拍手喝采を
ゴーン、ゴーン、と二時の鐘が鳴る。
私はゆっくりと目を覚まし、天井の木目を見つめる。
雨漏りの痕跡が一カ所、深い茶色でもって主張されている。
私はそれを見つめた後、ゆっくりと起きあがり、身支度を整える。
持っていくものは小さな包みのみ。
それを背中から肩を通って結び、固定する。
準備が整えば、部屋に用はない。
私はまたゆっくりと歩き出し、部屋を出た。
廊下は冷たい。
まだまだ真夜中の刻限。
生き物たちは息を潜めて眠り、野生動物からの襲撃に備えている。
板の廊下はミシミシと音がしている。
その音で、動物たちが目を覚まさないことを祈る。
門前に近づくと、今晩の鐘突が私の方をじっと見ていた。
「お前は今夜行くのか」
どこか感慨深そうに鐘突が言う。
私はゆっくりとうなずく。
「はい。行きます」
「では、これをお前に」
鐘突はそう言って、一本の杖を渡してきた。
私の腰元までの長さで、雪色の杖だった。
「こちらは?」
「あの方の忘れ物だ。ついでに使えばいい」
「……そのようなことをして、よろしいのでしょうか」
「良いに決まっている。あの方はおそらく、わざと忘れていったのだから。お前に使ってもらうために」
確信しているような声で鐘突が言う。
私は驚きに目を丸くし、じっと雪色の杖を見つめる。
「……では、お借りします」
「うむ。それでいい」
私は杖を受け取り、鐘突に一礼をして、門の方へ歩いていく。
「克彩(かっさい)」
鐘突から名を呼ばれ、私は振り返る。
「あの方にお会いしたら、またこの寺に来てくれるよう、お願いしてくれ」
どこか待ちわびているような鐘突に、私はゆっくりと笑みを浮かべる。
「わかりました。必ず、お頼みします」
私の返事に鐘突は満足そうに笑い、私は今度こそ、門から出て行った。
じゃり、じゃり、と足下から音がする。
この辺りは砂が多く、濁った音が鳴る。
辺りは真っ暗で、体の感覚と雪色の杖のみが頼りだった。
次第に足下の音が変わってきた。
きゅっ、きゅっ、と音がする。
草地に入ったようだ。
《あの方の杖だ》
《そうだ、そうだ、そうに違いない》
《うらやましい人間ぞ》
《我らですら、あの方のものをお借りできぬというのに》
草地に入ると、そんな声が聞こえるようになってきた。
周りを見回してみるが、真っ暗なだけで姿は見えない。
だがおそらく、声の調子から小鬼だろう。
《いったいどこの人間じゃ》
《あの方の杖を持っているということは、麓の寺の人間であろう》
《寒行が始まっておるから、そのためであろう》
《おお、また来たか。早いものだ》
《今度はどんな遊びを仕掛けようか》
クスクスクスクスと、小鬼の笑い声が聞こえてくる。
私は少し足を速めた。
《あや、逃げようとしているぞ》
《逃がしはせぬ。夜は長いんじゃ。まだまだついていくぞ》
《はじめはこれじゃ》
小鬼がそう言った瞬間、足下から冷気がせり上がってきた。
思わず足を止めそうになったが、それをこらえ、私は先に進む。
《うむ。さすがは寺の人間じゃ。これしきでは根を上げぬ》
《ならばこれはどうじゃ》
次に襲ってきたのは強烈な寒風だった。
しかも向かい風であるため、歩みが遅くなってしまう。
だが、それでも、止めることはしなかった。
《うーむ、なかなか粘るのう》
《いつだったかの若い人間は、これで引き返したのだが》
《ならば、これならどうじゃ》
頭上に急速に雲が集まり、強い雨が降ってきた。
しかも、強風はそのままだ。
《おお、よいではないか。これはなかなかのものじゃぞ》
《あの方の元に、そう易々と行かせはせぬぞ》
だんだんと歯の根があわなくなり、体も震えてきた。
前方は相変わらず真っ暗。
ちらりと右手に視線を落とす。
その手に握る雪色の杖を確認して、私は歯を食いしばり、前方を睨みつける。
歩みは止めない。
あの方に、会うために。
《おお、なんじゃ、なんじゃ》
《こやつ、まだ進むのか》
《うーむ。もはや執念じゃのう》
《よし。これで最後じゃ》
次の瞬間、雨に雪が混じりだした。
