地球在住  NOW HERE  (5日夜に加筆しました。) | あしたうさぎ の 散歩日和 ー と 衣食住、ときどき好きな事。ー

あしたうさぎ の 散歩日和 ー と 衣食住、ときどき好きな事。ー

旧タイトル
あしたうさぎの朝ごはん ー野菜ごはん、ときどき、好きなこと。ー

足りないものを補い身体を整える朝ごはん・・・の事を書いていたけど、2020年から以外の事を書く機会が増えました。写真の著作権は放棄していません。ご使用ご希望の際はご相談下さいね。

 

 

 

 

 

 

 

 

梅雨入りも

 

梅雨明けも

 

宣言のタイミングは難しそう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは

 

「すでに梅雨明けしていたと見られる。」という、

 

 

 

堂々としているのにどこか弱々しい言葉を聞いた年に

 

とくに感じる事です。

 

 

 

(逆かしら?・・・弱々しいのに、堂々としている・・・

 

 のほうが正しいのかな?)

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日は9時という遅い時間に朝ごはんを食べてから

 

2人で電車に乗り、

 

 

私は銀座で降りました。

 

 

 

 

 

 

そして待ち合わせしていたTさんと向かったのは

 

 

『 あなたの存在に対する形容詞 』 ミルチャ・カントル展

 

 

 

 

 

 

 

(オープン直後で2人きりの空間。それもあって、周りの人を気にせず

 いつもよりたくさん話をしながら見ました。)

 

 

 

ミルチャ・カントルさん。

 

ルーマニア生まれ、地球在住・・・ですって。

 

 

住んでいるところ、私と一緒!

 

 

 

 

 

 

 

映像が思っていたよりも長かったのだけど、

 

その間、出てくる人たちに対する私たちの印象や気持ちが、

 

すこしずつ変わっていったように思います。

 

 

(とは言っても、揺れながらも「こわくて不思議。」という感想に

 

 ちょいちょい戻りつつなのだけれど。)

 

 

 

 

 

 

とても曖昧。

 

 

その映像に対する結末の推理をしながら見ていたのだけど、

 

こういう風にその瞬間瞬間に思ったことを

 

まめに口に出しながら見るのは大人になった今はもう

 

あまりないことなのでとても新鮮な体験でしたし、

 

 

 

「ひとり」でないと言うだけで

 

普段の鑑賞と大きな違いがある事を実感できたのが、

 

昨日の2つの展覧会の意図ともリンクしていたように感じます。

 

 

 

 

( 1人だったら、

  ぼんやり思ったことの移り変わりを後から

  当たっていたことだけまとめてみて、それで終了。

 

  だんな君と2人なら、

  私ばかりが話すことになりそうだから、

 「とりあえず最初のうちは黙っておこう」と。)

 

 

 

(私のほうからTさんに積極的に話しかけたのです!

                    感想のセッション。)

 

 

 

 

 

2つ目の展覧会は

 

『 NOWHERE 』 八木夕菜

 

 

見えますか?

 

「いまここにある、まなざし」

 

と書いてあります。

 

 

 

 

 

建築を学んだ方。

 

 

 

 

 

建物の写真が多かったです。

 

「写真」を使っているけれどそれは平面とは限りません。

 

 

(立体や、インスタレーションに使われている素材に

 

 建築を学ばれてきた方ならではの感受性を見ることもできました。)

 

 

 

 

 

 

 

 

私は、

 

「見えたり見えなくなったりするもの」があることに

 

ドキドキしました。

 

 

見えづらいものを一生懸命見ようとする自分たちが

 

偉いなあ、と思う瞬間もありました。

 

 

 

 

 

 

そして、

 

写しとった瞬間に「過去」になってしまう写真という表現の中に、

 

その後、未来永劫、

 

その写真を覗き込んだ時に必ず「今」を見ることができるようにしてある

 

仕組みの提示に面白さを感じました。

 

 

 

 

 

 

(全て八木さんのねらいがきちんと機能してのことです。

 

 こちらも観るのにとても長い時間を要するようにできていました。

 

 作者が作品を構想して作り上げている最中にはまだ見ぬ、

 

 「それを観る人。」その人たちをを動かすこと。

 

