「ねぇ、知ってる?
黒いライオンのこと」
「黒いライオン?
ライオンは黄色とかオレンジ色じゃないの?」
「そうだよ。
そのライオンも元は黄色やオレンジ色だったの。
でも、そのライオンはあまりにも凶暴で獰猛で戦闘狂なものだから、あらゆる動物たちとの争いで、返り血だらけになったの。
酸化した血で毛皮は真っ黒になって、だから黒いライオンなんだ」
「そうなの?
そんな恐ろしいライオンがいるなんて知らなかった」
「それはしょうがないよ。
私たち鳥類は、ライオンとあまり関わりがないもの」
黒いライオンがただ歩いているだけで周りの動物たちは逃げていく。
誰も彼もが彼に関わりたくないと彼を避ける。
彼の視界に入るだけでも恐ろしいと、皆は彼から顔を背ける。
だが動物たちは知らない。
彼は逃げられれば逃げられるほど、相手の血を見たくなるのだ。
動物たちはそうやって、知らず知らずのうちに彼の獲物となっている。
彼はその日も獲物を探してさまよっていた。
「今日の獲物は何にしようか」
彼が辺りを睥睨しているとき、彼の視界に奇妙なものが入った。
「…あれは何だ?」
彼よりもずっと小さい、茶色い物体がそこにあった。
彼はその物体に興味を持ち、近づいていった。
はっきりと見えたそれは、チャボだった。
それも、片足だけのチャボだ。
生きているのか死んでいるのか、チャボは目をつぶって少しも動かない。
彼はさらに近づいて匂いを嗅ぐ。
その途端、チャボの目がパチッと開き、彼を真っ直ぐ見つめた。
「あなたが噂の黒いライオンですか」
ずいぶんと通る声でチャボが言う。
突然かけられた言葉に、彼は反応できずに固まっていた。
「なるほど確かに血糊がべったりついていますね。
なんとも毛ヅヤも毛並みも悪そうです。
なんだかまるで無精者のようですね」
チャボはじろじろと彼を見つめる。
そこでようやく彼ははっとし、チャボに顔を近づけ、牙を剥き出しにする。
「俺をじろじろ見るな、鳥風情が。
お前なんか一飲みにしてくれる」
彼はこの威嚇で何匹もの動物たちを震え上がらせてきた。
だがこの片足のチャボは、全く臆することがなかった。
「あなたは口の中まで血潮で満たされているのですね。
毛皮は黒いのに、口の中は真っ赤です。
牙にまで血が滴っていますね」
チャボは冷静に彼を観察していた。
その様子に彼は思わず肩透かしを食らう。
これは違う、と彼は思った。
今までの動物と、何かが違った。
「お前は、俺が恐ろしくないのか」
彼は奇妙な感覚に囚われ、静かに問いかけていた。
「もちろん恐ろしいですとも。
ですがそれよりもあなたに対する興味の方が上回っているのです」
「興味だと?」
「ええ。
私はあなたにとても興味を持っています」
チャボは突然雰囲気をガラリと変え、じっと彼を見つめる。
「返り血だらけの牙持つ獣、あなたは何のために戦っているのですか?」
その問いかけに彼は面食らう。
「そんなことは考えたことがない」
「ではもう一つ。
なぜ戦うのですか」
「それは、本能だからだ。
牙持つ獣すべての、本能だ」
「そうですか。
ではなぜ、牙持つ獣のすべてがあなたと同じように無差別に攻撃しないのですか」
「それは…」
彼はそこで言葉を詰まらせた。
「私はあなた以外にも牙持つ獣に会ってきました。
彼らはたしかに本能によって戦っている部分もありました。
ですが、無差別ではありませんでした。
己の獲物、己の敵を区別していました。
ここに生きるものすべてが獲物や敵となり得るわけではありませんでした。
己ですら敵わぬもの、獲物とするには割りに合わないもの、そういうものを見極めていました。
ですが、あなたは違います。
ここにいるすべてが獲物や敵です」
チャボの指摘に彼はゴクリと息を呑む。
「ついでに聞きます。
あなたにとっては私も獲物となり得ますか」
チャボはひたと彼を見つめる。
