周りは注目していた。

「あ。定期忘れた」
鞄をのぞいたらそのことに気づいた。
「えー。どうするんだよ、芳樹(よしき)」
片野(かたの)が顔をしかめて告げる。
「今日は切符を買う」
「マジか」
「マジ」
俺が神妙にうなずいたら、片野はまた、えー、と呟く。
「浅野(あさの)さんを見られるなら、切符代なんて、へのカッパ」
「……何? 三六〇円が浅野さんの観覧料?」
愛しの君に対して安すぎない? と片野がまた顔をしかめる。
「浅野さんを値段に換算することなんかできない」
生真面目に答えると、片野が盛大なため息をついた。
「……初めての恋だからって、まじめ一辺倒になるなよ」
「わかった」
改札をくぐって電車に乗り込む。

いつものドア付近に待機して、正面にいる浅野さんの背中を見る。

同じ学校なのだから、声をかけるぐらいできればいいんだけれど、俺にその段階は早すぎる。

せめて、隣に並ぶことができるまで、それは保留だった。


俺の様子に片野が、ホント生真面目だな、芳樹、と呆れたため息をついていた。

「間に合ってます」
バタン、と扉を閉めた。
「そんなこと言うのはどうかと思うんですよ、明城(あかぎ)先生」
口調はゆったりしているのに、扉を叩く拳は、ドドドドドドドッ、と激しい音を立てている。
「あのね、峰崎(みねさき)さん。僕は、本当に、間に合っているんですって」
「うっそだー」
のんびりとした返答なのに、扉を叩くスピードはさらに上がった。

これ、放っておくと扉が壊れるかもしれない。
「明城先生ー、開けてくださいよー」
「本当、間に合ってるんだって…」
「私が先生の体をマッサージしてあげますって。ほら、先生だって同姓にマッサージしてもらうより、女の子にマッサージしてほしいでしょ?」
「マッサージなんて嘘だ! 本当は僕の体をボキボキにする気なんだ!」
「私はそこまで怪力じゃないですー。本当にマッサージを覚えたんですー。だから開けなさい、明城」
「呼び捨てになった! 怖い!」
間断なく峰崎さんに扉を叩かれた結果、蝶番から扉が壊れた。
「さあ。マッサージの時間ですよ、明城先生」
「ぎゃー! 誰か助けてー!」
僕の声が誰かに届いたかって?

そんなの否に決まってる!

遅くまで担任の先生と話していたから、すっかり夕暮れになってしまった。

辺り一面真っ赤。

ここまで赤いのは滅多になくて、学校の中庭を通りかかったときに、思わず立ち止まって空を見つめていた。
「あれ。まだ人が残っていたんだ」
そんな声が聞こえてはっとする。

慌てて声の方に振り返ると、中庭のベンチに男子が座っていた。

制服のネクタイの色で同じ学年、三年生だとわかった。
「こんな遅くまで勉強?」
男子が不思議そうに私に聞く。
「違う。先生と、話していて」
「ふぅん。そっか」
「あなたこそ、勉強?」
「うん、そう。でも全然わからなくて、息抜きに空を見上げてぼうっとしていた」
どこか不思議な雰囲気を持つ男子だった。

三年生なのだから、三年間同じ学校で過ごしたはずなのに、この男子を見たのはこれが初めてだった。
「三倉さん、よかったら勉強、教えてくれない?」
突然名前を呼ばれてぎょっとする。
「私の名前、なんで知ってるの?」
私が強ばった声で聞くと、男子はきょとんとして首をかしげる。
「だって、三倉さんっていつも成績上位者の一覧に名前が載っているでしょ? それに、全校集会でたまに表彰されたりしているし」
たしかに、言われてみればそうだった。

そのことに思い当たらなかったことに、私はカアッと頬を染めた。
「ね、三倉さん。お願い。勉強教えて?」
男子が小首をかしげてお願いしてくる。

けっこうかわいいかも、と思ってしまった。

末期かもしれない。
「教えてもいいけど、その前にあなたの名前を教えて」
「あ、そうだったね。忘れてた。俺は芦屋徹」
「私も改めて。三倉佐奈」
「よろしく、三倉さん」
「うん、芦屋くん」
こうして私と芦屋くんは、夕暮れ時の放課後を共に過ごすようになった。




