11月半ばから仕事が鬼の様に忙しくなってきました。
クリスマス。。。
カトリックの学校育ちだから、産まれてからクリスマスの時期に忙しくなかった事はなかった。
こっちに来てから教会とかやめたし、ナニー職の時はサラリーマンの休暇に併せて数年休めたんだけど、今後はやっぱりクリスマスは忙しい方向で生きて行く様です。

それから結局私、ステロイド注射は打たんですみました。
その代わり理学療法士の所に通って日々地味にキツいリハビリをやってます。
しかし考えてみると診療所(GP)の誤診のまま、不可視の状態でステロイド注射をうたれる予定だった私。。。保険に入ってて本当に良かった。
エゲレスの医療事情は本当にオソロシイものです。


さて、プラハ旅行の記録。
このままでは年内に終われない雰囲気が濃厚になって参りました。。

前回の大暴走嵐のクレメンティヌムコンサートで撃沈した私たちでした。
が、まだある!イギリスから事前予約したコンサートが!
まだ一時間あるけど、とりあえずぶらぶらお土産を買ったりしながら会場の方に向かうとなんと長蛇の列が。プラハのコンサートは3件目だけど、今まで一度も「列」に並んだ事はなかった。
これはいけるかも。。。?
もちろん指定席なんてないのでとりあえず列に並ぶ事に。
ヨーロッパ人は並ぶのが下手です。
気付けば私(たち)も含め、後ろの方に並んでるのは何故か日本人が多め。
結構みんなぐいぐい押して行くんですね。

開場時間になると、係の人が要所要所に立ってホール、そして座席まで誘導してくれます。
がらんとした一見殺風景な小さいホールにならぶパイプ椅子。
観客はおもに観光客で、結構ざわざわした雰囲気。
でもここ、Colloredo-Mansfeld Palaceは立派な歴史的なバロック建造物の一つで、そのホールのフレスコ画は1760年代に施されて以来一切手を加えた事がないそうです。
重々しいシャンデリアも雰囲気にアクセントをつけてます。



ここは映画「アマデウス」で子供時代のモーツァルトが目隠しして演奏をするシーンの撮影も行われました。あ、実際モーツァルト本人もここで演奏したそうですよ。
この日の演目のリストは;

バッハ G線上のアリア
ヴィヴァルディ 春と夏
モーツァルト アイネクライネナハトムジーク
ビゼー カルメンの闘牛士の行進曲
ベートーベン 運命
スメタナ モルダウ
ドヴォルザーク Waltz in D Major

意外に少ないモーツァルト。
プラハの3コンサートは演目が季節柄なのかいつもこうなのか結構似ていて、比較が楽しめました。どこも必ず演奏するのがヴィヴァルディの春と夏。秋と冬はお留守ですが。
そしてバッハのG線上のアリアに大体アヴェマリアが1-3曲。モーツァルトのアイネクライネナハトムジークもお馴染みで、後は必ずスメタナのモルダウ。
スメタナはお国芸だからかどこのコンサートでもそれぞれ味わいは違うけれど、慣れた良い演奏を聴く事が出来ました。

Royal Czech Orchestraについてはあまり情報がないんだけど、歴史を辿ると17世紀半ばのレオポルド一世の治世に行きつきます。
その後1989年、ビロード革命の後に再建して今に至るとの事。
私たちが行ったコンサートでは弦楽四重奏+ソリスト。
入って来た時の観客のテンションもこれまでと全然違うし、演奏者も若いながらも自信のある雰囲気。なんというかこなれてる。
演奏も一音目から音が全然違いました。
ものすごく正確に気持ちよくあるべき場所にぴたりとハマる感じ。

ヴィヴァルディの夏ではソリストが登場。
このときの観客の驚きっぷりと反応から、恐らく大きいホールで演奏するときのコンマスじゃないかと予想してます。
この人、ほんとマエストロと呼びたい。
夏の演奏は的確且つダイナミックでわくわくした。
マエストロ抜けた後のアイネクライネナハトムジークでも、導入のユニゾンからアクセントが聞いた演奏を聴かせ、ただ愉快になりがちなモーツァルトなのにメリハリのきいた演奏ですかっとしました。

