「なんだかんだ言って、あなたはやっぱりどこかが他の方々とは逸脱してると思うんです」
だからなんだかあなたと一緒にいると変な感じというか、もやもやした感じになると思うんです、と情報科の三井(みつい)さんが、いかにも表現しがたい、と言いたげな表情で俺を見て言う。

俺はそのことにさしたる感慨もなく、ほんの少しだけ首をかしげる。
「いまいちよくわからない」
もう一度説明してくれてもいい? と聞くと、三井さんはますます顔をゆがませて、俺をじっと見る。
「そういうところですよ。あなた、つまり、私に、変人ですね、って断言されたようなものなんですよ? 何か感じることはないんですか?」
「そいつぁどうも、って感じ」
「ああもう、ほら、そういう…」
三井さんはそれ以上の言葉が見つからないのか、はたまたいっぱいありすぎるのか、とにかくそれ以上は言わずに、頭をぐしゃぐしゃにかきむしって盛大なため息をつく。
「ああもう、本当に、なんで私のパートナーがあなたなんですか」
「俺に不満を言われても困るんだけど。俺が決めた訳じゃないんだから」
「知ってます」
もういいや、と達観したような三井さん。

そこら辺が、俺と組まされた理由にあるんだと、俺は感じている。

言わないけど。

悠里(ゆうり)がソファで寝ている。
「……珍しい」
いつもはちゃんとベッドで寝るのに。

よっぽど疲れたのだろうか。

服も着たまま、化粧もそのまま。

せめてストッキングは脱げばいいのに。

足が締め付けられて寝にくくないのだろうか。

ああ、それとも、それすら気づくことがないくらい、睡魔は強敵なのだろうか。
「悠里ー、これからご飯作るけどー? 何食べるー?」
小声で言ってみたところで聞こえないことは分かり切っている。

ただ、料理に文句を言われたときの予防線のようなものだ。

俺はちゃんと聞いた、悠里が答えなかっただけ。

なので俺の好きなものを作る。


荷物を置いてそのまま台所に行こうとしたけど、やめた。

もう一度ソファにいる悠里に向き直る。

やっぱりぐっすり眠っている。

目の下にクマが見える。

徹夜が続いていたのかもしれない。

もしかすると、この家に帰ってくるのも久しぶりなのかもしれない。

単に俺が寝ているときに出て行って、寝ているときに帰ってきていたわけではないのかもしれない。

そう思っていたのだけれど、違ったかな。
「お疲れ様、悠里。今日は腕を振るって美味い料理を作るからな」
そう言って寝ている悠里の頭をなでると、にゃあ、とダイニングのいすに座っていたミツが鳴いた。

俺はミツの方を向いて口に人差し指を当てる。
「内緒だよ」
ミツは返事をするように、にゃあ、と鳴いた。

「ただひたすら、思うところがある」
いやにはっきりとした調子で坂田(さかた)が言う。

俺はいぶかしむように隣席にいる坂田を振り返る。
「…何を?」
「結果、俺はどこかに何かを遺せているのだろうか、って」
遺すっていうのは、あっちな、遺書の遺、とわざわざ付け加える。

俺はますます顔を怪訝な表情にする。
「…そういうのって、死んでからじゃないと、わからないものじゃないか?」
「そうかもしれないけれど、今の俺がたどってきた人生によって、何かが遺るような可能性はあるのかな、って」
坂田はやっぱりはっきりと言う。

何の迷いもないかのような、それなのに内容自体は迷いに迷っている。
「わっかんねーよ!」
「怒鳴るなよ。俺がけっこう前々から思っていることなんだから」
「だから余計にわからん! なんっでそれを俺に言う!」
「隣席になったのも何かの縁じゃないか。これを利用しない手はない」
「どんな理屈だ!」
坂田はわからない。

なんで何かを遺したいのか。

俺は何も遺らない方がすっきりすると思うのに。

訃報を聞いて訪れたのはいいけれど、何を言えばいいのかが何も思い浮かばなかった。

あの人は窓際の籐いすなんかに深く腰掛けて、足音が聞こえたはずなのに、俺の方には全く視線を向けなかった。

ただ窓の外の景色を見ているだけ。

ここは二階だから町並みしか見えないけれど、それすら見ているかどうか怪しかった。
「あの…」
ようやく声を出したけれど、あまりにもそれが震えていて、自分自身で情けなくなった。

俺はこんなに弱かったのか。

ただ声を出すだけでも、とんでもない気力が必要だった。
「お気持ち…、お察しします…」
「嘘ばっかり」
ようやく絞り出せたありきたりな言葉を、あの人はばっさりと切り捨てた。

それでも、その声にはどこか笑いが含まれていた。

知らずうつむいていた俺が顔を上げると、あの人が俺の方を見ていた。

その顔には声の通り笑顔が浮かんでいたけれど、今にも泣き出しそうな、そんな曖昧な表情だった。
「いいんだよ。そういうこと、無理に言わなくても。私と君の仲じゃないか」
あの人はわざとおどけたように言う。

その声が震えていることを、俺は、どうしても告げられなかった。

俺も、あの人も、ただ、窓の外を見ていることしか、できなかった。

ガランガランガラン! と乱暴に喫茶店の扉が開かれた。
「あ、いらっしゃーい、知章(ともあき)くん」
へらっと間の抜けた笑顔で店主が出迎える。

それを受けた青年は、がっくりとうなだれる。
「ああー…。有村(ありむら)さん、なんで無事なんですか?」
突然の問いかけに、店主の有村はきょとんとする。
「無事って? 何かあったの?」
実際年齢よりも若く見える童顔で首をかしげるため、さらに幼く見える有村に、知章はますますうなだれ、頭を抱える。
「有村さん、危機感なさ過ぎ! 俺、ついさっきここを怪しい男達が駆け出していったから心配したっていうのに!」
「ああ、それで。大丈夫だよー、あの人達、従兄弟だから」
「従兄弟!? どの辺が!? 思いっきり悪人面だったじゃないか!」
「うん、それは否定しない。さっきもねぇ、たまには俺たち好みの激辛料理も作りやがれ、って無茶言ったから、真逆の激甘お菓子を口に突っ込んだんだー」
「……うわぁ」
「あまりの甘さに逃げ出した姿を知章くんは目撃したんじゃないかなー」
「…………うーわぁ」
嫌な事実を知った、とカウンターに突っ伏す知章を、有村はまたへらっと間の抜けた笑顔で見つめていた。

今回の作品は、2010年8/16~8/19に掲載された『喫茶タカマ』の番外編です。

先に『喫茶タカマ』を読まれた方がわかりやすいかと思われます。

それでは、どうぞ、お楽しみください。




*****




喫茶タカマ~夢魔~




連日、うだるような暑さが続き、熱中症で倒れるものが続出していた。

本内(もとうち)圭司(けいじ)が通う高校でもそれは例外ではなく、屋外の部活動生を中心に、救急車が呼ばれる回数は日々増えていく。

どこの部活動にも所属していない本内は、放課後ともなると『喫茶タカマ』へとやってきて、涼をとることが日課となりつつあった。


「ここ最近、熱中症で倒れる人が多いんだ。この間なんか、とうとう先生まで病院に運ばれたし。もうすぐ夏休みではあるけど、うちの学校、ちゃんと機能するのか心配になってきた」
本内がダラリとカウンターにうつぶせると、店主である高間(たかま)健人(けんと)がくすくすと笑い出す。
「学校の心配するなんて、本内くんってけっこう案外人情味のある人間なんだねぇ」
「『けっこう』とか『案外』とか余計だと思うんだけど、店長」
高間の言い様に本内は顔だけを起こして、ぶすっと唇を突き出した。
「でもさ、別に異様な暑さってわけでもないのに、なんで熱中症が増えてるんだろうね」
高間が不思議そうに首をかしげるが、本内にも何も言えず、困ったように顔をゆがめるだけだった。


湿度は高いが、気温はそこまで高くない。

真夏日になるかならないかの瀬戸際が続いている。
「おそらく、夢魔が関係しているだろう」
そのとき、カウンターの奥で作業をしていた頭柳(あたまやなぎ)が話し出した。

二人の視線が一斉に頭柳に向く。

頭柳は人型の女性あやかし。

人とは少し違う雰囲気を醸して、二人の方に向き直る。
「こういう暑い日にこそ、夢魔が出現しやすい。特に湿度が高い方が、対象に夢を見せやすいんだ」
「それってどういう理由なんだ?」
本内が不思議そうに頭柳に聞く。

頭柳は本内のお冷やをつぎ足しながら、目を伏せて話し出す。
「蒸し暑いと熱がこもるだろう? 汗を掻いても体温が下がらないからな。そうすると、意識がもうろうとしやすいんだ。人によっても度合いは違うし、もうろうとなるまでには至らないことも多いんだが、夢魔はその曖昧な位置につけ込む」
カラン、とお冷やの中の氷が揺れる。
「意識がはっきりしているかしていないか、夢か現か、境界が曖昧なところで、己の夢の中に連れ込む。意識は知らず夢魔の夢の中。だが体は現実にそのまま。その状態を熱中症によって倒れたと、人間の世界では判断されてしまう。今の、暑さが上昇していっている時期が、夢魔にとっては都合のいい季節なんだ。人間の体が暑さに追いついていないから、暑さに慣れるまでの短い間が、夢魔にとっては勝負だからな」
「自分の夢の中に連れ込んで、何をするんだ?」
本内がさらに質問すると、頭柳はじっと彼を見る。
「喰らうんだ。魂を。それが、夢魔の糧だからな」
淡々と告げる頭柳に、本内は思わずぞっと寒気を感じた。
「あまり脅すものじゃないだろ、頭柳」
カランカラン、と鈴を鳴らして喫茶店のドアが開かれる。

その音に皆が注目すると、二足歩行の狐のあやかしである玉緑(たまりょく)がやってきた。

玉緑は何食わぬ顔でカウンター席に座る。
「一言に夢魔と言っても、種類はあるさ。単に人間をからかうだけのものもいるし、頭柳が言うように命を奪うものもいる。その間の、生命力を少し失敬するものもいる。この辺りは頭柳の縄張りのようなものだから、早々力のある夢魔はいないだろう」
玉緑はそう言って、本内に向かってにやりと笑う。

玉緑の言葉に本内はほっと息を吐き出した。
「この辺りは頭柳がいるから安心ってことかぁ。よかったね、本内くん」
「店長、勝手なことを言わないでください」
へらへらと笑う高間に、頭柳がジロッと睨む。
「だが、本内。用心するに越したことはない。人間はあやかしと違って体が弱いからね。くれぐれも、体調管理に気をつけるように」
まるで親のようなことを言う玉緑に、本内は少し笑いながらも素直にうなずいた。




玉緑から注意を受けて、本内は鞄の中にスポーツドリンクを常備するようになった。
「あっちぃ…」
日曜日、本内はまた喫茶タカマへ向かっていた。

この日はとうとう真夏日となり、湿度も九十%以上を記録している。

熱気が体を包み込み、息苦しいと感じる。

手でひさしを作るが、何の意味もない。

ピーポーピーポーと、救急車が側を通っていく。

本内は自然とそれを目で追う。
「また熱中症で誰か倒れたのかなぁ…」
早く喫茶タカマで涼もう、と本内は足を速める。


カランカラン、と喫茶店の鈴が鳴る。
「あ、いらっしゃい、本内くん」
高間がやってきた本内に挨拶する。

喫茶店の中に入った途端、クーラーの涼しい空気が本内を包み込んだ。

本内は自然と長く息を吐き出した。
「日曜日だっていうのに、またこんなところに来たのか?」
もっと行くところがあるだろうに、とすでにカウンター席に座っている玉緑が呆れたように言う。
「うるさいな。ここがいいんだからいいんだよ」
玉緑の言葉にぶすっとした表情をしながらも、本内も玉緑の隣のカウンター席に座る。
「ま、店長の僕としてはうれしいけどねぇ。貴重な人間の金づるだから」
「店長…」
本内は口元が引きつりながら高間を睨む。