「だからここはこの文法を使うの。ほら、これがあるでしょ?」
「ああ、これが目印なんだ」
「そうそう」
芦屋くんはなかなか覚えのいい生徒だ。

それなのになぜ授業では理解できていないのかがわからない。
「三倉さん、教えるのうまいね。わかりやすい」
にっこり笑ってそう言われると、嫌な気にはならない。
「私なんかまだまだだよ。『これ』とか『あれ』ばかり説明に使っているんだし」
「うーん。俺はそういうので理解できるんだけどなぁ。なんか、百聞は一見にしかず、みたいな感じで」
「それだけで済ませられるならいいけど、そうもいかないこともあるし。やっぱりちゃんと言葉で説明できないと」
先生達ってそういうところはしっかりしているからなぁ。

人に勉強を教えることがあまりなかったから、改めて先生のすごさがわかったし。
「三倉さん、教師に向いてると思うんだけどなぁ」
そんな風に言われてぎょっとした。
「な、なんで?」
「初対面の俺にも親切にしてくれたし。勉強教えてって言ったら嫌な顔一つせずに教えてくれたし。先生って、そういうことを自然体でするものでしょ?」
芦屋くんの言葉が突然すぎて、私は何度も間抜けに目を瞬かせていた。
「…そ、そんな、教師、だなんて」
「そう? 俺は教師の三倉さんも見てみたいけど」
「そんな、簡単なことじゃ、ない」
「うん。簡単なことじゃない。だから、無理強いはしないけどね。単に俺の希望だから」
芦屋くんはにっこりと笑う。

それを見て、胸がツキンと痛んだ。
「芦屋くん…」
「うん? なぁに?」
「私、本当は…」
こんなことを同い年の男子に相談していいものか少し迷ってしまって、目が泳いだ。
「うん、なぁに?」
芦屋くんが柔らかい声で聞いてくれると、すんなりと言葉が出てきていた。
「自分が、どんな道に進みたいのかが、わからないの」
もう高校三年生。

どんな進路にしたいのか、本当は決めていないといけない。

でも、私はまだ決められない。

担任の先生と話していたのだって、そのことだ。


私は自分が情けなくなって思わずうつむいていた。
「そっかぁ。迷ってるのかぁ」
芦屋くんはどこかのんびりとした口調でそう言う。

私はうつむいていた顔を上げて芦屋くんを見る。

芦屋くんはにっこり笑っていた。
「迷うものだよね。だって、人生の岐路だもの。しかも、いろんな選択肢があるんだから。その選択肢の中から、とりあえずはどれか一つを選ばないといけないんだし」
うん、迷っちゃう、迷っちゃう、と芦屋くんは納得しているようにうなずいている。

芦屋くんの反応に、私は呆気にとられてしまった。
「もう三年生なんだから、って焦っているんだろうけどね、焦って決めてしまうことにろくなことはないと思うんだ。追い込まれて苦し紛れに選択したものだろうから。これからの人生を決めるかもしれないものを、そんなせっぱ詰まらせた選択じゃあ、ちょっと自分の人生に失礼かも」
ふわりと笑う芦屋くんに目が引き寄せられる。
「周りの人に相談するのもいいことだけど、まずは自分自身と相談してみないと。結局歩いていくのは、自分自身なんだから」
芦屋くんの言葉に、私は自然とうなずいていた。

彼の言葉がすうっと胸の中に入ってきて、私の中心にとどまった。




それから月日は流れて、とうとう卒業を迎えることになった。

卒業のぎりぎりまで、私は芦屋くんと放課後に中庭で会っていた。

芦屋くんのあの言葉で、私は前を向くことができた。


卒業式を終えて、友達といろいろ話をして、生徒達がいなくなった学校で、私は中庭に立って芦屋くんを待っていた。

約束はしていない。

でも、きっと来るだろうと、どこかで確信していた。
「三倉さん」
後ろから声をかけられて、私は振り返った。
「芦屋くん」
彼はにっこり笑って私に近づいてくる。
「大学、受かったんだってね」
「うん。教育学部がある大学。私、」
すうっと胸を張って、芦屋くんをまっすぐ見つめる。
「教師になるって決めた」
「うん」
「きっと簡単なことじゃない。少子化が進んでいるから生徒の数も少なくなっている。新たな教師を必要とする学校も減っている」
「うん」
「それでも、そこへ進むって決めた。教師になったとしてもつらいことだってある。でも、それは、教師にならなくてもあることだ。つらいことだってある。うれしいことだってある。それを引っくるめて、私の人生だから」
「うん、そうだね、三倉さん」
芦屋くんがうれしそうに満面の笑みを浮かべる。
「おめでとう、三倉さん。おめでとう」
どこまでも優しい声音で芦屋くんが言ってくれる。

