海の向こうの人になった私。

渡英して既に一週間経ちました。

得てして人間の適応力というのはものすごいもので、既に落ち着いている私。

なんか...、日本にいた時より楽かも。





イギリス人...というか、うちの特性なのかもしれないけど、人に求めるものがものすごく低い。

ついて最初の一週間はとにかく出費がでかくて大変だったけど、家事や料理はほんと数えるほどしかやらなかった。

心的役割分担というか、いちいちコミュニケーションをとらなくても精神的に余裕がある方がやるというルールで済んでしまう。

楽だ...





こっちについてからはまずBluewaterのショッピングモールでiMacを購入。

おかげさまで日本語でネットができるようになりました。

それが火曜日。

この日はモールで五時間過ごした私たち...、帰ったら疲労困憊で食事も適当だったかも。

水曜日はロンドンへ家具なんかの調達へ。

これも大変だった。

家具を買って、米を買って、キッチン用のものを少し買って。

いやはや大荷物。車があるところまで短距離なのにバスにのってしまった。

しかもバスの券売機が壊れていて、吸い込まれて行く1ポンド硬貨...。

片道のバスに私たちは合計6ポンド支払う。

これぞロンドンの洗礼です。





木曜日は自宅を片付ける日。

荷物をしまって、家事をして、掃除をしていたらいい感じに一日が終わってしまった。

なぜか疲れる私。





金曜日。

金曜日は再びロンドンへ。

しかし日本の郵便局から送った荷物がどうしても届かないので、状況を調べたらなんと一度配達されたとか????

不在表はいってないんですけど。

しかも、木曜日は一日うちにいたんですけど...。

送った荷物は船便が届くまでに必要な衣類や、早めに欲しい本が入っていたりするんだけど、それよりずっと大切なもの。

着物!!!!

着物が3セット分入っていた。

なくなっちゃったらもうどうしたらいいの?