みぞれだ。
雨よりもさらに体が凍りそうだ。
雪色の杖を握りしめ、前へ前へと進む。
寒さでほとんど体の感覚はない。
それでも止まらない。
この時期でなければ、あの方には会えないのだから。
《ああ、もう駄目じゃ》
《これで終わりか》
《我らの領域はここまでじゃ》
《口惜しいのう。これでこやつは、あの方に一歩近づいてしまう》
《阻止できなんだ》
小鬼たちの落胆した声が聞こえる。
前方を見ると、草地が終わった。
みぞれも強風もやむ。
一つ大きく息を吐き出したが、まだまだだ。
周りを確認すると、林だ。
私は気を引き締めるように奥歯をかみしめ、足を踏み出す。
着物は湿ったままで、それですら寒いが、林の中は空気自体がひんやりと冷たい。
吐く息は白く、そのまま氷の結晶になってしまいそうだった。
《来たぞ》
《またあの方に近づこうとする不届きものがやってきたか》
《寺の人間がなんだというのだ》
《あの方は我らですら神聖なお方。人間になど、お名前を呼ぶことすら憚られることだというのに》
《今回もまた、邪魔してくれる》
この不穏な声は、おそらく烏天狗だろう。
この殺気にも近い怒気は、何度遭遇しても慣れないものだ。
彼らをやり過ごそうと私は駆け出した。
《逃げるぞ!》
《そうはさせるか!》
びゅう! と暴風が吹き、体が浮く。
突然のことに私は体を強ばらせる。
《そおれ!》
烏天狗のかけ声で、私はどこかへ飛ばされる。
なすすべもなく視界を回していると、体が何かにたたきつけられ、そのまま沈んでいく。
体に触る感触から水だと気づく。
とにかく水面を探すように頭上に腕を突き出し、水を掻く。
やがて指先に空気が触れ、私は一気に足をばたつかせ、水面に顔を出す。
目の前に見えたのは巨大な滝だった。
白いしぶきが水面を弾き、私の顔に水滴を降らす。
私は右手に雪色の杖があることを確認し、川から出ようと岸にまで泳ぎ出す。
《あいや、あいや、そうはさせぬ》
《これは序の口。まだまだ邪魔はこれからだ》
烏天狗の声が聞こえたかと思うと、川面が波立ち、水量が増す。
水面に顔を出すのが難しくなり、口の中に水が入る。
体も冷え、体力が徐々に消耗されていく。
《あの方にお会いすることをあきらめれば助けてやるぞ》
《どうだ。早々に降参した方が得だぞ》
嘲笑混じりの烏天狗の言葉が聞こえる。
右手にある雪色の杖の感触を確かめる。
私はまだ進める。
烏天狗の思い通りになるつもりはない。
私は両手両足を動かし、泳ぎ出す。
《むむっ。こやつ、我らに逆らう気か!》
《我らがこれで手を引くと思うか!》
《我らの力はこれぐらいではないぞ!》
川の流れが急速に強まる。
私の力では押し流されるのが関の山だ。
《どうだ、どうだ。これでは無理だろう》
《さっさとあきらめろ。無駄なことだ》
烏天狗たちがはやし立てる。
その言葉に頭に来たが、私は全身の力を抜き、流れに身を任せる。
《お、あきらめたか》
烏天狗の言葉が聞こえた次には、私は岸近くに雪色の杖を突き出していた。
《ああ! あの方の杖が!》
《なんということだ! このままでは杖が折れてしまう!》
《急いで流れをゆるめるんだ!》
川の流れがゆるんだ瞬間、私は岸に乗り上げた。
《くそ! あの人間め! 我らを謀ったな!》
《あの方の杖を利用するなど、なんと極悪非道な》
《あの岸を越えられては我らは力が使えぬ》
《そこまで計算していたか》
《ずるがしこい人間じゃ》
烏天狗たちの声を背中に、私は林を抜け、山の中へと入った。
ここが、最後の関門だ。
全身ずぶ濡れで、体力もだいぶ削られてしまった。
それでもここを登らなければならない。
一歩一歩踏み出すたびに、地面が体から落ちる水で濡れ、そのせいで滑りそうになる。
右手に持つ杖だけが、本当に頼りだ。
《まさに滑稽、滑稽。そのまま滑り落ちてしまえばいいものを》
《そう言ってやるな。あれでも必死なのだ》
《ここまで必死にならなくとも良いのに。人間とは、愚かしいものだ》