私も、自然と笑みを浮かべていた。
「ありがとう、芦屋くん」
向かい合う私たちを照らすように、夕日が最後の光を放つ。

赤く赤く染まる私たちは、世界の一部で、世界の生きる道の一部だった。




「それでは、定年退職される三倉佐奈先生に挨拶をして頂きます」
司会の若い先生がそう言い、私は壇上へと進み出る。
「皆さん、こんにちは。もう皆さんにこうやって挨拶できなくなるのかと思うと、胸に込み上げてくるものがあります」
私はゆっくりと体育館に集まる生徒達を見渡す。
「私はこの高校の卒業生で、教師を目指そうと思ったのも、高校の三年生の時でした。

 教師になろうと決めた学校で、教師としての卒業もできるなんて、感無量です。

 この学校が私の始まりでした。

 ここで、一人の男子生徒と出会って、私の人生は変わったのです。

 出会いというものは不思議です。

 一体何が自分に影響を与えるのか、自分自身には予測がつかない。

 出会いはいつだってびっくり箱です。

 私は、私の人生を変えてくれた男子生徒とは、高校を卒業してしまってから一度も再会できていません。

 それでも、その男子生徒との出会いは、今でも私の中で思い出すことができるんです。

 出会いをないがしろにしないで下さい。

 その出会いによって、つらいこともあるでしょう、うれしいこともあるでしょう。

 それを引っくるめて、自分の人生なんです。

 自分の人生に失礼な選択だけは、しないでくださいね。

 私は、皆さんとの出会いが自分の人生にとって失礼な選択にはなりませんでした。

 とても、幸福な選択です。

 皆さん、本当に、ありがとうございました」
私はマイクから離れて、深く一礼する。

この場所が最後の場所になったことを、私は、心から、感謝いたします。




誰もいない放課後の中庭。

辺りは夕日に染められて真っ赤になっている。

昔と同じように存在するベンチ。

でも、さすがに新調されている。

私はそれに腰掛けて、ふうっと息を吐き出した。
「お疲れ様、三倉さん」
私の隣から声が聞こえてきて、私はふっと笑みをこぼして顔を横に向ける。
「久しぶり、芦屋くん」
あのころと同じ姿のまま、芦屋くんは私の隣に座っていた。
「芦屋くん、人間じゃないでしょ?」
「そうだね。気づいてた?」
「卒業アルバムを見たときに。芦屋くんの写真が、どこにもなかったから。それに、よくよく思い出してみて、芦屋くんの手に卒業証書がなかったから」
「うん、ご名答」
芦屋くんはうれしそうににっこりと笑っている。
「芦屋くんが何者なのかなんて、今更聞かない。芦屋くんが何者であっても、芦屋くんと過ごした日々は本物だから」
「うれしいこと言ってくれるなぁ、三倉さん」
私と芦屋くんは顔を見合わせて笑い合う。
「三倉さん。本当にお疲れ様。今はしばらく、眠っていて大丈夫だよ」
「ありがとう、芦屋くん」
芦屋くんの言葉に素直に甘えて、彼の肩に寄りかかる。

芦屋くんはふわりとショールを肩にかけてくれた。
「三倉さんの幸福な選択に、祝福を」
数十年ぶりに聞く芦屋くんの柔らかい声に、私は温かいものに包まれたように感じて、眠りの淵へと身をゆだねた。

ガサガサと音を立てて小さな少年が森の中を駆けていく。

夕暮れ迫る刻限。

もうすぐにでも暗くなってしまう。

少年、小太郎は焦るように走って森で一番大きな木の側を横切った。
「危ない!」
遙か頭上から声が降ってきて、小太郎は思わず立ち止まって見上げた。

その直後、彼に向かって酒瓶が降ってきた。
「わー!」
小太郎は反射的に頭を抱えてうずくまる。

次の衝撃を覚悟していたが、痛みは何も来ず、小太郎はこわごわと上を見上げた。
「ふう。間一髪。久々に下に降りちゃったよ」
参った参った、と女性らしき人物が呟く。

その手には、小太郎の頭すれすれに持たれた酒瓶がある。
「怪我はなかったかい、少年?」
「は、はあ…」
気の抜けた声で小太郎は答える。

手を差し出されて小太郎はその手を取って立ち上がる。
「どうもありがとう」
「いやいや、礼を言われるのはお門違いだよ。こっちの過失だからね」
ははは、と笑う女性の息が小太郎にかかり、顔をしかめる。
「酒臭い…」
「うん、この酒を飲んでいたのが私だからね」
女性はまた、ははは、と笑う。
「少年。暗くなる前にお帰り。ここらはあやかしがうじゃうじゃいるからね。かく言う私もあやかしだし」
「うぇ!?」
小太郎は瞬時に飛び跳ねる。
「まあ、滅多に降りてこないけどね。私はだいたいこの木の天辺にいるから」
じゃあね、と言って女性が一っ飛びで木の上に飛び乗る。