本内の視線にも高間はどこ吹く風だった。
「あはは。冗談だよ、冗談」
「本当かよ」
「本当だって。それより本内くん、今日は何を注文するの?」
「なんか、アイスがほしい」
「またアバウトな。まあ、いいや。アイスだね」
ちょっと待っていて、と高間が奥へ行く。

先ほどのやりとりで気疲れし、本内はお冷やをのどに流し込む。
「本内。もうすぐ夏休みなんだろ? どこかに行ったりするのか?」
アイスコーヒーをストローで飲みながら玉緑が聞いてくる。

玉緑の言葉に本内は頬杖をついて考え込む。
「今のところ予定はないなー。気が向いたら海に行こうか、とは学校の友達と話したけど」
「気が向いたときだけなの? もっと行けばいいじゃない」
玉緑との会話に割って入って、高間がガラスの器に入った丸い形のバニラアイスを持ってきた。
「はい、どうぞ、本内くん」
「ありがとう、店長」
本内は一口口に含み、生き返るー、と思わず声に出していた。

本内がアイスをパクパクと食べていると、カランカラン、と扉の鈴が鳴った。

そちらに視線を向けた本内は、げ、と思わず声を出していた。
「あ、番(ばん)くん、いらっしゃい」
「なんだ、番も来たのか。珍しいね」
高間と玉緑がにこやかに話しかける。

番は耳が尖っていて全体的に色素が薄い人型の男性あやかし。

番も本内を認めると嫌そうに顔をしかめて、一番端っこのカウンター席に移動した。
「番くん、ご注文は?」
「玉緑と一緒で、アイスコーヒー」
「うん、わかった」
高間はアイスコーヒーを注ぎに奥へ行く。

本内は顔をしかめながらも番をちらちらと見る。
「……あの人が来たのなら、俺もう帰ろうかなぁ…」
本内がぼそりと呟くと、玉緑が苦笑する。
「まだ来たばかりじゃないか。高間も悲しむだろうよ。せっかくの金づるが逃げた、って」
「おい! まだそれ引っ張るか!」
「あはは! 冗談だよ」
「……これだから狐は…」
「それは高間のことかい?」
「玉緑のことだよ!」
あーもう、と本内はカウンターに突っ伏す。

玉緑がなだめるようにポンポンと本内の頭をたたく。

肉球がちょっと気持ちいいな、と本内は思った。
「おい、人間。うるさいぞ。静かにできないのか」
番の言葉に本内はカチンと頭に来、ガバッと上体を起こす。
「好きでうるさくしているんじゃない。だいたい、なんであんたがここに来るんだよ」
「俺が来てはいけない理由でもあるのか」
「そうじゃなくて、だってあんたがここに来る理由は、」
そこまで言って、本内ははた、と気づく。

そう、おかしいのだ。

今のこの喫茶店の中に、番がいることが。

本内はさあっと血の気が引く。
「本内くん? どうしたの?」
アイスコーヒーを番の前に置いて、高間が首をかしげる。
「いきなり固まってどうしたんだ?」
玉緑も本内を見て首をかしげる。

高間と玉緑を見て、本内は体を小刻みに震わせた。

足りないのだ。

なぜ今まで気づかなかった。

本内は次の瞬間に喫茶店の扉へと駆け出した。
「本内くん!?」
ガチャガチャとノブが音を立てる。

慌てているためノブがうまく回せない。
「本内、どうしたっていうんだ」
玉緑が気遣わしげに声をかける。
「おい、人間、うるさいぞ」
番がイライラした口調で吐き捨てる。

本内は怖くて振り返られない。

冷や汗が吹き出る。

ノブが手の汗で滑る。

ここから出られない。

この、夢の中から。

「助けて! 頭柳!!」


本内が空中に向かって叫ぶ。

その途端、パリーンッ、とガラスが割れるような音が響いた。
「本内!!」
扉の向こうから腕が伸び、体が引かれる。

途端、喫茶店の景色が鏡が割れるように瓦解する。

気がつくと、本内は頭柳に抱きしめられていた。

よくよく周りの景色を見てみると、喫茶店に向かう道の途中だった。
「頭柳…、俺…」
「夢魔の夢の中に取り込まれたんだ。本内が私の名を呼んでくれたから、連れ戻すことができた」
やっぱりそうだったんだ、と納得した途端、体が震えだし、本内は頭柳にしがみついた。
「いつものように喫茶店の中にいたんだ…。店長もいたし、玉緑もいた。珍しく番がいて…。でも、その中に、頭柳だけがいなかったんだ。そのことに気づいて、それで…」
「夢魔に取り込まれたと、わかったんだな?」
「そう」
本内には、夢と現の切れ目がわからなかった。

一体いつからが夢だったのか、今でもはっきりとはわからない。
「でも、なんで、頭柳がいなかったんだ? 頭柳もいれば、俺には絶対に、さっきの場所が夢の中だとはわからなかった」
「私は力のあるあやかしだ。それを夢でも出現させることは、なかなか難しいことなんだ。第一、今の私は本体ではなく一部分だから。本体の姿を知らない夢魔に、私の一部を形作ることはできない」
そういうものなのか、とうなずく。

頭柳と話すことによって本内の心もだんだんと落ち着いてきた。
「そもそも、この辺りは頭柳の縄張りだから、夢魔はなかなか現れないんじゃなかったっけ?」
玉緑が言っていた言葉を思い出して本内が聞くと、頭柳は顔をしかめて前方を睨みつけた。
「誰かが意図的に夢魔を連れてくれば、可能だ。そうだろ? 番」
最後の頭柳の言葉に、本内は勢いよく振り返る。

二人から少し離れた場所に、番が本内を睨みながら立っていた。
「番…? え? 夢の中にいただけじゃ…」
「夢の中に本物も潜ませる。そうすることでよりいっそう現実味を帯びた夢となる。夢魔の中では割と常套手段だ」
「番が、夢魔だったのか?」
「いや。番は夢魔じゃない。力のある夢魔と手を組んで、お前を消そうとしたんだろう」
淡々と告げる頭柳に本内はゾッと寒気を感じた。
「番。お前はまだ、本内の命を狙っていたのか」
頭柳に言われ、番は顔をしかめて背ける。
「そいつは、お前が封印されるきっかけを作った人間の子孫だ。生かす理由がない」
「それはお前が勝手に思っていることだろ。番。もしまたお前が本内の命を狙ったら、私の方こそ、お前を生かす理由がなくなる」
低く告げる頭柳に、番の顔が蒼白になる。
「あ、頭柳…」
震える声で本内が頭柳を呼ぶと、頭柳は彼に視線を向ける。
「番は、頭柳のことが好きだから、こんなことをしたんだろ? 好意を持っている頭柳にそんなこと言われたら、番でもショックを受けると思う。えーっと、だから、その…」
どう言えばいいのかわからなくなった本内は、視線をさまよわせた。

その様子に毒気を抜かれ、頭柳はゆっくりと息を吐き出す。
「番。とにかく、本内に危害を加えようとするな。そのことがないなら、私もお前を邪険に扱ったりしない」
番は目を丸くして頭柳をじっと見つめたが、しばらくしてうつむき、そのまま掻き消えるようにその場から去っていった。

そのことに、本内は思わずほっと息をついていた。
「悪かった、本内。やっかいなことに巻き込んでしまって」
「いや、いいよ。頭柳が助けてくれたから」
「そうか」
頭柳もほっと息をつく。
「気を取り直して、喫茶店に行こうか」
頭柳の提案に本内も素直にうなずく。

と、その時、本内はようやく未だに頭柳に抱きしめられているままだと気づいた。
「うわ! 頭柳ごめん! この状態のままだった!」
本内は慌てて頭柳から離れ、顔を真っ赤にしてあたふたする。

頭柳はきょとんとしたが、本内の様子に軽く吹き出した。
「頭柳! 笑うな!」
「ごめん、本内。じゃあ、行こうか」
本内は未だに憮然としていたが、頭柳から差し出された手を素直に握り、二人は喫茶タカマへと歩き出した。

この日は真夏日で湿度も九十%を超えているが、それでも、手を離す気にはならなかった。



夕暮れ迫る森の中。

木の上で一人、異形の少年が寝ころんでいる。

人のような姿だが、目元には木の面が取り付けられている。

目がのぞくための穴は開いていない。

少年は、ふわあ、と大きなあくびをする。

もう一眠りでもするのか、太い枝の上で寝返りを打っている。

そんな少年の元に、バタバタと大急ぎで駆ける足音が近づいてきた。

少年はその音にピクリと反応し、むくりと起き上がる。

少年はその音の出所を探すように辺りをきょろきょろする。

そうして、一人の人間の少女が鬼気迫る表情で森の中を駆け抜けているのを見つけた。

それを見た少年は、にぃ、と口元に楽しげな笑みを浮かべた。
「そんなに急いでどうしたんだ?」
木の上から少年が少女に声をかける。

少女はビクリと震えて立ち止まり、きょろきょろと辺りを見回す。

その様子は何かに怯えているようだった。
「そっちじゃないよ。こっち」
少年が己の所在を示すように、近くの葉をいくつか少女に向かって落とす。

それを目にした少女は、はっとして己の頭上を見上げ、見つけた少年の姿にぎょっと目を丸くして固まった。
「人間なんて初めて見たなぁ。なんでこんなところにいるんだ?」
少女は少年に話しかけられても、口をパクパクと開閉するだけで声が出ない。

その様子に少年は首をかしげる。
「お前、声が出ないのか?」
そんなことない、と言うように少女は首を横に振る。
「ふぅん。じゃあ、どうして何も言わないんだ?」
「………あまりの驚きに、声が出なかっただけ」
落ち着いたからもう声は出る、と少女は憮然として告げる。

ふぅん、と少年はまた呟いてじろじろと少女を見る。
「それにしても、感心しないなぁ。今は逢魔が時。そんな時分に女の子が一人でこんなところに来るなんて。滅多に会うことのないあやかしに会ってしまっているじゃないか。食われても、文句は言えないぞ」
その言葉に少女はビクリと震え、おそるおそる少年を見つめる。
「あ、あなた、人を食うあやかし、だったの…?」
「いいや。俺は鳥のあやかし。食べるのはもっぱら木の実だ。人なんて食べたことないし、食べたらきっと腹をこわす」
にやにや笑って少年が告げる。

その様子にからかわれたのだと認識したのか、少女がまなじりをつり上げて真っ赤になる。
「だましたな!」
「別に俺のことを言ったわけじゃないぜ? あんたが会ったのがたまたま鳥のあやかしの俺だったってだけ。世の中には人を食うあやかしもいるにはいるんだし、それに出会いたくなければ逢魔が時にうろつかない方がいいっていう、俺なりの親切だけど?」
「嘘をつけ! 顔が笑ってるじゃないか!」
「お、失敬」
少年が軽い口調で言うと、少女はさらに顔を赤くして少年を睨みつける。
「ところで、あんた、なんでそんなに急いでいたんだ?」
少年の言葉に少女ははっとして、途端におろおろとする。
「そうだった。こんなところで変なあやかしと話している場合じゃなかった」
「ひでぇ言い様」
「夜になる前に家に帰らないと閉め出される!」
早く行かなければ、と焦る少女に、少年は一つ考え、彼女の前に降り立つ。
「あんた、家、どこ?」
「ここから一番近い里の、北端だ」
いいから退け、と言いたげな少女に、少年はにっこりと笑う。
「あんたの足でそこまで行くには遅いんじゃない? もう夕暮れなんだから、夜なんてあっという間だぜ?」
少年の言葉に少女はぐっと黙り込む。