《愚か者だからこそ、あの方に近づこうなどと考えるのだ》
聞こえてきた言葉にぎくりとする。
狐と狸だ。
《さてさて、何をしようか》
《楽しみだな》
くくく、と笑い声が響き渡る。
姿は見えない。
だが、いる。
ぞくりと背筋に寒気が走った。
はっと周りを見ると、辺りには霧が立ちこめていた。
狐と狸の仕業だ。
冷えた体に霧がまとわりつき、ますます体温が奪われる。
つ、と冷や汗が流れる。
ゴクリとつばを飲み込み、一歩一歩前へと進む。
《愚かなり、愚かなり、人間め》
《我らの術中にはまっておるわ》
《そのまま歩き続けろ、人間》
《そのまま歩みを止めろ、人間》
くくく、くくく、と笑い声がこだまする。
辺りを見回すが霧で何も見えない。
歩みは止めない。
だが、方向がわからない。
登っているのか、下っているのか、それすらもわからない。
思わず体に力が入ったとき、右手に持つ雪色の杖を意識した。
私は杖をじっと見つめ、前方を見る。
《どうした、人間》
《とうとう歩みを止めるか》
狐と狸の声が聞こえる。
だが、私はもう、それを意識しない。
まぶたを閉じる。
そのまま、前へと進む。
《なんだと!》
《くそ! その方法を考えたか!》
頼りにするのは雪色の杖、そして、長年この山を歩んできた体の感覚。
私は、それを信じる。
狐と狸には、惑わされない。
《もっと何かないのか、狐!》
《狸も少しは考えろ!》
《なんだとつり目!》
《うるさい垂れ目!》
仲間割れの声を背中に聞いて、私は狐と狸の領域を抜けた。
ゆっくり目を開けると、そこは、雪色の世界が広がっていた。
「……何度見ても、圧巻だ」
この霊山の頂上に枝を広げる雪色の大樹。
葉も花もつけない、枝だけの樹木。
それ故に神木として崇められている。
『ようこそ、克彩』
大樹を眺めていた私の後ろから、そう声が聞こえた。
私はゆっくりと振り返る。
「……お久しぶりです。白雪(しらゆき)様」
『私の分身を大事に持っていたようだね。ありがとう』
全身が雪色に染まっているその方こそが、大樹に宿る神、白雪神。
女性とも男性ともつかない中性的なお姿で、柔和な表情をされている。
『私のところへたどり着いたのは、今年は克彩が初めてだよ。他のもの達は、妖怪達の術に敗れてしまったようだ』
「そうでしたか」
『妖怪達にも、困ったものだ。私を愛してくれているのはわかるが、年々度が過ぎていく』
白雪様が苦笑される。
「ですが、我々にとっては、よい修行です。身も心も、鍛えられます」
『いつからか、私の元へ来ることが寒行となっているようだね』
「私が寺に身を置いた頃には、すでに」
『本当に、困ったものだ』
白雪様はそう言いながらも、優しげな目をされている。
『克彩。疲れたであろう。ゆっくりお休み』
白雪様にそう言って頂いた瞬間、体の力が抜け、大樹の根本に倒れ込む。
「白雪様…」
『いつからか、この時期でなければ顕現できなくなってしまった。すまない。私がいつでも姿を現すことができれば、お前達にこのようなことをさせずにすむのに』
白雪様がゆっくりと私の頭をなでる。
だんだんとまぶたが降りてきた。
「そのようなことを、おっしゃらないでください…。私たちは、あなた様にお会いできるこの道中を、とても楽しみにしているのです…」
『だが、つらいであろう』
「それでも、あなた様にお会いできたときの喜びは、ひとしおなのです」
私の頭をなでていた白雪様の手が、ピクリと震えた。
「あなた様にお会いできたことに、感謝を」
私は完全にまぶたが降りてしまった。
だから、この後の白雪様の表情を知らない。
『それなら私は、お前に拍手喝采を、贈ろう』
その言葉のあとに、私は、柔らかな祝福をこの身に感じた。
これが、私が行った今年の寒行のいきさつである。
目が覚めたときには、私は寺の自室で眠っていた。
枕元には雪色の杖があり、持ち手のところには、雪の結晶の彫り物がされていた。
来年も、この杖を持って、あの方に会いに行こう。
それが、ここで暮らす私たちの、力となる。