小太郎はポカンと見上げていたが、はっとして声をかける。
「ねえ!」
「なぁにぃ!」
木の上と地面の上なので大声でのやりとりになった。
「名前はー!? 俺、小太郎ー!」
小太郎の言葉に女性が朗らかに笑い声を上げた。
「菊水! 菊水だ!」
「菊水! また来るかもー!」
「今度は酒瓶を落とさないように気をつけるー!」
「そうしてー!」
小太郎はそれだけを言うと、家に帰るために駆け出した。




菊水は木の上に寝転がって、フンフンと鼻歌を歌っている。
「機嫌ガイイネ、菊水」
「珍シイコトモ、アルンダネ」
耳元から聞こえてきた声に、菊水はにやりと笑う。
「人間の友達ができたんだ。うらやましいだろ、カラス共」
カラスたちはバサバサと飛び立ち、菊水の正面に来る。
「人間ノ友達? ソレハ本当ナノ?」
「菊水ノ勘違イジャナイ?」
「失礼なカラスだな」
ブスッと顔をしかめた菊水だが、次の瞬間には笑みを浮かべる。
「噂をすれば影、ってね。下を見てみなよ。小太郎がやってきた」
カラスたちは枝にとまって、下を見下ろす。

初めて会ったときのように小太郎がこの木の方へと駆けてきていた。
「菊水ー!」
木の根本に来た小太郎が、手をブンブンと振って菊水に呼びかける。
「小太郎ー!」
菊水も手を振り回して、聞こえていることを伝える。
「ねえ! 降りてこないのー!?」
「それはちょっと難しいー! この間のは緊急事態だったからやむなく降りたけどー! 基本的には降りないんだー!」
「なんでー!?」
「小太郎が酒臭くなるー!」
途端、小太郎は大声で笑った。
「菊水の酒乱ー! 大酒のみー! 飲んべえー!」
「そこまでひどくないー! はず!」
「最後の言葉がすっごく不安だー!」
二人は木の上と地面の上で、ゲラゲラと笑い声を上げた。
「ねえ菊水ー!」
「なぁにぃ!」
「菊水ってあやかしの中で強いのー!?」
「えー! そんなこと言われてもよくわからないー!」
「なんでー!?」
「だって他のあやかしと力比べなんてしないしー!」
「酔拳とか使えないのー!?」
「それは人間だけだよー! あやかしは使えないー!」
「じゃあ菊水は何ができるのー!?」
「えーっとねー! 衝撃波ー!」
「何それー!」
「手を触れずに吹っ飛ばすのー!」
「それすごーい!」
「でっしょー!」
二人はまたゲラゲラと笑う。
「小太郎は何ができるー!?」
「家の手伝いー! 薪割りしたりー! 廊下拭いたりー! お使いしたりー! 弟と妹の世話したりー!」
「そりゃすごい! 小太郎はいろいろできるんだなー!」
「わーい! 褒められたー!」
ギャハハッと二人は笑う。

二人の話は尽きず、笑いながらお互いのことを聞いていく。
「小太郎ー! もう逢魔が時だー! 帰った方がいいぞー!」
「わかったー! また来るねー!」
「またおいでー!」
キャッキャッと笑い声を上げながら、小太郎は森を駆けていった。

それを見送った菊水は、口元に笑みをたたえていた。




小太郎は母親に頼まれて、まだ赤ん坊の弟を背負ってわらを運んでいる。
「小太郎。あんた西の森に行ってるんだって?」
一緒にわらを運んでいる、妹を背負った姉が聞いてきた。
「そうだけど、何?」
小太郎がきょとんとして聞くと、姉は呆れたような表情をする。
「あの森は昔からあやかしが多いことで有名でしょ? 油断していると、あやかしに食われるよぉ」
姉が脅すように声を低くする。