少年はさらに笑みを深める。
「俺が、送ってやろうか」
「は?」
「俺は鳥のあやかしだ。空だって飛べる。あんたがちんたら走るよりもずっと早い」
どうだ? と聞いてくる少年をじっと見つめ、空にも目をやった少女は、一つうなずいた。

それを見た少年は、善は急げとばかりに少女を抱きかかえ、タンと軽い音を立てて地面を蹴って空へ跳び上がる。

その瞬間、少女は悲鳴を上げて少年に抱きつく。
「人のいる前に出るわけにはいかないから、少し離れた場所に降りるからな」
少年がそう声をかけるが、少女は聞いているのかいないのか、ただぎゅうぎゅうと少年にしがみつくだけだった。


北端の家が見えてきた頃、少年は辺りを見回して降りるのに適している藪を見つけて、そこに降り立った。
「着いたぞ」
トン、と軽い音を立てて少年は少女を地面に降ろす。

少女は、おそるおそる目を開ける。
「あ、ありがとう…」
「どういたしまして」
少年は空を見上げる。

西の空に日の光が残っている。

まだ夜ではない。
「これで間に合うな」
少女は一つうなずく。

それを見た少年は、これで別れるのもちょっと惜しいなぁ、と思っていた。
「あんた、名前は?」
「…い、イカル」
少女はいぶかしげにしながらも答えた。
「イカル? 鳥の名前か。変な縁だなぁ」
少年の返答にちょっとムッとした少女は、ずいっと少年に顔を近づけた。
「そういうあなたは、何という名前なの」
「俺? ないぜ」
「ない?」
少年の返事が意外だったのか、少女は目を丸くしている。
「両親から息子って呼ばれるだけだし。もうすぐ弟か妹が生まれるらしいから、兄とも呼ばれるだろうけど」
そこまで言った少年は一つひらめいて、にやりと笑みを浮かべた。
「なあ。あんたが俺の名前を付けてよ」
「はあ?」
「あんたが名付ければ、あんたは俺のことを忘れないだろ?」
少女はどこか怪訝な表情をしていたが、一つうなずいて了承した。
「突然言われてもすぐには思い浮かんでこないけれど…」
うーん、とうなりながら少女は少年をじっと見つめる。
「あ」
「何か思い浮かんだか?」
「うん。風花(かざはな)。本当は雪のことを言うんだけど、あなたは風みたいに花みたいに空を舞うから」
「ふぅん…。風花、ねぇ…。それってひょっとして、女につける名前じゃない?」
「まあ、そうかもね。でも、あなたにぴったりだ」
「あんたがそう言うなら、うん、悪くない」
少年が満足そうに笑う。

少年の様子に、少女もどこかほっとしていた。
「じゃ、閉め出されないように帰りなよ、イカル」
「風花こそ、人に見つからないように帰りなよ」
二人はそう言い合って、それぞれの住処へと帰っていった。




イカルは風花の忠告通り、逢魔が時ではなく昼間に風花に会いに来るようになった。
「風花。どこ?」
「ここ」
風花はそう言って、ガサッと枝を揺らして、逆さにぶら下がって上半身を見せる。
「……ねぇ、風花。いつも思うんだけど、なんで毎回木の上から現れるの? なんだか見下されているみたいで、むかっ腹が立つんだけど」
「だって俺は鳥のあやかしだぜ? 木の上が大好きに決まっているじゃないか」
「そんなの知るか!」
「そう怒鳴るなよ、イカル」
よっ、というかけ声を上げて、風花は地面に降り立つ。
「あんな高いところから降りて、足はどうもないんだね」
「あやかしだからね。これぐらいでどうこうなるような体じゃないさ」
「へぇ」
イカルは感心したようにじろじろと風花を見る。
「そんなに見るなよ、照れるだろ」
「棒読みで言うことじゃないでしょ」
イカルは途端に呆れたような表情になる。

風花は楽しげに笑い声をこぼす。
「せっかく私が滅多になく感心していたのに、台無しじゃないの」
「あんたけっこう言葉ひどいよね」
「それはいいのよ。なんだってそう私を茶化すのよ」
イカルが腰に手を当てて風花を睨むと、風花は、うーん、とうなって、にぃ、と笑う。
「初っ端から怒鳴るイカルを見ているせいか、怒鳴ってないと変な感じになるんだよなぁ」
「どんな理由だっ、風花! あなたの私に対する印象はそんなものなのか!」
「そうそう、そうやって怒鳴ってる感じ。なんか、怒鳴ってこそのイカルって思っちゃうんだよなぁ」
「怒鳴らせているのは風花でしょ!」
「そりゃそうだろ。俺とイカルしかいないんだから」
しれっとそんなことを言う風花に、イカルはふるふると体を震わせる。
「ん? 泣く?」
「誰が泣くか! 怒ってるんだ!」
ガッと顔を上げてイカルは叫ぶ。
「ははっ。怒るのはいいことだ。元気な証拠」
楽しそうに笑う風花に、イカルは思わずがっくりとうなだれている。
「風花としゃべると疲れる…」
「俺は楽しいぞ」
「あなたはそうだろうねっ。私をからかってるんだから!」
「そりゃあ、だって、こんなに誰かと会話が続くことって、なかったからな」
風花の言葉に、イカルははたと瞬く。
「……父親と母親とは、会話が続かないの?」
「やっぱり世代が違うからかなぁ。出てくる話題が俺の知らないことばかりだから、ついていけないんだ。大昔に活躍した大妖怪のことなんか言われても、俺にはピンと来ないし。俺と世代の近いあやかしも、この辺りでは見かけないから、こうやって誰かとまともな会話をするの、珍しいんだよな」
「……寂しくないの?」
風花がそんな生活だったとは知らなかったためか、どこかおそるおそるにイカルは聞く。
「そうでもなかったさ。動物たちとはよく遊んでいるから。会話が久々ってだけ」
あっけらかんと告げる風花に、イカルはほっと息を吐く。

それを見た風花は、にぃ、と悪戯そうな笑みを浮かべる。
「イカル、俺の心配してくれた?」
その瞬間、カッとイカルは頬を赤らめる。
「ちっ、違う!」
「なんだ、残念」
風花があっさりと引き下がると、イカルはうっと言葉に詰まって、視線を泳がせる。

その様子に、風花はまた、にぃ、と笑う。
「イカル?」
顔をのぞき込むように聞いてくる風花に、イカルはますます顔を赤らめてうつむく。
「……し」
「し?」
「心配したよ! 悪いか!」
一気に顔を上げて吠えると、風花は一瞬きょとんとした後、大声で笑った。
「そんなに笑うなっ、風花!」
「えー。笑うってこれは。何だよ、その反応。あっはっはっはっ」
「笑うなー!」
「笑わせてくれよ、イカル。めちゃくちゃうれしいんだから」
風花が笑い声に混じってそう言うと、イカルは口をあんぐりと開けて、呆けてしまった。
「な…、何、言って…」
「俺、誰かに心配してもらうの、初めて。しかもそれがイカルだなんて、うれしいに決まってるじゃないか」
なおも笑い続ける風花に、ついにはイカルも笑い声を上げていた。
「恥ずかしい人だなぁ、風花」
「失礼だな、イカル」
森の中に、気持ちいいぐらいに二人の笑い声が響く。

二人はそれだけで、満足だった。




何度かイカルが風花の元に通っていると、風花が横笛を吹いて出迎えた。
「笛が吹けたの? 風花」
不思議そうに言うイカルに、風花は苦笑する。
「せっかくイカルとは会話を楽しんでいるのに、口が塞がれる笛を吹くことはないかな、と思ってね」
「風花もそんなこと考えるんだねぇ」
イカルの言葉に風花は憮然とした表情を浮かべる。
「それは、なんだ。俺が無粋なやつだと思っていたって?」
「まあ、近いかな」
「失礼だなぁ、イカル」
「私はさんざん風花から失礼なことを言われたけどね」
ふんっ、とイカルがそっぽを向くと、それもそうか、と風花は納得する。
「ね、もう一度吹いてみてよ。聞きたい」
「えー」
「何よ。ここはうなずくところでしょ。やっぱり無粋だね、風花」
「そんなに言うなら吹くよ」
イカルの挑発を受けて、風花は笛を構え、曲を奏で出す。


高く低く、伸びやかに軽やかに、笛の音が辺りを包み込む。

まるで巨大な腕に抱きしめられているように、緩やかな安心感がわき起こる。

イカルは目を閉じて聞き入る。

強く弱く、まるで子守唄のように、ゆりかごの中にいるように、安らかなまどろみへと誘っている心地がする。

このまま寝てしまうのも悪くない、むしろこのまま柔らかな眠りに入りたい、とイカルは望んでいた。
「はい、ここまで」
もう少しで完全に寝る、というときに、笛の音がやみ、風花がそう声をかけた。

イカルははっとして風花を見る。

風花は苦笑を浮かべていた。
「こんなことになるだろうなぁ、って思ったから、あんまり笛を吹きたくはなかったんだよ。イカル、俺を放っておいて寝ようとしただろ」
風花の指摘に、イカルは、うっと言葉に詰まる。
「俺の選曲も問題なのは問題だけど、俺の笛はだいたいが、こうやって眠りに誘う音だから」
「……私の問題ではないじゃない」
イカルがばつの悪そうに言うと、まあね、と風花は肯定する。
「俺の種族のあやかしはさ、あんまり力が強くないから、こうやって曲を奏でて、相手が眠っている間に退散する、っていうのが回避方法なんだよ。特に笛はより強く眠りに誘う。鳥の元々の音に似ているからっていう理由らしい」
「へぇ、そうなんだ。あやかしだからと言って、すべてが戦闘に特化しているわけじゃないんだ」
イカルが感心したように呟く。
「そういうこと。戦闘力が高いのは、やっぱり捕食系のあやかしだから。俺は鳥のあやかしの中でも、木の実を主食とするから、とにかく弱い」
「自分で断言するんだ」
「断言するさ。弱いからこそ、こうやってイカルと自然に接することができるんだし」
さらりと告げられた言葉に、イカルは瞬時に顔を赤くした。
「イカルと一緒にいられるためなら、弱くていい」
「風花…。恥ずかしいやつ…」
イカルは首元まで真っ赤にしてうつむいた。

彼女の様子に、風花はうれしそうに笑みを浮かべている。




もうすぐ生まれる、と言われていた風花のきょうだいが生まれた。

生まれてきたのは女の子で、風花の妹である。

妹には四角い布の面がついている。

風花は、生まれたら見せてくれ、とイカルに言われていたので、彼女に教えようと、彼女が来るのをいつもの場所で待っていた。

だが、いつもの時間になってもイカルが来ない。

何か用事でもできたのだろうか、と首をかしげながらも風花は待ち続けた。


そうして、とうとう逢魔が時になってしまった。

さすがにこれはおかしいと感じ、風花は胸騒ぎがしてイカルの住む里へと飛び立った。
「これは…」
風花が里へ降り立つと、そこはもぬけの殻だった。

人っ子一人いない。

昨日まで、イカルは普段通りで、こんな事態になるなど風花には予測できなかった。
「いったい、何が…」
風花が冷や汗を流して呆然と呟いていると、背後の茂みがガサガサと音を立てだした。