 それはすごいことです。)

 

 

 

 

(風が強く、気温が高く、雨も降るかもしれないような天気の日が

 続きそうなので、切り忘れたらあっという間に散ってしまう。

 決して忘れてはいけないとマメに切っていたら、昨日の朝は

 食卓の上、こんなに華やかになりました。)

 

 

 

 

 

 

「すでに梅雨明けしていたと見られる。」という言葉には

 

 

 

宣言という言葉が本来多少持つはずの

 

「今」を力強く意識させるニュアンスは

 

どこかへ消えてしまっています。

 

 

 

でも、

 

「ごめんなさい。今年は判断が難しかったの。」

 

というほどの反省はしていない感じです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気象の仕事。

 

 

未来のことも考えつつ、

 

今と過去にも目を配る。

 

大変なお仕事です。

 

 

 

 

 

 

 

きっと、季節をきっかりと決めるのは難しいのだろうな。

 

(でも反省はきっとプロとしてご自分の中で強くする。

 

 言葉尻だけでの反省などはしないのでしょう。)

 

 

 

例えば春の訪れは「三寒四温」と言って、

 

徐々に、徐々にであるけれど

 

「早く暖かい日ばかりが続くとといいなあ。」と思って

 

それを口にすることはあっても

 

きっちり来ない私たちは怒る事はないです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生まれを聞かれたり、住所を聞かれたりした時に、

 

便宜上、国の名前を言うくせはきっとついているけれど、

 

「地球生まれ」と聞くと、そちらのほうがいいなあと驚かされるし、

 

 

 

「”今”を切り取りました。」と写真を見せられれば、

 

「それはかっこいい!」と、じっくりと見たい気持ちになるけれど、

 

本当は見る側の私のほうが「今」であって、

 

過去になってしまった「印画紙」の中の世界より強いはずです。

 

 

お腹が空きすぎていたり、風邪をひいていたらこの会場に

 

来る事さえままならなかったかもしれないし、

 

もし来てもらってもお腹の空いた人を長い時間鑑賞に没頭させることや

 

考えさせること、難しいです。

 

 

 

 

偶然にも昨日見させていただいたお2人ともが

 

そういう部分にも目を向けているようで

 

面白かったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなわけで、

 

(どんなわけ?)

 

 

 

「もうここから真夏です!そう判断します。」

 

と、プロだから本当は言いたかっただろう気持ちを

 

私たちはくみ取ります。

 

 

 

でもね、

 

「今日はまだ梅雨・・・ではないのかなあ?」

 

というような雨です。まだこの先も続くようだし。

 

 

 

それで、

 

「この湿った風は ” 流し ” ではないか」との思いで

 

窓の外を見ながら何気なく本を開いたら

 

そろそろ『 小暑 初候 温風至 』・・・。

 

そこを読めば、梅雨明け後にも

 

「白南風」(しろはえ)(主に山陰、西九州で)というのが

 

あるという・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

難しいけれど、まあいいか。

 

世の中はそのような曖昧な事だらけですね。

 

 

もしもうちょっと深く知りたくなったら

 

経験と勉強をして知識を得た人に、

 

聞いてみるのがきっと一番。

 

それはもう気象庁の人や気象予報士さんに頼るほかはないのだから、

 

やはり怒る理由は見つからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日は朝ごはんを食べながら

 

呑みすぎたわけを、めずらしく

 

わかりやすく自分から話してくれました。

 

私には経験する事ない世界の、

 

知らない人々の話でした。

 

 

すこしワクワクしました。

 

でもすぐに別の世界の人の話だとも思って、

 

私は私の世界に戻るのだけど。

 

 

 

 

目は充血していて、

 

お酒の匂いが部屋じゅうに広がって、

 

本人は頭が痛いそうでしたが、

 

駅に着くと売店で漫画を買い、電車の中で読む。

 

 

まあ、大丈夫でしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな「今」の時代の景色の中に、

 

子供の頃の休みの日の家族そろってのお出かけで、

 

必ずスポーツ新聞を買っていた父の姿を重ねました。

 

 

 

なるほどこれも、

 

常に「行ったり来たり」の私でありますね。