彼は知らずチャボの瞳に引き込まれ、言葉が消えていた。
「…もし、俺がお前を獲物と認識したならば、お前は逃げるか」
先のチャボの問いかけには答えず、彼は逆に問いかけた。
「逃げません」
チャボはすぐさまそう答えた。
その即答に彼は度肝を抜かれる。
「なぜだ。
俺に食われるかもしれないんだぞ」
「たとえそうなろうと私は逃げません。
というより、どんなことがあろうと、私はここに立ち続けるだけです」
「立ち続ける?」
彼の予想しない言葉が続けられ、怪訝に顔をしかめた。
「私は片足しかありません。
チャボですので、飛行能力も優れているわけではありません。
私は本来なら、生まれたときすでに死んでいてもおかしくはなかったのです。
ですが私は生きています。
親鳥は私が雛のときに見捨てていましたが、私は私を見捨てませんでした。
片足で生まれようと、飛行能力が劣っていようと、私は確かにこうして生を受けました。
私が私であるために、私が私として生きていくために、私はここに立ち続けているのです」
チャボの言葉は彼には難しく、彼は複雑に顔を歪めていた。
「お前にとって、生きることは、立ち続けることなのか?」
「そうです」
チャボははっきりとうなずく。
「私はここに立ち続けます。
片足の私ができることは、逃げもせず、立ち向かうこともしないことです。
たとえ逃げても片足の走る速さはたかが知れています。
まして捕食者相手では無駄な抵抗と言えるでしょう。
そして、立ち向かわないのは、反撃されないためです。
攻撃を仕掛けられれば、攻撃を返したくなるもの。
私の短い嘴では、一回攻撃できるかできないかというところです。
捕食者相手に、それでは分が悪すぎます。
逃げることも、立ち向かうことも、私が生きていくにはあまりにもリスクが大きい方法です。
だから私は立つことを選びました。
すると、不思議なことに、誰も私を食おうとはしませんでした。
あなたのように奇妙なものがいると関心を持つものはいましたが、私がただ立っているだけだとわかると、去っていきました。
私自身の食べ物はすぐ足下の草などを啄めばいいだけでした。
そういうことがあり、私はこうして、大人の年齢になっても生き続けているのです」
チャボの話を聞き、彼は納得できないように顔をしかめた。
「ただ立っているだけで何もしないのか?
それで本当に、生きていると言えるのか?」
彼の疑問にチャボはまっすぐ彼を見る。
「私はここを動かずにここに生きるすべてのものを見届けます。
この命尽きるまで、すべての生き様を見つめ続けます。
あなたの生き様も、私が生きている限り見つめていきます」
何の迷いもなく告げるチャボに、彼はしばらく言葉をなくした。
「返り血だらけの牙持つ獣、黒いライオン、あなたは何のために戦っているのですか?」
今一度問いかけられた言葉に、彼は体を震わせる。
「俺は…、俺が俺であるために、戦い続けている。
俺は、数ある中のライオンの一匹でありたくなかった。
俺が俺であるとわかるように、他のライオンとは違うことをした。
そうして、黒いライオンになった」
彼は呆然と言葉を紡いでいった。
「ライオン、牙持つ獣、そんなものはいくらでもいる。
だが俺は、その中に埋もれたくなかった。
他のものと一括りにされたくなかった。
俺は俺だ。
他と同じじゃない。
俺は一匹しかいない。
それを、ただ、知らしめてやりたかった」
彼はそう言って、口をつぐんだ。
茫然自失した彼をチャボはじっと見つめる。
「返り血だらけの牙持つ獣、黒いライオン、あなたのその存在証明は、多大な犠牲を伴うものです。
あなたを黒く染めたその血が、いつかあなたを身動きの取れない状態にさせるかもしれません。
それでもあなたは、その方法で存在証明をしますか」
チャボの言葉に彼はゆっくりと顔を上げ、チャボをじっと見つめる。