風花は一気に警戒を強くして、茂みから飛び退く。

じっと茂みを見つめていると、ズルズルと音を立てて巨大な蛇のあやかしが出てきた。

風花はぞっと寒気を感じ、大蛇から攻撃されないように空中に飛ぶ。


大蛇は鎌首をもたげて、ゆるりと風花を見つめる。
「ほう…。お前かい」
大蛇がしたり顔で告げる。

その様子に風花は顔をしかめる。
「俺が、なんだ」
「この里のものたちが言っていた、あやかしだよ」
その言葉に、風花は驚愕に表情を固まらせる。

大蛇はひゅるひゅると笑い声を上げて風花に告げる。
「『空を飛び回る人型のあやかしを見た。ここは危険だ。あやかしのなわばりなんだ。さっさと別の場所へ移動しよう』。里のものたちがそう言っていた。私の狩り場の近くだったからね、聞こえてきたんだ。ひゅるひゅるひゅる。こんなに弱いあやかしのくせに、何を怖がられることがあるのだろう」
ひゅるひゅるひゅる、と大蛇は声高に笑い声を上げる。

その様子に、風花は、ぐっと歯をかみしめる。
「ああ、そうだ。なにやら人間の一匹がそこの峠から一寸も動こうとしなかったのでね、興味を引かれてちょいとばかり力を使ったよ」
「なっ」
風花の顔が一気に気色ばみ、大蛇に向かって飛び込む。
「力って、一体何をしたんだ!」
「ひゅるひゅるひゅる。人間が気になるのか。なぁに、死んではいないさ。いや、死んだかな?」
「何をした!」
大蛇は風花の反応を楽しむように目を細める。
「岩に変えたのさ。なぁに、ちょいと解呪の呪文を唱えてやれば、すぐにでも元に戻るさ。ただし、それは、私の知るところではないがね」
ひゅるひゅるひゅる、と大蛇は大声で笑う。

風花は怒りで総毛立つ。
「貴、様っ…」
大蛇はついと風花に視線を向け、舌なめずりをする。
「さて。さっきの人間は不味そうだったから食わなかったが、今度の獲物はなかなかに美味そうだ。どれ、味見といくか」
目にも止まらぬ速さで大蛇が風花に噛み付く。

だが、ガチン、と音がしただけで、大蛇は何もくわえていない。
「何!?」
大蛇が頭上を見上げると、大蛇よりも遙か高い場所に風花が飛んでいた。

風花は、大蛇の速さを上回っていた。
「お前は、許さない。永遠に目覚めることのない深い眠りに入れ」
風花は低く告げ、横笛を構える。

どう作用するのか、その音は、大蛇にのみ聞こえていた。

曲が奏でられてすぐに大蛇のまぶたは降り、ドオォォッ、と音を立てて大蛇は地面に倒れた。

次第に寝息が聞こえてきて、それすらも聞こえなくなった。

大蛇は何が触れても何が起こっても、決して目を覚ますことはなかった。




大蛇が言っていた峠へとたどり着いた風花は、それを目にした瞬間、ガクッと膝をついた。
「イカル…」
祈るような姿勢で、イカルが岩になっていた。

風花は震える手で岩に触れる。

ゴツゴツとした表面ながら、イカルの凹凸がしっかりと浮き上がっている。
「イカル…。すまない…。俺が、俺のせいで…」
風花はイカルを抱きしめ、強く歯を食いしばった。
「すまない、イカル…。すまない…」
ポツ、ポツ、とイカルの頭上に滴が降る。

風花は、それを止めることはできなかった。




古木の巨大なうろの前に立って、風花はじっとたたずんでいる。
「兄者。そろそろ食事の時間じゃ。こっちへおいで」
ひょっこりと顔を出した妹が告げる。

妹の言葉に風花は呆れたような表情をする。
「『おいで』ってお前なぁ、俺は兄なんだぞ。なんだその幼子に言うような言葉は」
「何じゃ、文句など言いおって。兄者の分の食事などやらぬ」
妹はつんと顔を背けて、さっさとその場から立ち去った。

彼女と入れ替わるように弟がやってくる。
「兄上。姉上を怒らせたのか?」
「まあ、どうせ本気じゃねえだろ」
「そうだろうか。ああなると姉上は頑固だ。本当に兄上の食事を隠すかもしれない」
弟の言葉に風花はぞっとする。
「わかった。すぐ行く」
「ああ」
風花の返事を聞いて弟もそこを立ち去る。

風花はため息をついて巨木のうろに向き直る。
「イカル。最近、妹が俺に厳しいんだ。どうしたものかな」
風花が話しかけるそこには、岩にされたイカルがいた。
「…イカル。お前を必ず元の姿に戻す。俺は、絶対にあきらめない。元に戻ったら、また俺と、語らってくれ」
風花は、にぃ、と笑うと、妹と弟が待つ場所へと歩いていった。

イカルのいる場所に、優しい光が降り注いでいる。


木々の間を飛び跳ねる。

どこに行きたいわけでもない。

ただ、住処の場所から、少しでも離れたかった。
「何さ、兄者め。生まれたばかりの弟で遊んで何が悪い。あれほどまで怒らずともよいではないか」
怒りで腹の中がゴロゴロし、ついでに空腹でもゴロゴロしだした。

兄者のことで頭に来たせいで、せっかくの木の実を食べ忘れていた。
「ここらで食べられる木の実はないかのう」
来たことのない森の中だった。

辺りをきょろきょろと見て回ると、地面の上にこんもりと木の実が置かれていた。

空腹で思考能力が落ちていた私は、その状態に感激し、警戒も何もなくそこへ突っ込んだ。
「ふぎゃ!」
あと少しで木の実に届きそうというところで、何かに足を引っ張られ、宙づりにされてしまった。
「なっ、何じゃ!」
何とか足を縛り付ける縄をほどこうとするが、その位置まで私の手が届かなかった。
「おや。これはこれは」
そこへ、誰かの声が聞こえてきた。

私はビクリと震え、おそるおそる声のした方を向いた。
「ずいぶんと大きな獲物がかかったものだねぇ」
そこに現れたのは人間の男で、ずいぶんと上等な着物を着ていた。

その男はまじまじと私を見て、ふむ、とあごに手を添えた。
「逢魔が時とは言うが、実際にあやかしを見たのは初めてだよ。ずいぶんと変わったなりをしているのだねぇ。人のような姿なのに、逆さになっても目元の布面はめくれもしないのか」
ふむふむ、とうなずきながら、じろじろと私を観察する。
「は、早くおろせ!」
「おや、これはすまないね」
どこかとぼけた調子で男は言い、腰にある刀を抜いて縄を斬った。

当然、私は華麗に着地することなどできず、べしゃっと地面にたたきつけられた。
「ぐぬぬぬ…。頭も腰も痛い…」
頭と腰をさすり、私はうずくまる。

そのときに男は私に近寄り、しゃがみ込んで私をのぞき込んだ。
「その琵琶は君のものかい?」
そう聞かれ、私ははっとして背中に背負っていた琵琶を腕に抱えた。

先ほど背中から落ちたので琵琶に傷が入っているかもしれない。
「……よかった。何ともない」
あちこち触れて、ビーンビーン、と弦を鳴らしてみるが大丈夫だった。

私は思わずほっと息を漏らした。
「ふぅん。あやかしでも琵琶を持つのだねぇ」
いやはや、と言って、男は何か感心している。

私は思わずいぶかしげに男を見上げた。

私が見ていることに気づいた男は、にっこり笑って、ガシッと私の腕を掴んだ。
「君は私が捕まえた獲物だ。これから私のところへ来てもらうよ」
「はあ!?」
男は私の驚愕などものともせずに、私の腕を引っ張って、家来達がいる場所へと連れて行き、馬に乗ってどこかへ走り始めてしまった。




「ここはどこじゃ! 私をどうするつもりなんじゃ!」
あれよあれよと連れてこられたのは大きな屋敷。

男はむんずと私を肩に担ぐと、迷うことなく廊下を進む。

出会う人間出会う人間、男を『殿』と呼び、私を見て絶句する。

ようやくどこかの部屋に到着すると、男はどさっと私を床に降ろし、私が状況把握にきょろきょろしている間に女の人達を呼び(あとで聞いたが、彼女たちは女房さんと言うらしい)、私になにやら人間の着物を着るように命じていた。
「では、私は屋敷のもの達に君のことを説明してくるので、その間に着飾っておいておくれ」
男はそれだけを言うとさっさと部屋を出て行き、私は呆然としている間にされるがままに着物を着替えていた。


着物は人間のお姫様のように上等なものだった。

着替えられてなおも呆然としていると、男が戻ってきた。
「おや。これはこれは」
初めて出会ったときと同じ言葉を言い、男はまじまじと私を見る。

男の様子に私が首をかしげていると、男は女の人たちを部屋から出て行かせ、私の前に腰を下ろした。
「名乗り忘れていたね。私は菅野(かんの)雅興(まさおき)という。この屋敷の主だよ」
男はにっこり笑って告げる。
「なぜ、私をここへ連れてきたのじゃ。しかも、このようなものに着替えさせるとは」
「お気に召さなかったかい?」
「お主の意図がわからぬ」
じっと男を見つめていると、ふむ、と男は笑みをこぼし、口を開く。
「本当は、獣を捕まえるつもりだったのだがねぇ。期待に反して君が罠にかかってしまった」
「……私は獣の代わりだとでも言うのか?」
私が声を低くして聞くと、いやいや、と男は朗らかに笑って否定する。
「一目見て君を気に入ってしまってね。このまま帰してしまってはいつまた会えるとも限らないので、ついさらってしまったのだよ」
男の言葉に私は絶句する。

『つい』で『あやかし』をさらうのか!
「お主の気まぐれにつき合ってられるか! 私は帰る!」
私が立ち上がろうとした寸前、男に肩を押さえられ叶わなかった。

私がもがいている間に、ジャラッ、と音を立てて首に何かかけられた。

はっとして見ると数珠の首飾りがぶら下がっていた。
「何じゃっ、これは!」
「この敷地内から出られないようにするまじないが施してある数珠だよ。かけた本人にしかはずすことはできない」
男の言葉に私はまた絶句する。

それなのに男はにっこりと笑っている。
「君は、私のものだ」
男の言葉に、じわりと涙がにじんでくる。

目元の面に遮られて男にはわからないだろう。

だが、たまらず涙が頬を流れて、男に知られてしまった。

私の涙を見た男は、おや、と目を丸くして、苦笑を浮かべている。
「そんなに嫌だったかい?」
「嫌に決まっておる。私にだって家族がいるのじゃ。お主のものになってしまっては、家族にもう二度と会えぬではないか」
兄者とけんかなどしなければよかった。

弟をちゃんとかわいがればよかった。

あれが今生の別れになってしまうなど、絶対に嫌だ。


私が両手で顔を覆ってさめざめと泣いていると、男が私の頭をなでてきた。
「強引に進めてしまって悪かったね。大丈夫。これが今生の別れではないよ。君は必ず家族の元へ帰す。だが、今しばらくは、私と共にいてくれ。これは、私の生涯で唯一のわがままなのだよ」
男の言葉があまりにもしんみりしていて、私は思わず涙が止まって、手を離して男を見上げていた。