ドヴォルザークは予定していたワルツではなく、ユーモレスク(変ト長調)を演奏してました。
これも主題のリズムの揺すり方が適度に早くて心地よいし、中盤は速度を落として適度に焦らす感じの演奏が面白かった。

ちなみにこの日はクレメンティヌムが惨敗したパッヘルベルも演奏してくれました。
むしろクレメンティヌムより早いくらいの速度での展開だったけれどハーモニーは崩壊するどころか膨らむ一方。実力の違いを大いに感じました。
アンコールではまたマエストロが出て来て夏を演奏。
彼はぞくっと来る程音が多彩。
70分があっという間の素晴らしいコンサートでした。
今度プラハに行くときもこのコンサートは絶対外さないと思う。
最後のコンサートがここで本当に、本当に良かった。。

音楽好きのみなさん、Royal Czech Orchestraはおすすめですよ!
市民会館のスメタナホールでの演奏も時々あるみたいだから、そっちも狙ってみたいな。
病院からの現実逃避で、髪を巻いたりしてたらなんだかすごく上手く出来ました。
過去最高の出来です。と言った所で行くのは病院。。


クレメンティヌムに戻ったのは開演の15分前。
人ではそこそこ。
そこそこ

日中はツアー客しかいなかった鏡の聖堂もなんだか違って見えます。
しかしやっぱりフレスコ画が美しい。
演目は;
モーツァルト アイネ・クライネ・ナハトムジーク 1-4楽章
バッハ G線上のアリア
アルビノーニのアダージオ
パッヘルベルのカノン
シューベルトのアヴェマリア
スメタナのモルダウ
ドボルザークのワルツ
ヴィヴァルディの春1-3楽章と夏のアレグロ

かつてはモーツァルトも演奏したこの聖堂でのコンサート。来たいに胸を膨らませるふろちゃんです。↓
ふろ


演奏はChamber Ensemble Musica Pragensisとオルガニスト。
先ずはオルガニストの登城。そして続くチャンバーオーケストラは。。。
赤毛のぽっちゃりしたおばさんと20代くらいの女性が数人。
どうやら赤毛のおばさんが第一バイオリン。
アルビノーニのアダージオまでは慣れた演奏で、すばらしい!と言う感じではないにしろ充分リラックスして聴けました。
それにしても全身で演奏に入り込む赤毛のおばさんと妙にテンションの低いオルガニスト。。
この不安がストライクにはまったのはパッヘルベルのカノンでした。
。。。。あれ、この曲ってこんなに早かったっけ?
モーツァルトのアレグロでもちょっと危なっかしかったのに、こんなに早くて主旋律ひける?
そんな私の不安を余所に入り込む第一バイオリン!
速度上がる!上がる!置いて行かれるその他バイオリン。
そして主旋律!!
おばさんは走りきってハーモニーは崩落しました。
「やれやれ」と首をふるオルガニスト。多分このおばさん、いつもこうなんだわ。
カノンでやっちゃったこの大爆走。
スメタナでは何故かおばさんは弾かなかったし、他のメンバーも慣れてる様ですっきり弾けてましたがまだあれがあるのだ。
ヴィヴァルディの。。。。夏
春のアレグロは崩れながらも形はOK。ラルゴは遅すぎて逆にだれる。
そして不安的中の夏。
圧倒的な台風って感じでした。


プラハのコンサートは大体当たりだったんだけど、ここのは発表会レベル。
というかむしろ発表会以下。
大体はあの赤毛のおばさんの暴走と、他の人の経験不足。
もしくはアンサンブルとしての練習が足りなかったのかな?と言う感じ。
レベルのあった曲を選べばもっと良い演奏ができたのかもしれないので勿体ないです。

あ、でもこのコンサートは行って良かった。
プラハのクラシック世界にも上中下がある事がよくわかりました。
クレメンティヌムのコンサート、音楽好きにはおすすめしません!
今日は病院に行くまでのチキンレース。
どこまで書き綴れるか!
もしかしたらステロイド注射をうつ羽目になるかもしれないので、プラハへ空想逃避行したいのです。


おじさん


さて、クレメンティヌムを後にした私たち、コンサートが始まるまでの1時間どこで時間をつぶすか。一時間って長い様で短い。
クレメンティヌムは幸い旧市街広場から歩いて10分もしないところにあるので、かねてからちょっと興味のあったカフェ・モーツァルトに立ち寄ってみる事にしました。
このカフェはからくり時計の目の前にある建物の二階にあるので、観光地を見下ろしながらおいしいコーヒーが飲めるすてきな所。
ついでに私と夫は変にモーツァルトが好きなので、やっぱり寄ってみないとね、と思いながら毎日通り過ぎていたのです。