早速いろんな郵便局へ連絡をとり、Gが車で取りに行く。

着物が届くまで正直生きた心地じゃなかったけど、無事受領完了しました。。

一応着物だけしっかり片付けて、ロンドンに向かう私たち。

昔同じ事務所で働いていた先輩が留学中なので、彼女に会う。

一週間も経ってないくせに、日本語で会話できるのが何故かうれしい。





土曜日はMUJIから購入したベッドなんかが届く日。

9時から6時の間に配達。うちに来る一時間前に電話してくれる...はずが。

10時過ぎに来たね、前触れなしに。

そういうとこルーズなんだけど、気にしなければ正直どうでもよく思えてくる。

関心したのは、家具の組み立てが簡単な事。

バラバラで持ってきて後は自分でやってね~という方式なんだけど、何の道具もいりません。

自分の手と力で組み立てができる。

私一人でもできたかもしれない。





やってきた家具を作ったりゴミを処理したりして、午後遅くからは両親の家へ食事に。

典型的なイギリス人のお父さんに、典型的なイスラエル人のお母さんだ。

手先が器用で、家の改装から小さな機械造りまでできてしまうお父さんは頼りになります。





そして日曜日は教会へ。

私は一応カトリックなんだけど、この教会はどうやらアングリカンらしい。

なぜここに行くかというと、9月20日の結婚式の打ち合わせがあるから。

一応Gは結婚式まで毎週通わなくてはならないけれど、私はどっちでもいいそうだ。

この日はとりあえず83歳のオルガン奏者と、式の概要なんかを確認する。

3曲賛美歌を選ぶのだけれど、ありがたくも数曲は知っているのがあったのですかさずそれで。

When A Knight Won His Spurは好きな曲だし、歌詞も馴染みやすいものなのでこれを最後に持って来られて良かった。





http://www.youtube.com/watch?v=MWk6L9T5-es





その後は友人夫妻の家へ。

ガーナ人の奥さんとイギリス人の旦那さんに、1歳半になる男の子。

この子がまたかわいくて、あったとたんに抱っこだった。

聞いたところ、通常余所者には抱っこを許さないらしい。

イギリスでも私の赤ちゃんマグネットは健在。

夏にはベビーシッターのバイトができそう。



そんな忙しい一週間を経て、お約束通り風邪をひきました。。
日本と別れるまであと数日。


31日は引越し屋がくるから、もう少し片づけをしないと。




最近悲しかった事は、また家族全員が私の誕生日を忘れた事。


風邪をひいたこと。


親族の長老が急に老いた事。


お茶を送ると申告料が50ポンドかかる事。




嬉しかった事は、知的障害のある親戚が数年ぶりに訪ねた私を覚えていてくれた事。


滅多に人前にでないのに、笑顔で出てきてくれた。見えない目で私のほうを見て嬉しそうにしていた。


5歳の頃伯母にもらったぬいぐるみが真っ白になったこと。


5歳になった伯母の孫にあげたら、とても喜んで電話をくれた事。


エルモの人形が、恩師といつかアメリカに帰れるかもしれない事。


たくさんの後輩や友人に会えた事。


友に恵まれた事。


悲しい事より、嬉しい事の方が多かった事。






今日、祖母と別れた時、何度振り返っても祖母はこっちをふりむいて手を振りながら歩いていた。


涙があふれてきた。


私の選んだ道は間違っていたのかと杞憂した。


またあさって会うのに、来年の春には一度戻るのに。


87歳と93歳にとって、来年の春はどれくらい遠いのだろう。
Beyond the SeaIn Loving Memory of Cherry Reiko Matano




昨年の11月からずっと意識がなかった、もう1人のハワイの親戚が3月17日に亡くなりました。


そこでなぜか思い出したのが、Bobby Darinの事…


海の彼方で私を待つ人は、年々少なくなるばかりなのか。




Cherry Reiko Matano。


彼女はWaianaeで1929年に誕生。


実に8人姉弟の5人目だった。


1950年にUniversicy of Hawaiiを卒業後ハワイの仏教会の秘書を勤め、最初の結婚を機に本土へ上陸。


Virginia、日本、Kansasと移り住み、Washington DCでは小学校の教員を務めた後に1965年、ハワイの衆議院の秘書へ就任する。


Congressman Spark, Matsunagaの逝去まで秘書を務めて、彼女はハワイへ戻る事になる。


定年退職後は憧れていた日本舞踊を京都まで定期的に通って習い続けた。




彼女は本当に躍動的で、おしゃべりで、じっとしていられない人間だった。


そんな彼女が11月から意識不明で、多分これまでの人生でもっとも長く口を閉ざしていた時期じゃないかしら。


どんなに踊りたかっただろう、もどかしかっただろう。


彼女はBetsyが先に行って待っているのを知らないから、途中であったらびっくりするのかしら。






そういえば、先に戻ってBobby Darin。


CherryとBobby Darinにはもちろんあまりつながりはないのだけれど、今回の訃報を聞いて「Beyond The Sea」と言う映画のラストシーンを思い出した。


幼いBobbyと大人になったBobbyが一緒に歌って、子どものBobbyが大人に舞台を託して去っていく。


正直何故そこかなぁ…と思うのだけれども、Cherryも倒れる最期までしゃべって踊って…、次世代にバトンを託したのかなと、今は解釈している。


Beyond The Seaという代表曲が好き。


ハワイへ彼女たちへ会いに行く時は、バカみたいにいつも聞いていた曲だった。


Somewhere beyond the sea, Someone's waiting for me


一人ずつ、私を待っている人はいなくなってしまう。


この曲を聴くと思い出すのはハワイの家族。


今度はいつ、聴くんだろう。




[youtube=http://www.youtube.com/watch?v=7q3MRLswOh8&hl=en]
いつも遠くに見ていてステキだと憧れていた人が、実はヒドイ人だった。


そういうのはとてもがっかりするけれど、私にとってその人とは「中国」と「アメリカ」だ。


殊にがっかりしているのは、中国。


「アメリカ」についてはイギリスのHenryのアフガン出兵について書こうと暖めていたのだけれど、正直それどころじゃない。




連日報道されるチベットの件についてどう思うか。


そもそもチベットは何故中国の一部にされてしまったのか?