男は苦笑したまま私の頭をなでている。
「期間限定ではあるが、私のものになってくれ」
真摯に見つめてくる男の言葉に、私は思わずうなずいていた。

私の様子に、男はほっと息を吐いていた。
「君の名前は、何と言うんだい?」
私も男も落ち着いた頃、男が思い出したように私に聞いた。

男の問いかけに私は首を横に振る。
「私に名はない。父と母からは娘と呼ばれ、兄者からは妹と呼ばれるだけだ」
男は一瞬驚いたような表情をしたが、次の瞬間にはにっこりと笑っていた。
「ならば私が名を付けよう」
何がいいかな、と男はきょろきょろして、ひたと私の傍らにある琵琶に視線を止めた。
「……瑪瑙(めのう)、でどうかな?」
どうかなと聞かれても、私には善し悪しの判断は付かなかった。
「お主がそれでいいならそれで」
「よし。君は今日から瑪瑙だ。私の瑪瑙」
どういう意味なのかはわからなかったが、男がとてもうれしそうだったので、深く追求することはしなかった。




雅興は、私が屋敷の中をうろつくことを咎めることはせず、むしろ率先して屋敷の中を連れ回すほどだった。

特に、庭を見せることを雅興は好んだ。
「どうだい、うちの庭は。我が家で唯一自慢できるものなのだよ」
前庭、奥庭、中庭、裏庭、そこを通るたびに足を止めて、雅興はにこにこして庭の趣の説明をする。

石の配置がどうの、木々の植え方がどうの、池の水がどうの、よくもそこまで口が回るものだと感心するほどに、雅興は生き生きとしゃべる。
「私はあやかし故、人の感性はいまいちよくわからぬ」
思い切ってそう言うと、雅興は一瞬落胆したような表情をするが、すぐににっこり笑って、そうだろうね、と言った。

その様子に、私の方もなぜか落胆を覚えてしまった。

何か起死回生のことはできないだろうかと考えたが、私は己の本能に従ってみることにした。
「雅興」
「なんだい? 瑪瑙」
「一番大きいあの木に、登ってもよいか?」
そう聞くと雅興は目を丸くし、まじまじと私を見る。
「……女性が木登りをするのかい?」
「……お主に言っていなかったかもしれぬが、私は女性である前に鳥のあやかしじゃ。木に登りたいと思うのは、鳥としては当然のことであろう」
「鳥だったのかい?」
雅興は意外そうに私を眺める。
「見てくれは人と変わらぬが、私は空を飛び、木の実を主食とし、楽を愛する、鳥のあやかしじゃ」
「楽を愛する…。それで、琵琶を持っていたのかい?」
「そうじゃ」
私がうなずくと、やっと謎が解けた、と言わんばかりに雅興は満足そうな表情をしている。
「それで雅興、木に登ってもよいか?」
「そういうことなら、仕方ないねぇ。ああ、でも、着物は身軽にしておくれ。着物が引っかかって落下してはことだからね」
「わかっておる」
雅興の許可をもらい、私はその場で大量の着物をばさっと脱ぎ捨て、木へ一っ飛びに飛び乗った。

トントン、と枝を渡り、天辺へ座る。

そこからは人々の家々が大量に軒を連ねているのが見え、初めて見る眺めに、おお、と感嘆の声を上げていた。
「瑪瑙!」
雅興の慌てたような声が聞こえ、何じゃ、と振り返ると、雅興は真っ赤な顔をして、私の着物を抱えて右往左往していた。

出会ったときから余裕の表情ばかりを見せていた雅興の、初めて見る挙動不審な様子に、私は思わず勝ち誇るような笑みを浮かべていた。
「何じゃ、雅興。おなごが着物を脱ぐ様子を初めて見たのか?」
「……恥じらいも見せずに豪快に脱ぐ様を見るのは、確かに初めてだね」
雅興はどこかあきらめたようにため息をついている。

私はその様子に満足して、改めて雅興の屋敷の敷地を眺める。

建物の中にいるときにはあまり関心はなかった。

だが、普段の私の視線から眺めると、悪くないように見える。
「雅興」
「今度は何だい? 瑪瑙」
「お主が自慢した庭、なかなかよい景色じゃのう」
私がそう言うと、雅興は一瞬虚をつかれたような表情をし、次の瞬間、うれしそうに笑みほころんでいた。
「君にそう言ってもらえて、うれしいよ」
その表情は、どこか、生まれたばかりの弟のように無垢なもので、悪くない、と思っていた。




縁側に座って、木の実を食べながら庭を眺めているときに、思いついた、とばかりに雅興が提案してきた。
「瑪瑙。琵琶を奏でてみてくれないかい? 歌も歌えるのなら、歌ってほしいねぇ」
にこにこ笑って雅興は私を見る。

私はきょとんとしたが、なにせ楽を愛する鳥のあやかし、拒む理由はなかった。

傍らの琵琶を引き寄せて膝に乗せ、ビーンビーン、と音を確かめる。
「歌ってもよいが、あやかしの言葉故、お主には意味は通じぬと思うぞ」
「それでもかまわないよ。音として楽しむからね」
雅興がそう言うならば、と私は琵琶を爪弾き、歌い出す。

母に習った歌。

たしか、求愛に答えるときの歌と言っていた。

雅興にはどうせ意味が通じぬのだからと、この歌を選択した。

だがなにやら、恥ずかしくなってくるのう。

この歌はおいそれとは歌えぬ歌故、一人きりの時に練習として歌うことがあるだけ。

母以外のものの前で歌うのは、これが初めてだった。


ビーン、と最後の音を弾き終わると、いつしか目を閉じて聞いていた雅興が、ゆっくりと目を開ける。
「とても、よい歌だったよ」
そうして私の顔を見た雅興は、くすり、と艶やかな笑みを浮かべ、私の頬に手を伸ばす。
「頬が赤くなっているようだが、それほどに情熱的な歌を歌ったのかい?」
はっとして、雅興の手から逃れるように顔を背ける。

それでも雅興は近づき、私の耳にささやきかける。
「もしや、恋の歌、とか?」
かあっ、と顔が燃えるようだった。

意味は通じぬと歌ったのに、こんなことで露見してしまうとは不覚だった。
「かわいいねぇ、瑪瑙」
くすくすと耳元で笑うので、くすぐったい。
「雅興、離れろ」
「おや、どうしてだい? 瑪瑙は私のものなのだから、私が主導権を握るのは当然のことだと思うのだが?」
その言葉に、ぐぬぬぬ、と思わずうなっていた。
「美しい歌と楽を聞かせてくれたお礼だ。これを瑪瑙にあげよう」
私がうなっている様子に満足でもしたのか、雅興は私から離れて、二本の巻物を差しだしてきた。
「これは何じゃ?」
私も気を取り直して巻物のことを聞く。
「『鳥獣戯画』と『百鬼夜行図』だよ。本物ではなく写本だけれどね」
雅興に促されて、ぱらりと紐解く。

なにやら動物たちやあやかしたちの陽気な様子が描かれており、側に書かれた文字は読めなかったが、絵だけで充分楽しめた。
「見たことのないものたちもおるのう」
「気に入ったかい?」
「ああ、気に入った」
私は顔を上げて、雅興に笑みを向ける。
「ありがとう、雅興」
私の様子に一瞬目を丸くした雅興は、ゆっくりと穏やかな笑みを浮かべた。
「君にそう言ってもらえて、何よりだよ」
いつにない雅興の笑みに、私は思わず顔が熱くなっていた。




絆されてるなぁ、と思う。
「瑪瑙。またあの曲を聴かせておくれ」
雅興に期待するような目でそう言われれば、否やを言うことができない。

私自身も、嫌がっていないのが、なにやら問題な気がしてくる。
「やはり鳥のあやかしだけあって、とても透明な澄んだ声色をしているね。聞いていて、とても心地よい。瑪瑙が弾く琵琶も、瑪瑙が歌う歌も、私には至上の音色に聞こえるよ」
そこまで褒めそやされれば、絆されてしまう。

側にいることを、触れることを、許してしまう。

雅興が側にいることを、雅興に触れられることを、うれしいと感じてしまう。

ああ、嫌だねぇ。

私はあれほど、家族のいる住処に帰りたいと思っていたのに。

雅興が笑ってくれるのなら、このままでもいいのではないかと、思ってしまうではないか。
「瑪瑙。私の瑪瑙。私の至上の宝」
そう言ってくれるのなら、このまま、雅興のものであろうかと、思ってしまうではないか。




コンコン、とかすかな咳の音が聞こえる。

それは夜中になるとよく聞こえる。

静かな屋敷の中で、その音だけが妙に気になる。

気になっても、音の正体を探ることは、できなかった。
「やはり、あのあやかしのせいではないかしら」
水をもらってこようと廊下を歩いていると、密やかなそんな言葉が聞こえてきた。

私は思わずピクリと立ち止まり、耳をそばだてる。
「でも、あのあやかしが来てから、殿のご機嫌はすこぶる良くなりましたよ」
「それはそうですけど、でもやっぱり…」
「あなたは、殿がそんなことも予期できないほど、浅薄なお方だとお思いですか?」
「い、いえっ。そのようなことは…」
「……殿のあの状態は、今に始まったことではありません。まして、あやかしが来る前からの状態です。今の殿からあのあやかしを奪ってみなさい。殿が夜叉の如くお怒りになるのは目に見えています」
「でも、でも…」
「原因など、もはや誰にもわからないのですから」
静かになった女房さんたちから離れ、私は水をもらってくることをあきらめた。




そうして日々を過ごしていると、雅興は昼間もコンコンと咳をするようになり、ついには床に伏すようになった。
「……生涯で唯一のわがままというのは、こういうことだったのか」
雅興の枕元に座って看病をする。

私はあやかし故、人の病が移ることはない。

そのため、雅興の世話は私に任された。
「……この家は、祖父が大成したものでね、私はただ、それを維持することだけを生きる目的としていた。それに不満はなかったが、満足もしていなかった。病の身だとわかったとき、何か、自分のためだけに何かをしたいと思った。先の短い身だと思うと、大胆なことも難なくできてしまう。たとえば、罠に引っかかったあやかしを連れ帰って住まわせたり、ね」
ふっ、ふっ、と吐き出すように息をしている。

きっと、しゃべることもつらいのだろう。

それでも、雅興は話すことをやめない。
「君と過ごした日々は、何よりも楽しくて、ずっとこのような日々が続けばいいと思った。君はとても可愛らしい女性で、いっそのこと妻にしてしまおうかと思った。でも、そこまで君を縛るわけにいかなかった。君は鳥だ。どこまででも飛んでいく。ここは一時の借宿。君はいずれここから飛び立つ。それを、止めることを私にはできない。どこまでも飛んでいく君を、見てみたいと思ってしまった」
雅興はゆっくりと私に手を伸ばす。
「瑪瑙。私の瑪瑙。私の至上の宝」
震える手で、私の頬に触れる。
「あの歌を、歌っておくれ」
私は一つうなずき、膝に琵琶を抱える。