小太郎は一瞬ビクリと震えたが、ふるふると首を振る。
「油断しないから、大丈夫」
「その言葉自体が油断しているのよ。知らないわよ、助けに行かないから」
「姉ちゃん、ひどい」
小太郎がムスッとするが、姉はツーンと顔を背ける。
「とにかく、私は警告したからね。むやみやたらに行くんじゃないよ」
姉が念を押してきたため、小太郎は不承不承ながらうなずく。

姉はそれに満足したのか、一足先にわらを運んでいく。
「……菊水は、そういうあやかしじゃないよ」
ポツリと呟いたが、姉に聞こえるわけがなく、小太郎の背中にいる弟だけが返事をするかのように声を出していた。




菊水は最近、小太郎と話すことが楽しみになっていた。

日がな一日木の上にいるだけの菊水は、すっかり暇を持て余していたのだ。

そこへやってきた小太郎は、菊水にとって、かけがえのない日々の潤いになっていた。
「早く来ないかなー」
菊水が思わず鼻歌を歌っていると、バサバサと慌てたようにカラスたちが飛んできた。
「菊水! 小太郎ガ他ノアヤカシニ襲ワレテイル!」
「スグ下ダヨ! ノゾイテミテゴラン!」
菊水は慌てて下をのぞき込む。

木と木の陰に小太郎が隠れ、その彼を引っ張り出そうと、猪姿のあやかしが突っ込んでいる。


菊水はそれを見た瞬間、カッと頭に血が上り、ぐいっと酒瓶の酒を飲み干す。

酒瓶をそこらへ放り投げ、猪姿のあやかしに向かって大口を開ける。
「ウォオオオオオオ!」
それはまるで狼の遠吠えのような声で、声が衝撃波となってあやかしに襲いかかる。

直撃したあやかしは遠くへ吹っ飛ばされた。
「ウォオオオオオオ!」
菊水は今度は空に向かって吠え、森中に衝撃波を飛ばした。

それを見上げていた小太郎は、ただ呆然とたたずむことしかできなかった。




「怖い思いをさせてごめんな、小太郎」
地面に降り立った菊水がしゅんと肩を落として小太郎に謝る。
「ううん。そんなに怖くなかった。菊水がすぐに助けてくれたし」
小太郎の返事に、菊水はほっと息を吐いた。
「それより、菊水ってとんでもなく強いんだね。びっくりした」
小太郎がキラキラとした目で告げると、菊水はどこかくすぐったそうな表情をした。
「最近はあんまり力を使ってなかったから、強いか弱いかわからなかったし」
「でも、すごかった。あんなに大きな猪を吹っ飛ばしたし。そう言えば、猪を飛ばした後も吠えていたけど、あれ、なんだったの?」
その言葉に、ああ、あれ、と菊水は話し出す。
「あれは、この森の中にいる他のあやかし達を追い出していたんだよ」
「追い出す!? そんなことができるの!?」
「まあ、この森は元々私が主をしていたし。いつの頃だったかそれに飽きて放っておいたら、悪巧みするあやかしの温床みたいになっていた。だから、今回のことはこの森の主としては当然のこと、みたいな」
「この森の主だったの!?」
「不精者の主だけどね」
「うん、そのままだね」
「何ぃ?」
菊水はわざとらしく怒っているような声を出して、小太郎をくすぐる。
「ぎゃははは! ひー! やめて!」
「仕方ない、これぐらいで許してやろう」
菊水がくすぐるのをやめても、小太郎はひーひーと笑っている。
「それにさ、小太郎が心配なくここへ来られるようにした方がいいと思って」
菊水の言葉に小太郎はポカンと口を開ける。
「これで、小太郎と縁が切れるのは嫌だなぁ、と思って」
菊水の言葉を頭が認識してくると、小太郎はじわじわと笑みを浮かべた。
「またここにおいで。いろんな話をしよう」
「うん! また来る!」
二人は顔を見合わせてゲラゲラと笑う。