戦争のドサクサにまぎれての事じゃなかったのか。


今回の事に限らずどれほどチベットに、中国新彊ウイグル自治区は弾圧されてきたか。


他国の人間にとっては慮ろうとしても計り知れない事だ。




けれど、今中国がしている事は明らかに間違っている。


それだけは確実だ。


敢えて断言したい。中国は間違っている。




人殺しを容認するプロパガンダは、21世紀にあって良いものか。


20世紀には多くあったものだと思う。


だから20世紀は戦争の世紀だった。


それも過去例にないほど多くの人達が政治の名目上死んで行った。


ナチス・ドイツの弾圧もそうだし、スターリン下の粛清、カティンの森事件、ベトナム戦争、ルワンダ戦争…。


それは他国の事…とは日本人にはいえない。真珠湾の爆撃は大きな罪だし、満州大事変や731部隊が行った事は一切弁明が許されない事だ。


中国の人が未だに反日感情を抱くのは決して責められることではない。




だけど、だけど何が違うんだろう。


今中国がチベットに行っている事。


ウィグル自治区に行ってきた事。


何が異なると言うんだろう。




私1人ではまあ全く力はない。残念ながら。


けれど最近ありがたいことにここを見てくれる人が増えてきたから、その人たち全員で動いたら、と思った。


いわゆる「ペイ・フォワード」と言うやつ。


1人が一言、もしくは記事一つでも書いたら何か変わるかしら。


少しは影響力のある人に届くかしら、と思う。




イタリアでは9割以上の人たちがオリンピックボイコットを指示しているらしい。


今の中国に、「平和の祭典」を開く資格はあるんだろうか。


そういった意味では、私も日本のオリンピックボイコットを指示したい。


このためにずっとがんばってきた選手たちにとってはどんな痛みが伴う事か、と思うのだけれど。


福田首相はどうするんだろう。


国連はどうするんだろう。中国はこんな事をしているのにずっと国連の常任理事国でいるんだろうか。


今こそ世界の判断力を問いたい。


ダメなことには、ダメと言える国はどれだけあるんだろう。
In Loving Memory of




ハワイの親戚が亡くなったこと、それから彼女の妹が11月の心臓発作からもとの身体に戻れない事。


どうしても気になっていたところで寡になったおじさんからお葬式の式次第が届いた。


そこで初めて知った彼女の生い立ちやこれまでの事。


ハワイで日系人として育った事、それから日本人収容所の事。


私が知っている笑顔のおばあちゃんには、いろんな苦労やロマンチックな出来事があったみたい。






1922年8月22日 東京で生まれる。


1927年に、父親の本願寺への就任が決まった為、まだ幼かった妹のJaneも含めた家族4人でハワイへ移住する。


当時日本人移民が多かったため、住職の需要が高まっていたらしい。


Pa'auiloにいる数年間に弟のAlbertは誕生し、5人になった家族はWaianaeへ移住する。そこで新しく3人の妹と更に1人の弟が誕生。


大家族になって定住を決める。


Waianaeの学校に通った後、京都の女学校へ転入したが…


真珠湾攻撃勃発。ハワイへ帰国。




Betsyの最初の仕事はWaianaeの農場での秘書職で、当時は"Town Beauty"として知られていたらしい。


そんな生活の中でも戦争は少しずつ大きくなっていき、日本人移民であった父親はいわゆる収容所へ連れて行かれた。


1944年にはその他の家族も全員テキサス州Crystal Cityの日本人収容所へ収監され、長女で会った彼女のみがハワイにのこって家を守る事になる。




戦後Texasから家族は無事に戻り、再び全員でのハワイでの生活が決まる。




夫のススムさんと出会ったのは二世交友クラブ主催のピクニックだった。


1952年には2人は結婚し、2人の息子にも恵まれる。


1961年には現在の住居であるKailuaへ移り、日本人学校の教師を3年間勤める。


しかしファッションに興味があった彼女が人生で最も楽しんだ仕事は、"Shiseido Lady"として働いた1994年までの26年間だった。




定年退職後はボーリングやや社交ダンス、クラシック音楽鑑賞を楽しみ、念願だった日本旅行も達成。


そして定年後に独学でウクレレやピアノのレッスンもはじめた。