ビーン、と音を確かめてから琵琶を爪弾き、歌い出す。

高く低く、柔らかく固く、音を雅興に届ける。

意味など通じないだろうが、私の思いを、歌に、弦に、乗せる。

これは私の雅興への想い。

私を宝だと言ってくれた雅興への心。

それを、雅興がどこへ行こうとも届けよう。
「ああ…、なんと、美しい音色か…」
雅興は目を閉じて恍惚と呟く。

お主が言ってくれたのだ、これを至上の音色だと。

私は今でも、その音をお主に聞かせているだろうか。


ビーン、と最後の音を弾き終わる。

途端、パリーンッ、と音がして、首にかけられていた数珠が弾ける。

視線を下げると、雅興の手が私の膝に置いてある。

ぽた、ぽた、と雅興の手に滴が降る。
「雅興…」
涙が止まらない。

涙がのどに引っかかってひどい声だ。

今の私にはもう、至上の音色を聞かせることはできないよ。
「妹」
はっとして振り返ると、塀の上に乗って兄者がそこにいた。
「兄…者…」
「ようやく、お前の気配を見つけることができた」
兄者は私から顔をそらして雅興を見る。
「その人間が、お前を隠していたのか」
ビクッと私は体が震える。
「妹。帰るぞ」
「嫌じゃ! 私はここにいる!」
木の面に隠れて兄者の目は見えないが、それでも兄者が顔をしかめていることはわかった。
「お前がそのままそこにいれば、お前がその人間を死に至らしめたと思われる」
「それでもかまわぬ! 私はこの人間と一緒にいたいのじゃ!」
「妹」
兄者が厳しい声で私を呼ぶ。
「その人間が愛情を傾けたお前を、人間に追われるような存在にするな」
兄者の言葉に、私はぐしゃりと顔をゆがめる。

兄者から顔をそらし、雅興に向き直る。
「雅興…」
震える手で、まだぬくもりのある雅興の手を握りしめる。
「私は生涯、あの歌はお主にしか歌わぬ。私は、お主のもの。お主だけの宝じゃ」
雅興の手をそっと離し、兄者と共に飛び立った。




住処に戻った私は、ぼうっと木の枝に座っていた。

木の根本では弟が動物たちと遊んでいる声が聞こえるが、どこか遠くの出来事のようだった。
「人間というのは、儚いものだねぇ。のう、兄者」
私が呼びかけると、兄者が私の隣に飛び乗る。
「人間と関わるのは、しばらくよしたいねぇ。私には、あの別れは刺激が強すぎた」
「そうか」
ポンポン、と兄者が私の頭をなでる。

雅興の手じゃない。

そう思うだけで、私は、涙が止まらなかった。


タタタッ、と軽やかな音を立てて少女が森の側の小道を走る。

豊かな黒髪が風になびき、彼女の幼い顔立ちに相反して艶やかな雰囲気を醸し出す。

少女はお使いの帰りだったが、少々立ち話をしすぎ、時刻は逢魔が時になろうとしていた。

焦っている彼女は注意力が散漫になり、森から飛び出してきたものとぶつかってしまった。
「きゃあ!」
彼女はぶつかった拍子に尻餅をつき、顔をゆがめて尻をこする。
「すまない。こちらも急いでいたのだ。怪我はしていないだろうか」
まだ若い、少年と言ってもいいような声音の男性が、少女に手を差し伸べる。
「はあ、ありがとうございます…」
少女は素直に差し出された手を掴むが、その手が思いの外ひやりとしていて、ぎょっとして思わず顔を上げた。

夕日に照らされたその顔には、目元を幾重にも覆う細い革紐があり、彼の表情を隠していた。

少女はそれを目にして固まったが、手を離すのを忘れていたため、少年がぐいっと彼女を引き上げて立たせた。
「怪我はないだろうか」
「は…、はあ…」
少女は目の前の少年のことを呆然と見つめて、上の空の返事をしていた。
「早くここを通り過ぎた方がいい。もうだいぶ日が沈んできた。家に帰れなくなる」
その言葉にはっとして、少女は少年に一礼すると、そのまま駆け出した。
(彼は、なんだったのだろう…。人のような姿だったのに、人ではないのだろうか。目の上に革紐を巻いていては見えないはずに、見えていたようだし。それに、あまりにも手が冷たかった)
少女は混乱する頭の中を持て余しながらも、夜になる前にと家路を駆けた。




少年は駆けていく少女をじっと見つめていた。

その姿が見えなくなった後、ふっと顔を伏せて、少女の手に触れた方の手を見た。
(人に、触れた。初めてだ。動物たちのように、ぬくもりがあった)
彼がその状態のままじっとしていると、ベシッと彼の頭がはたかれた。

少年は振り返って叩かれた頭に手を添える。
「こんな道の真ん中で何をしているんだ、弟」
「兄上」
兄上と呼ばれた男性は、長身でがっしりとした体格をし、目元には木でできたお面がつけられていた。
「妹が待っている。さっさと行くぞ」
兄は弟の腕を掴み、空へと跳躍する。
「兄上」
「なんだ?」
「人に、会ったんだ」
「はあ!?」
兄は驚愕の表情を浮かべ、弟を振り返る。

弟は感情が読めないような表情で兄をじっと見ている。
「見た目は俺と変わらない年頃の少女だった。俺の顔を見て、異形だと気づいたようだが、混乱していた。彼女の手に触れて、温かかった」
「触れたぁ!? お、前は、何してんだ!」
兄が弟を怒鳴るが、弟に堪えた様子はない。
「すまない、兄上。俺にぶつかって地面に倒れてしまったのだ。手を貸さずに通り過ぎることができなかった」
弟の言葉に兄は盛大にため息をつく。
「お前はそういう性分だよ。だがなぁ、人間は動物たちとは少々違うんだぞ? 異形に対しての警戒心が異様に強いんだ。お前自身も、人間には警戒心を持て」
「……善処する」
「お前なぁ…」
兄は弟の返事に呆れながらも、自分たちの住処である森へと降り立った。




「甘菜(あまな)。お使いに行ってきておくれ」
甘菜は母から受け取った風呂敷を持って道へ出て、思わずため息をついていた。

異形の少年とぶつかったことは、彼女の記憶にはまだ新しい。


あれから何度か少年とぶつかった場所を通ったが、少年と再会することはなかった。

それでも、甘菜は気になって仕方がなかった。
(あの人は、…いや、人じゃないけど…、何を急いでいたんだろう)
甘菜は、異形の少年のことが頭から離れなかった。

そうして、少年と出会ったのとは違う森の側を通ったとき、ガサガサガサッ、と音を立てて何かが降ってきた。
「きゃあ!」
甘菜は驚いて体が硬直した。

おそるおそる落ちてきたものを見ると、彼女は目を見開いていた。
「やはり、先日のあなただったか」
先ほど思い出していた異形の少年がそこにいた。
「あ、あ、あの、あなた…」
「俺はこの森に住んでいるのだ。木の実を取っているときにあなたの姿を見つけて、思わず降りてきていた。すまない、驚かせてしまった」
甘菜は少年の言葉にはっとし、勢いよく首を横に振った。
「だ、だ、大丈夫です」
「そうか」
少年はほっと息をついた。
「あの…、一つ、聞いてもいいですか?」
「何だろうか」
「この間、会ったとき、急いでいたようですけど、何か、あったんですか?」
それを聞かれると思わなかったのか、少年はきょとんとして首をかしげた。
「姉上が具合を悪くして、薬草を取りに行かなければならなかった。よく効く薬草があの森にあるのだ。それを取ったので、姉上に早く渡さなければと急いでいた。あのときは本当に、すまなかった」
「い、いえ、いいんです。たいしたことなかったですから」
甘菜は手と首を何度も振っていた。
「それで…、ええっと、あの…」
「何だろうか」
「……あやかし、なんですよね?」
少年はきょとんとして一つうなずく。
「そうだ。俺は鳥のあやかしだ」
やっぱり、と甘菜は思ったが、最後の言葉に首をかしげた。
「鳥、なんですか?」
「ああ。空を飛び、木の実を主食とし、楽を愛する、鳥のあやかしだ」
「楽?」
それを聞いて甘菜は、彼の腰に鼓が下げられていることに気づいた。
「鼓を奏でるんですか?」
「ああ。良かったら聴いていかれるか?」
聴きたい、と甘菜は思ったが、腕に抱えている風呂敷を意識してはっとする。
「ごめんなさい。お使いの途中なんです。聴きたいのは山々なんですけど…」
「そうか。それならば仕方ない。早く行った方がいい。引き留めてしまってすまなかった」
そんなことない、と甘菜は何度も首を横に振った。
「あ、そうだ。私は甘菜といいます。あなたの名前を教えてくれませんか?」
甘菜の言葉に少年は首をかしげる。
「俺に名はない。兄上と姉上から弟と呼ばれるだけだ」
「そうなんですか?」
甘菜はそのことに、どうしよう、と悩んだが、一つひらめいて顔を上げた。
「あの、私があなたに名前を与えるのは、だめでしょうか」
少年はまたきょとんとする。
「名は、あなたにとって、そんなにも重要なものなのか?」
今まで名前の概念がなかったからか、少年は不思議そうに甘菜を見ている。
「だって、どうやってあなたを呼べばいいのかがわからないですから」
思わず力を込めていた甘菜に、なるほど、と少年はうなずいている。
「それならば、あなたが俺の名をつけてくれ」
甘菜はほっとして、うーん、と悩んだ。
(鳥、鳥、鳥…)
「…鳥彦(とりひこ)、というのは、どうでしょう」
安易すぎるだろうか、と甘菜は少年の反応を伺う。
「鳥彦、か…」
少年は一度呟くと、ふわりと笑みをこぼした。
「俺は気に入った」
「そうですか?」
「ああ、ありがとう」
少年の言葉に甘菜はほっと安堵の笑みをこぼした。
「よかった。気に入ってもらえて」
甘菜の笑みを見て、少年はどこか不思議そうな表情をしていた。
「甘菜。時間は大丈夫だろうか」
その言葉にはっとして、甘菜は太陽の位置を確かめる。
「い、急がないとっ」
甘菜はバタバタと駆け出して、一度振り返る。
「鳥彦っ、また会いましょう!」
彼が笑ってうなずくのを見た甘菜は、意気揚々と駆けていった。




「『また会いましょう』、か…」
鳥彦は、甘菜の姿が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。

甘菜の言った言葉を呟くと、心のどこかがほわりと温かくなるような心地がしていた。
「弟。そんなところにいて、どうしたんじゃ?」
彼を呼ぶ声が聞こえて、鳥彦は振り返る。
「姉上。動き回って大丈夫なのか」
「これぐらいの距離などどうということはないよ。むしろ、そろそろ動き始めないと、体がなまってしまうからのう」
そう言って彼女はにやりと笑う。

姉上と呼ばれた女性はほっそりとした体型で、目元には四角い布製のお面がつけられている。
「お前にもずいぶんと世話をかけたね」
姉は苦笑を浮かべて鳥彦に告げる。

鳥彦は、いや、と言って首を横に振る。
「姉上が元気になったようでよかった」
「そう言ってくれるのかい、弟。お前はやっぱり優しい子だねぇ」
姉がしみじみと言う言葉に、鳥彦は首をかしげる。
「そうだろうか」
「そうじゃよ。先ほどの人間の女の子に対しても、ずいぶんと優しく接していたようだしのう」
姉の言葉にギクリと鳥彦は固まる。

鳥彦の様子に姉はまた、にやりと笑う。
「あの子が、兄者の言っていた、お前が会った人間なんだね」
「……ああ」
鳥彦の返事に、姉はすっと表情を真剣なものに改める。
「あの子は、お前のことを受け入れてくれているのかい」
姉の言葉に鳥彦は少し顔を伏せる。
「……まだ、俺にはわからない」
「……そうかい」
「ただ」
鳥彦が言葉を続けると、姉はきょとんとする。
「名を、与えてくれた」
「……そうかい。それは、よかったねぇ」
「ああ。うれしかった」
鳥彦はそう言うと、自然と笑みがほころんでいた。