「他に、存在証明できる方法があるのか」
「今のあなたの状態で思い浮かばないだけで、方法はいくらでもあります。
返り血だらけの牙持つ獣、黒いライオン、それを維持しながら別の意味を持たせることもできます」
「そんなことができるのか!?」
彼は思わず声を張り上げていた。
「そうするためには、あなたが戦う理由を変える必要があります。
あなたがあなたのためだけに戦わないのであれば、あなたの存在証明が黒いライオンのままであることはできます」
チャボの言葉に、彼は途端に不快の表情を示した。
「お前もまた、大切なものを守るために戦えと告げるのか。
それではただのライオンと同じじゃないか」
「いいえ。
そんな大層な理由でなくていいのです。
単に、死なすのは惜しい、と思える存在が、生きていきやすくすること。
それでいいのです。
大切なものを作れなどと私が言えるわけがありません。
あなたはライオンです。
百獣の王です。
王ならば王らしく、尊大な態度を取ってしまえばいいのです。
動物たちの中で唯一の黒いライオン、あなたが動物たちの頂点に立ち、あなたが生かしておきたいと思えるものだけを、生かせばいいのです。
そのものたちと共に、あなただけの世界を築いていけばいいのです。
それが、あなたの存在証明となるでしょう」
片足のチャボこそ、まるで尊大な様子で彼に告げる。
彼は呆然とチャボを見つめるだけだった。
「ですが、忘れてはいけません。
あなたは今まであなたのためだけに多くの血を流してきました。
その事実は消えません。
いつかその事実があなたの身に降りかかってきます。
具体的な事象として生じるかもしれませんし、目に見えない形で訪れるのかもしれません。
それに立ち向かうだけの覚悟と意志はありますか」
まっすぐ見つめてくるチャボの瞳に吸い込まれながらも、彼は口角を上げ、歯茎を剥き出しにする。
「そんなもの、とっくの昔に持っている」
「それならば、何も心配はありませんね。
返り血だらけの牙持つ獣、黒いライオン、あなたはきっと、あなたのままであることでしょう。
私はそれを、見つめ続けます。
それが、片足のチャボである私の役目です」
チャボも口角を上げ、にやりと笑みを浮かべた。
「あなたが死なすのは惜しいと思える存在は、今の時点でありますか」
「たった今、お前を死なすには惜しいと思えた」
「黒いライオンにそう言って頂けるなんて、光栄ですね」
彼はひたとチャボを見つめる。
「お前がここに立ち続けてすべてを見据えることを己の役目と課しているならば、俺は俺の命が尽きるまで、お前がその役目を全うできるよう、他の動物と戦い続ける。
俺の世界にお前を迎えてやる」
チャボもまた彼をひたと見つめる。
「それでこそ、尊大な王の姿です」
バンッ! と辺りに鋭い音が響いた。
その途端、黒いライオンが額から鮮やかな血を噴き出してドオォッと地面に倒れた。
「おい!
やったぞ!
すげえ獲物だ!
見たことないぞっ、黒いライオンなんて!」
「これで俺たちはハンターの英雄になれるぞ!」
二匹の人間が巨大な鉄の筒で彼に砲撃した。
チャボは人間には目を向けず、ただじっと地面に倒れる彼を見つめる。
彼は今もなお額の小さな穴から鮮血を流している。
それでも、その目は、その口は、先ほどの宣言の時のように、堂々たる様相そのままだった。
まさに、尊大な王の姿だ。
「返り血だらけの牙持つ獣、黒いライオン。
あなたの生き様、あなたの存在証明、あなたの覚悟と意志、しかと、見届けました」
彼はもうチャボの言葉には答えない。
それでも、チャボはそれが己の役目であるかのように、朗々と宣した。
チャボは背後から二匹の人間が駆けてくる気配を感じる。
チャボはまた辺りをひたと見つめて、ただそこに立ち続け、すべての事象を見据える。
空は高く青く光に満ち、黒いライオンが流す血が、よりいっそう鮮やかに煌めいていた。