森の中は静かで、二人の声が気持ちいいぐらいに響き渡っていた。

外はどんより曇り空。

雨が降りそうで降らない、ぎりぎりのところで保っている状態。

空を見上げながら川沿いの道を歩く。

こんな状態を人に見られたらちょっと恥ずかしいかもしれない。

少年の高い声が側を通りすぎていく。

一瞬過ぎった強い風。

小学生の男の子が側を駆け抜けたのだろう。

視界は相変わらず曇り空に埋め尽くされている。

雨が降りそうで降らない、ぎりぎりの雲。

それでも濃淡は刻一刻と変わっていく。

風に流される上空の雲。

風に逆らえない上空の雲。

日の光を遮断する濃い影は、どれほどの雲が折り重なっているのだろう。


いい加減首が痛くなってきた。

左手で首をさすりながら視界を前方に戻す。

時刻は一応昼過ぎなのに、辺りは薄暗い。

曇り独特の光。

朝方とも夕方とも夜中とも違う、すべてがはっきりとしない、それでも形がぼやけることのない風景。

雨が降れば景色はかすみ、日が差し込めば世界は鮮明になる。

その中間。

闇ではない、だからと言って光でもない。

このどちらつかずの状態が、どこか安心する。


急ぐわけでもなく、足取りが重くなるわけでもなく、歩く。

曇り空の下、側の川も薄墨色。

一定の歩調で、川に視線をやり、空に視線をやり、周りの建物に視線をやる。

時々側を通るのは小学校帰りの少年・少女。

周りに見えるのはそれぐらい。

このまま河口まで行ってみようか。

海の状態はどうだろう。


河口付近まで到着した。

堤防があったから堤防に登る。

潮風や砂で削られて、堤防はひどく風化している。

平均台の要領で、堤防の上を歩いていく。

海は波が穏やかだった。

川と同じで薄墨色。

波だけが白く弾ける。

どこまでも広がる海。

どこまでも広がる雲。

濃淡の違う薄墨色。

両腕を平行に伸ばし、堤防の上を歩く。

どこまでも続いていそうで、けれどきっとすぐにとぎれてしまう堤防。

ずっとずっと歩き続けることなど、そう簡単にはできない。

もう一度空を見上げる。

どこか表情は変わっただろうか。

変わったかもしれないけれど、見分けはつかない。

腕を平行に、歩調は速くもなく遅くもなく、空を見上げながら進んでいく。

今日は一日曇り空。

少しも日が差し込まない。

そのくせ地上を潤すわけでもない。

すべての活動を中断させる天候。

植物はただ呼吸をし、動物は鼻をきかせてえさを探す。

ただ、生きていくだけ。

生きるための必要最低限の行為をするだけ。


ずるっ、と足下から音がした。

あ、と思ったときは遅かった。

堤防が終わった。

体が落ちていく。

それでも空を見上げることはやめない。

体はスピードを上げて落ちていく。

空はどんどん遠くなっていく。

遠くなって、遠くなって、ついには、何もない。

もう、何もない。

空も、植物も、動物も、自分自身も、何もない。

そっと、まぶたを閉じた。

すべてが、遠い意識の向こうへ。

秋の日射しは快い。

だから、居眠りしてしまうのは、これはもうどうしようもないと思う。
「かあっっちゃーん!!」
ドスッ、と寝転がってる腹に重い衝撃が来る。
「ぐほっ」
「かっちゃん、遊ぼうぜー」
にぃー、とボウズが笑う。

ガシッ、と首根っこをつかむ。
「孝太郎、てめえ! 胃の中のもんが出てきたらどうすんだ!」
「飲み込め!」
「誰が飲むか!」
ペイッ、と孝太郎を放り投げる。

うおう、と声が聞こえたが無視。
「かっちゃん、遊ぼうぜー」
「克也叔父さん、だろうが」
「だーって、お母さんがそう呼んでるんだもん」
姉さんは孝太郎の前でもそう呼んでるのか…。
「俺はこれから寝るんだよ。一人で遊んでろ」
「えーっ。つまんねーっ」
「なんだ、孝太郎、一人遊びもできねえのか。情けねえなあ」
そう言えば、孝太郎はムキになって、一人遊びを始めた。

俺は安心して眠ることができる。
「かっちゃん!」
しばらくすると孝太郎に呼ばれた。

俺は眠かったから無視した。

そうしたら、顔に何か押しつけられた。
「なんだ!?」
目を開けると視界が狭い。

枯れ葉の匂いが鼻に入ってくる。
「お面作ったんだ。かっこいいだろー」
孝太郎は赤や黄色など鮮やかな枯れ葉のお面を付けていた。

俺は思わず吹き出して笑った。
「孝太郎、お前、図工得意だろ」
「当ったり前! 俺ってばこれしか得意科目ないんだよね」
「お前、それ、自慢にできないぞ」
「そうかな~?」
枯れ葉の匂いが充満して、さらに快かった。