その様子を見て姉も笑みを浮かべ、ふっと顔を伏せる。
「お前とその子の関係が、よいものであると、いいね」
姉の様子に、鳥彦もそっと顔を伏せる。
「そうでありたいと、俺も思う」
「その子がお前に与えた名は、私や兄者には告げなくてよいよ。その名は、お前とその子の間で使った方がいい。その方がいっそう、親密な関係となるから」
「わかった」
鳥彦の返答に、姉は満足そうな表情を浮かべる。
「それにしても、お前が人間と親しい関係になるとはのう」
しみじみと言う姉に、鳥彦はきょとんとして首をかしげる。
「変だろうか」
「変と言うより、意外なのじゃ。お前はさほど人間に興味を示していなかったからのう。私としては、お前は人間と関わらずに生涯を終えるものだと、思っていたのでね」
姉はそう言って苦笑を浮かべる。
「世の中、わからないものだねぇ」
「姉上…」
「さあ、そろそろ住処に戻ろう。弟だけではなく私までいなかったら、さすがに兄者も焦るだろうからね」
表情をにっこりとしたものに変えた姉に、鳥彦は先の言葉には言及せずにうなずく。
「ああ、わかった」
鳥彦と姉は連れだって森の中へと入っていった。




甘菜は時間を見計らって、鳥彦が住処としている森へとやってきた。

誰にも見られていないだろうかと、辺りをきょろきょろして確認し、森の中に向き直る。
「鳥彦。鳥彦、甘菜です。来ました」
甘菜が森の中に呼びかけていくらも経たないうちに、鳥彦は木々を伝って甘菜の目の前に降り立った。
「本当に、また来てくれたのだな、甘菜」
そう言った鳥彦の口元には笑みが浮かび、雰囲気もいくらか弾んだものだった。
「ええ。あなたの楽が聴きたくて、やってきました」
ふふっ、と甘菜もどこかうれしげに笑い声を漏らす。
「ここにいては人に見つかってしまう。森の中へ入ってくれないだろうか」
「はい、わかりました」
甘菜が素直にうなずくと、鳥彦は彼女の手を取って、森の入り口からさほど離れていない場所へと連れてきた。

そこは大きな木が地面を占領し、雪のかまくらのような大きなウロができていた。
「ここへ座ってくれ。若い草ばかりだから柔らかい」
鳥彦は甘菜の手を引いて、そっと彼女を草が密集しているところへ座らせる。

その動作があまりにも丁寧で、甘菜は思わず頬を染めていた。


甘菜を座らせると、鳥彦は木の太い根に腰掛け、腰に下げていた鼓を膝の間に固定する。

準備が整った、と感じ、甘菜は姿勢を正して鳥彦に意識を集中する。


鳥彦は、軽くポンポン、と音を確かめるように叩くと、次からは口笛も交えて調子よく鼓を奏でた。

軽やかで明るい曲調、思わず気持ちが弾んでくるようだと、甘菜は感じていた。

いつしか彼の周りには鳥たちが集まり、彼の鼓に合わせて歌を歌い出す。

甘菜もいつしか曲の調子に合わせて手拍子をし、表情には笑みが浮かんでいた。

ポポン、ポン、ポポポンポン、ポンポンポン、と鼓の音が森の中に優しく広がる。
(ああ、なんて…、なんて……)
いつしか目を閉じて聞き入っていた甘菜は、ゆっくりと目を開けて鳥彦を見つける。

柔らかな音色で鼓を奏でる彼と、彼と戯れるように飛び交う鳥たち。

それを目にして、甘菜はたまらず感嘆のため息をこぼす。
(極楽浄土とは、このようなところなのかしら……)
甘菜は夢心地のような表情で、曲が終わるまでずっと、鳥彦を見つめていた。




「いかがだっただろうか」
森の外へと甘菜を送っているときに、鳥彦は彼女に問いかけた。
「とても、素敵な曲でした。何度でも聴きたくなります」
頬を紅潮させてうっとりと告げる甘菜に、鳥彦は胸がコトンと高鳴り、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「気に入って頂けたようで何よりだ」
「また、聴きに来てもいいですか?」
「ああ。もちろんだ。甘菜のために曲を奏でよう」
鳥彦の言葉に甘菜は目を丸くしたが、次の瞬間、満面の笑みを浮かべた。
「うれしい」
鳥彦は一瞬呆然と甘菜を見つめていたが、彼もゆっくりと満面の笑みを浮かべた。


森の出口に着き、二人は名残惜しそうに互いを見つめる。
「あまり遅くなっては、ご両親が心配される」
「はい…」
「また、来てくれ」
「はい。また、会いに来ます」
二人はお互いの手を握りしめる。
「俺は、ここで甘菜を待っている」
「はい。次はいつになるのかはわかりませんが、必ずここへ」
お互いの言葉を確かめるようにうなずき合うと、二人はそっと手を離した。
「それじゃあ、また」
「ああ、また」
そう告げて、甘菜は家路を歩いていった。
「引き留めようとは思わなかったのか、弟」
甘菜の背中が見えなくなるまで鳥彦が見送っていると、後ろから声をかけられた。

鳥彦はゆっくりと振り返る。
「兄上…」
兄が呆れたような表情で木に寄りかかっていた。
「俺には、お前もあの子も、お互いに懸想しているように見えたんだが。違ったか?」
兄の言葉に鳥彦は首を横に振る。
「まだ、わからない」
「…そうかよ」
あーあ、と兄は盛大にため息をつく。

その様子に、鳥彦はきょとんとする。
「弟。あまり人間に入れ込みすぎるなよ。俺たちと人間達とじゃ、所詮、生きていく世界が違うんだから」
鳥彦は一瞬悲しげに顔をゆがめ、兄から見えないようにうつむく。
「それは、わかっている。俺も、わかっているんだ…」
どこか苦しげに鳥彦は告げる。

その様子に、兄は肩を落とすようにため息をつき、鳥彦の頭をぐしゃぐしゃとなでる。
「あやかしと人間には、必ず、いかんともしがたい別れがやってくる。優しいお前が、それに耐えられるか、俺も、妹も、心配なんだ」
兄に頭をなでられながら、鳥彦は何かに耐えるように、拳を強く握りしめた。




それから甘菜は何度も鳥彦の元へと訪れた。

一度、髪を結った状態で鳥彦に会うと、鳥彦が不思議そうな表情をした。

どうしたのかと甘菜が尋ねると、甘菜は髪を下ろしている方が似合う、と彼は言った。
「甘菜の髪はきれいだから、結ってしまうのはどこかもったいないように感じてしまう」
風になびいているのを見るのが、俺は好きだ、と鳥彦に言われ、甘菜は髪を下ろしていることが多くなった。
「甘菜。お前に縁談が来たよ」
その日も、鳥彦に会いに行こうと手伝いを手早く済ませているときに、甘菜は母親にそう言葉をかけられた。

突然のことに甘菜は固まり、ぎこちない動きで母親に向き直る。
「え…」
「呉服問屋の息子がお前を見初めてね、縁談を申し込んできたんだよ。何でも、お前の髪があまりにも美しいんで、妻にもらいたくなったと言っていたよ」
弾んだ声の調子の母親と相反して、甘菜は、さあっと顔色が青くなっていた。
「どうだい、甘菜、悪くない話だと思うんだけど」
「…おとっつぁんは、何て?」
「おとっつぁんも、乗り気になっているよ」
母親の言葉に、甘菜はますます表情が暗くなった。
「おっかさん、ちょっと考えさせて」
甘菜は母親の返事を聞く前に家の外へ出て行った。


家から走り続けた甘菜は、鳥彦が住処としている森へと到着した。

息を荒げて膝をついていたが、意を決して顔を上げた。
「鳥彦! お願いっ、鳥彦っ、出てきて!」
せっぱ詰まった甘菜の声に、鳥彦はすぐさま姿を現した。
「甘菜、どうした? 何かあったのだろうか」
自分を気遣う鳥彦の言葉に、甘菜は思わず涙があふれ、くしゃくしゃに顔をゆがめていた。
「鳥彦…、私…」
「なんだ?」
鳥彦が優しい口調で甘菜に聞く。

甘菜はそのことがたまらず、ボロボロと涙をこぼしていた。
「私…、縁談が、来たの…」
その言葉に、ビクリと鳥彦は震えた。
「おとっつぁんも、おっかさんも、縁談に乗り気で、私…、どうすればいいのか…」
甘菜は両手で顔を覆って泣き続ける。

鳥彦は甘菜に手を伸ばそうとしたが、触れる寸前に手を握りしめて離れた。
「甘菜…。俺には、あなたをさらうことは、できない」
苦しげな鳥彦の言葉に、甘菜は手を離して顔を上げる。
「人としての幸福が待っているあなたを、あやかしに引き入れることなど、したくないんだ…」
顔をうつむけて告げる鳥彦に、甘菜は絶望し、くずおれそうになるのをこらえ、その場から駆け去った。
(鳥彦…。私は、あなたと共に生きていきたいと思ったのに、あなたはそう思ってはくれなかったの? ただ一言、想いを告げてくれるだけで良かったのに…。人だ、あやかしだと言われたら、私にも、どうすることもできない…)
甘菜はいつしか立ち止まり、その場に膝をついて大声で泣き叫ぶ。
(私はただ、あなたが好きだっただけなのに…)




森の中で一番高い木の天辺に腰掛け、鳥彦は遠くの嫁入り行列を見ていた。

甘菜は呉服問屋の息子の縁談を受け、この日、輿入れをする。
「兄上。そこに、いるのだろう」
行列を見つめたまま、鳥彦はぽつりと問いかけた。

直後、彼の背後の枝に兄が飛び乗った。
「兄上。俺の行動は、本当に、これでよかったのだろうか」
兄は何も言わずに鳥彦がいる枝に移る。
「本当は、彼女を、誰にも渡したくなかった。彼女が縁談を受けたと聞いて、この森の中へさらってきたかった。でも、俺はあやかしで、彼女は人で、彼女に人を捨てさせるのも、嫌だと思ってしまった」
嫁入り行列が、呉服問屋に到着した。
「兄上。いったい、何が正しかったのだろうか」
いつしかうつむいていた鳥彦の頭に兄の手が置かれ、ぐしゃぐしゃとなでられた。
「きっと、どちらも正しくて、どちらも本当には正しくないんだ。確かなことは、お前もあの子も、お互いを想っていたということだけだ」
鳥彦はちらりと兄を見上げる。
「人を、嫌いになったか? 人に、絶望してしまったか?」
静かな兄の問いかけに、鳥彦はゆっくりと首を横に振る。
「こんなことになっても俺は、彼女のことが好きなんだ」
鳥彦は一度きつく唇をかみしめると、鼓を取りだし、膝に置いた。

甘菜は呉服問屋の中に入ってしまったが、彼女に聞こえても聞こえなくても、彼女が気に入ったという曲を奏でだした。


ポポン、ポン、ポポポンポン、ポンポンポン、と鼓の音が、優しく、もの悲しく、森の中を満たしていった。


「ねぇ、知ってる?

 黒いライオンのこと」
「黒いライオン?

 ライオンは黄色とかオレンジ色じゃないの?」
「そうだよ。

 そのライオンも元は黄色やオレンジ色だったの。

 でも、そのライオンはあまりにも凶暴で獰猛で戦闘狂なものだから、あらゆる動物たちとの争いで、返り血だらけになったの。

 酸化した血で毛皮は真っ黒になって、だから黒いライオンなんだ」
「そうなの?