一階からはあまり良くわからないのだけれど、カフェのある二階に行くと目立つのがケーキのウインドウ。綺麗です。







カフェの内装は落ち着いて入るけれど豪華絢爛。
ヨーロッパのウエイター!と言う感じのすてきな人がメニューを持って来てくれます。
このメニュー、多分iPad。
日本ではこういうのもう主流?
後進国イギリスからやってきた私たちはびっくりしました。
タッチパネルのメニューをロココ調のカフェで拝めるとは。。。
ああいうのをお客さんに私ても盗まれたりしない治安なんですね。羨ましい。。

我々は橋を渡る前に食べたおやつのお陰でまだお腹はすいていなかったので、とりあえずコーヒーを頼む事に。
ここのメニューは全部モーツァルトの作品の名前がついています。
フレーバーで選ぶのも良し。好きなオペラで選ぶのも良し。
私が頼んだのはCoffee Concerto。ココナッツ風味のコーヒー。
ココナッツ

夫はCoffee Miserere。ヘーゼルナッツラテ。


フレーバーで選びました。。
キャラでいくならパパゲーナを選びたかったんだけど、ただのマキアートはちょいつまらなかったので。

ここのコーヒーは豆の味がして、無駄に甘くなく本当においしかった。
ミルクもあんなに綺麗に泡立てられるカフェはロンドンにはありません。(←ここ、断言)
そもそも角砂糖が沈まない!
ヨーロッパはやっぱりコーヒー技術が高いなー。
元コーヒー党だった私も今はすっかり紅茶党。でもプラハではコーヒーばっかりのんでました。
酸味の強い豆は苦手なんだけど、プラハのコーヒーはフルボディの物が多くて後味すっきりコクはあるというタイプ。水の違いもあるのかな。

アイスクリームなんかも美味しそうだったんだけど、どうしてもお腹がすかなくてコーヒーだけの滞在になってしまったのが残念。
今度はお腹をすかせてまた遊びに来ます。
次はお待ちかねのクレメンティヌムのコンサート。
歴史的建造物での音はどう心に響くのでしょうか。



苦行回が終わるとちょっと気が楽になりまして、プラハ旅行記にもゴールが見えてきました。
プラハ最大の魅力と行っても過言ではないカレル橋を歩き終わると、左手と正面に小さな教会があります。
この正面の教会、次の目的地の一部「クレメンティヌム」の一部です。
でもここからはクレメンティヌムには入れません。
ガイドブックと地図を見てみると建物は書いてあるけれど、どこにも入口の表記がありません。
目の前に佇む四角い大きな建物。。。
散々歩いたメインストリートには、目立った入口が無かったので反対側に行ってみる事に。
四角い建物をなぞる様に歩くと、みるみるうちに人手が引いて行き反対側には最早誰もいませんでした。結局ぐるっと一周歩いて見つけた入口はメインストリートのど真ん中。
とりあえず建物の大きさがわかったのは良かったです。
入口


クレメンティヌム、と言うのはいわゆる複合建築物。
始まりは11世紀に聖クレメントの名の下に建てられた教会です。
これがドミニコ会の修道院になり、ドミニコ会撤退の後1556年にイエズス会が神学校として利用。クレメンティヌムの大部分と言える有名な図書館や天文台、それから大学施設はマリア・テレジアの時代にはイエズス会によって建てられました。
イエズス会は1773年に退去。ちなみにここでもらった日本語の説明書にはその後再びドミニコ会に受け継がれたと書いてあるんだけど、英語版には書いていなかったし、史実を調べてみても他の資料ではドミニコ会に戻った、とはどこにも記載されていないのでこの点ははっきりしません。
とりあえず1990年からは国立図書館となっています。

