朝の散歩は
3つの川を日によって
選ぶのが、基本。
(先週の時点での様子、
として既に書いたね。)
気づいたら
集約していた。
そう言えば
リハビリ通う道も
気づいたら、だったね。
大きな川沿いを
牡丹のおじいさんの家
まで歩いてから、行く、
というように。
(これも前に書いたね。)
一応
そうなるまでに
何年間かの中で、世界が
膨らんで行った、
末での話。
窓から見る桜並木を
実際に歩くようになった
大きな川。
同じようにすぐ側にある
小さな川Aにも
紫陽花沢山見つけて
桜終わった初夏も
覗くようになり。
其々
ほんの僅かな時間から
スタートして
遂には
この日も行く
小さな川Bまで範囲
広げて。
リハビリ時や
買い物時の広がりも
あり、
でも集約。
(上流の方まで行った日。多分、
雛に会えるかな?と期待はして。
その欲望は素直で良いと思う。)
広げるのは簡単。
欲望はそういうもの
情熱なんかも大概そう。
興味、に至っては・・・。
でも
こうして夏以降の
川3つに集約される
感じを1番大事にしたい。
本当の本当、が
そこにある気がするから。
あちこちに
注意向けても
ひとつ(あ、この話では3つ!)
に集約した過程が
愛おしい。
もっともっと
に距離を置いて
刺激少ない
楽に身を任せる方に
向く自分の心が
愛おしい。
メモ
9月19日
写真1枚目の
ベルガモットモナルダ
花の終わり近い雰囲気。
元々ちりちりした花弁が
より乾いた感じする。
(麦秋、という言葉に倣うなら
ベルガモットの秋近し、かな。
花から実へ移ろうという気配。)
6月の終わりに
終わりに向かう。
梅雨の間が最盛期?
9月後半
朝の窓の外の
空気の色は確かに秋色。
黄色いような。
空の住人、雲や鳥の
輪郭が曖昧になって来た。
快晴でも青との境、曖昧。
カルガモ(成鳥)の
数が増えたし、
玄関出る7時近くには
涼しさ感じる事出来る。
実際には
未だそれなりの気温で
凌ぎやすい、が正解だけど
呼吸器、粘膜の
デリケートな感じも戻る。
もう
夏では無いなあ。