 そんな恐ろしいライオンがいるなんて知らなかった」
「それはしょうがないよ。

 私たち鳥類は、ライオンとあまり関わりがないもの」




黒いライオンがただ歩いているだけで周りの動物たちは逃げていく。

誰も彼もが彼に関わりたくないと彼を避ける。

彼の視界に入るだけでも恐ろしいと、皆は彼から顔を背ける。

だが動物たちは知らない。

彼は逃げられれば逃げられるほど、相手の血を見たくなるのだ。

動物たちはそうやって、知らず知らずのうちに彼の獲物となっている。


彼はその日も獲物を探してさまよっていた。
「今日の獲物は何にしようか」
彼が辺りを睥睨しているとき、彼の視界に奇妙なものが入った。
「…あれは何だ?」
彼よりもずっと小さい、茶色い物体がそこにあった。


彼はその物体に興味を持ち、近づいていった。

はっきりと見えたそれは、チャボだった。

それも、片足だけのチャボだ。

生きているのか死んでいるのか、チャボは目をつぶって少しも動かない。

彼はさらに近づいて匂いを嗅ぐ。

その途端、チャボの目がパチッと開き、彼を真っ直ぐ見つめた。
「あなたが噂の黒いライオンですか」
ずいぶんと通る声でチャボが言う。

突然かけられた言葉に、彼は反応できずに固まっていた。
「なるほど確かに血糊がべったりついていますね。

 なんとも毛ヅヤも毛並みも悪そうです。

 なんだかまるで無精者のようですね」
チャボはじろじろと彼を見つめる。

そこでようやく彼ははっとし、チャボに顔を近づけ、牙を剥き出しにする。
「俺をじろじろ見るな、鳥風情が。

 お前なんか一飲みにしてくれる」
彼はこの威嚇で何匹もの動物たちを震え上がらせてきた。

だがこの片足のチャボは、全く臆することがなかった。
「あなたは口の中まで血潮で満たされているのですね。

 毛皮は黒いのに、口の中は真っ赤です。

 牙にまで血が滴っていますね」
チャボは冷静に彼を観察していた。

その様子に彼は思わず肩透かしを食らう。

これは違う、と彼は思った。

今までの動物と、何かが違った。
「お前は、俺が恐ろしくないのか」
彼は奇妙な感覚に囚われ、静かに問いかけていた。
「もちろん恐ろしいですとも。

 ですがそれよりもあなたに対する興味の方が上回っているのです」
「興味だと?」
「ええ。

 私はあなたにとても興味を持っています」
チャボは突然雰囲気をガラリと変え、じっと彼を見つめる。
「返り血だらけの牙持つ獣、あなたは何のために戦っているのですか?」
その問いかけに彼は面食らう。
「そんなことは考えたことがない」
「ではもう一つ。

 なぜ戦うのですか」
「それは、本能だからだ。

 牙持つ獣すべての、本能だ」
「そうですか。

 ではなぜ、牙持つ獣のすべてがあなたと同じように無差別に攻撃しないのですか」
「それは…」
彼はそこで言葉を詰まらせた。
「私はあなた以外にも牙持つ獣に会ってきました。

 彼らはたしかに本能によって戦っている部分もありました。

 ですが、無差別ではありませんでした。

 己の獲物、己の敵を区別していました。

 ここに生きるものすべてが獲物や敵となり得るわけではありませんでした。

 己ですら敵わぬもの、獲物とするには割りに合わないもの、そういうものを見極めていました。

 ですが、あなたは違います。

 ここにいるすべてが獲物や敵です」
チャボの指摘に彼はゴクリと息を呑む。
「ついでに聞きます。

 あなたにとっては私も獲物となり得ますか」
チャボはひたと彼を見つめる。

彼は知らずチャボの瞳に引き込まれ、言葉が消えていた。
「…もし、俺がお前を獲物と認識したならば、お前は逃げるか」
先のチャボの問いかけには答えず、彼は逆に問いかけた。
「逃げません」
チャボはすぐさまそう答えた。

その即答に彼は度肝を抜かれる。
「なぜだ。

 俺に食われるかもしれないんだぞ」
「たとえそうなろうと私は逃げません。

 というより、どんなことがあろうと、私はここに立ち続けるだけです」
「立ち続ける?」
彼の予想しない言葉が続けられ、怪訝に顔をしかめた。
「私は片足しかありません。

 チャボですので、飛行能力も優れているわけではありません。

 私は本来なら、生まれたときすでに死んでいてもおかしくはなかったのです。

 ですが私は生きています。

 親鳥は私が雛のときに見捨てていましたが、私は私を見捨てませんでした。

 片足で生まれようと、飛行能力が劣っていようと、私は確かにこうして生を受けました。

 私が私であるために、私が私として生きていくために、私はここに立ち続けているのです」
チャボの言葉は彼には難しく、彼は複雑に顔を歪めていた。
「お前にとって、生きることは、立ち続けることなのか?」
「そうです」
チャボははっきりとうなずく。
「私はここに立ち続けます。

 片足の私ができることは、逃げもせず、立ち向かうこともしないことです。

 たとえ逃げても片足の走る速さはたかが知れています。

 まして捕食者相手では無駄な抵抗と言えるでしょう。

 そして、立ち向かわないのは、反撃されないためです。

 攻撃を仕掛けられれば、攻撃を返したくなるもの。

 私の短い嘴では、一回攻撃できるかできないかというところです。

 捕食者相手に、それでは分が悪すぎます。

 逃げることも、立ち向かうことも、私が生きていくにはあまりにもリスクが大きい方法です。

 だから私は立つことを選びました。

 すると、不思議なことに、誰も私を食おうとはしませんでした。

 あなたのように奇妙なものがいると関心を持つものはいましたが、私がただ立っているだけだとわかると、去っていきました。

 私自身の食べ物はすぐ足下の草などを啄めばいいだけでした。

 そういうことがあり、私はこうして、大人の年齢になっても生き続けているのです」
チャボの話を聞き、彼は納得できないように顔をしかめた。
「ただ立っているだけで何もしないのか?

 それで本当に、生きていると言えるのか?」
彼の疑問にチャボはまっすぐ彼を見る。
「私はここを動かずにここに生きるすべてのものを見届けます。

 この命尽きるまで、すべての生き様を見つめ続けます。

 あなたの生き様も、私が生きている限り見つめていきます」
何の迷いもなく告げるチャボに、彼はしばらく言葉をなくした。
「返り血だらけの牙持つ獣、黒いライオン、あなたは何のために戦っているのですか?」
今一度問いかけられた言葉に、彼は体を震わせる。
「俺は…、俺が俺であるために、戦い続けている。

 俺は、数ある中のライオンの一匹でありたくなかった。

 俺が俺であるとわかるように、他のライオンとは違うことをした。

 そうして、黒いライオンになった」
彼は呆然と言葉を紡いでいった。
「ライオン、牙持つ獣、そんなものはいくらでもいる。

 だが俺は、その中に埋もれたくなかった。

 他のものと一括りにされたくなかった。

 俺は俺だ。

 他と同じじゃない。

 俺は一匹しかいない。

 それを、ただ、知らしめてやりたかった」
彼はそう言って、口をつぐんだ。

茫然自失した彼をチャボはじっと見つめる。
「返り血だらけの牙持つ獣、黒いライオン、あなたのその存在証明は、多大な犠牲を伴うものです。

 あなたを黒く染めたその血が、いつかあなたを身動きの取れない状態にさせるかもしれません。

 それでもあなたは、その方法で存在証明をしますか」
チャボの言葉に彼はゆっくりと顔を上げ、チャボをじっと見つめる。
「他に、存在証明できる方法があるのか」
「今のあなたの状態で思い浮かばないだけで、方法はいくらでもあります。

 返り血だらけの牙持つ獣、黒いライオン、それを維持しながら別の意味を持たせることもできます」
「そんなことができるのか!?」
彼は思わず声を張り上げていた。
「そうするためには、あなたが戦う理由を変える必要があります。

 あなたがあなたのためだけに戦わないのであれば、あなたの存在証明が黒いライオンのままであることはできます」
チャボの言葉に、彼は途端に不快の表情を示した。
「お前もまた、大切なものを守るために戦えと告げるのか。

 それではただのライオンと同じじゃないか」
「いいえ。

 そんな大層な理由でなくていいのです。

 単に、死なすのは惜しい、と思える存在が、生きていきやすくすること。

 それでいいのです。

 大切なものを作れなどと私が言えるわけがありません。

 あなたはライオンです。

 百獣の王です。

 王ならば王らしく、尊大な態度を取ってしまえばいいのです。

 動物たちの中で唯一の黒いライオン、あなたが動物たちの頂点に立ち、あなたが生かしておきたいと思えるものだけを、生かせばいいのです。

 そのものたちと共に、あなただけの世界を築いていけばいいのです。

 それが、あなたの存在証明となるでしょう」
片足のチャボこそ、まるで尊大な様子で彼に告げる。

彼は呆然とチャボを見つめるだけだった。
「ですが、忘れてはいけません。

 あなたは今まであなたのためだけに多くの血を流してきました。

 その事実は消えません。

 いつかその事実があなたの身に降りかかってきます。

 具体的な事象として生じるかもしれませんし、目に見えない形で訪れるのかもしれません。

 それに立ち向かうだけの覚悟と意志はありますか」
まっすぐ見つめてくるチャボの瞳に吸い込まれながらも、彼は口角を上げ、歯茎を剥き出しにする。
「そんなもの、とっくの昔に持っている」
「それならば、何も心配はありませんね。

 返り血だらけの牙持つ獣、黒いライオン、あなたはきっと、あなたのままであることでしょう。

 私はそれを、見つめ続けます。

 それが、片足のチャボである私の役目です」
チャボも口角を上げ、にやりと笑みを浮かべた。
「あなたが死なすのは惜しいと思える存在は、今の時点でありますか」
「たった今、お前を死なすには惜しいと思えた」
「黒いライオンにそう言って頂けるなんて、光栄ですね」

彼はひたとチャボを見つめる。
「お前がここに立ち続けてすべてを見据えることを己の役目と課しているならば、俺は俺の命が尽きるまで、お前がその役目を全うできるよう、他の動物と戦い続ける。

 俺の世界にお前を迎えてやる」
チャボもまた彼をひたと見つめる。
「それでこそ、尊大な王の姿です」
バンッ! と辺りに鋭い音が響いた。

その途端、黒いライオンが額から鮮やかな血を噴き出してドオォッと地面に倒れた。
「おい!

 やったぞ!

 すげえ獲物だ!

 見たことないぞっ、黒いライオンなんて!」
「これで俺たちはハンターの英雄になれるぞ!」
二匹の人間が巨大な鉄の筒で彼に砲撃した。

チャボは人間には目を向けず、ただじっと地面に倒れる彼を見つめる。

彼は今もなお額の小さな穴から鮮血を流している。

それでも、その目は、その口は、先ほどの宣言の時のように、堂々たる様相そのままだった。

まさに、尊大な王の姿だ。
「返り血だらけの牙持つ獣、黒いライオン。

 あなたの生き様、あなたの存在証明、あなたの覚悟と意志、しかと、見届けました」
彼はもうチャボの言葉には答えない。

それでも、チャボはそれが己の役目であるかのように、朗々と宣した。


チャボは背後から二匹の人間が駆けてくる気配を感じる。

チャボはまた辺りをひたと見つめて、ただそこに立ち続け、すべての事象を見据える。

空は高く青く光に満ち、黒いライオンが流す血が、よりいっそう鮮やかに煌めいていた。