セグウェイの乗り入れは禁止↓
禁止

ゲートをくぐると四角く広がる建物。
なんとなくケンブリッジの小さなカレッジに入った様な気分でした。
少し進むとコンサートのチケットやお土産のポストカードを売っている小さな受付があり、そこでツアーの予約をします。私たちが運がよくて丁度ツアーが始まる所だったので、チケットを買って数分ぶらぶらしてるとガイドさんが来てホールへの扉を開けてくれました。
チケットは夕方のコンサートチケットを兼ねた物と、ツアーのみの物があります。
わが家は7時から別のコンサートを予約していたのでとりあえずツアーのみのチケットを。

扉をくぐると先ずは鏡の礼拝堂。
クレメンティヌムの見所その1。
それがこの鏡の礼拝堂。
向かって正面にあるのは受胎告知の祭壇と18世紀からあるオルガン。
このオルガンは今でも毎晩の様に開くコンサートでその音色を聴く事が出来ます。
大聖堂のパイプオルガンと較べると意外にコンパクトな印象。
オルガン

天井には5つのパートに分けられたフレスコ画が。
これはラテン語のアベ・マリアの祈りを順を追って描いたもの。
携帯のカメラじゃこの美しさは撮りきれません。
画と画の間にある鏡には星が描かれていて、これは天国を表しているそうです。
壁にも鏡が向き合う様に掛けられており、対してこれは永遠の神の象徴だとか。
鏡が効果的に使われている事から、この礼拝堂は「鏡の礼拝堂」と呼ばれています。
フレスコ1

フレスコ2

フレスコ3

そしてうしろをふりかえると中二階のオルガンギャラリーにきれいなオルガンが。
これはモーツァルトがプラハに滞在していた時に演奏した物だそうです。
祭壇にあるオルガンとは異なり、こちらは今は殆ど演奏されてません。
モーツァルトオルガン

ここは撮影禁止、と言われていたんだけどガイドのお兄さんがこの部屋は大丈夫、と言うのでしっかり撮らせて頂きました。
しかし上の階にある有名な「バロック図書室」の撮影はダメ、としっかり念を押されました。

この礼拝堂の見学が終わると裏の扉から螺旋階段を登って次の場所へすすみます。
この螺旋階段がひどい。本当にひどい。。
直径が1メートルあるかないかで、踊り場はありません。
なので目的の階に着いたら横にずれる形で降りるのだけれど、これ結構怖い。下が全部見えてしまうし。。。躊躇してるのは私だけではなかった様で、上って行く途中時々詰まってました。
こうして詰まっているうちに、最後尾だった私はすっかり乗り遅れて上の階に着いたときは既に図書館の玄関ホールのレクチャーが始まってました。。色々面白そうな物があったのでこれは残念。
とりあえずここの説明が終わると狭い入口に案内され、ついにバロック図書館の見学です。
ここもストラホフ修道院と同様、以前は中に入れたけれど今は入口からしかみる事ができません。
何度も念を押されたのにこっそり写真を撮る観光客がいるのが残念。
私の回でもこっそり撮ってる人がいてちょっと嫌だった。
偏見は持ちたくないけれど、こういう事をするヨーロッパ人ってロンドンでもプラハでも、京都の都をどりでも、大体同じエリアから来てる人なんだよね。。お国柄の違いかなー。私は嫌だ、こういうの。

図書館が素晴らしいが故にマナーの悪さが尚更鼻についたわけです。
ちなみにこの図書館はまた天井に見事なフレスコ画が施されており、これは「人類の知恵の歴史」を表しています。
手前はギリシャ神話の情景で、バルナス山と9人の女神たち、そしてアポロの絵が。
そして知識の光を持った天使が人々に囲まれている姿を経て、イエズス会の教授たちの肖像やキリスト教の象徴へと移ります。
撮影のマナーを守らない皆さんも、ここで知恵を授かって今後の観光に役立てて下さる事を心からお祈り申し上げます。。。

この図書館は2万冊の蔵書があり、殆どは神学書。
様々な言語で書かれているけれど、殆どはドイツ語/イタリア語/ラテン語だとか。
最古の本はイエズス会がここに入って来た16世紀に持ち込まれた本。
イエズス会は本についての知識が豊かだった様で、実際にクレメンティヌム内に印刷機を持ち込んで、本の印刷もしていました。
薄暗い図書館でも見やすい様に城で本を塗装し、言語はラテン語で。
また、ここも一般の図書館と同様本を分類分けしていました。
更に見やすくする為に大きな本は下段に、小さな物は上段におく工夫も。

ただここにも忍び寄る宗教の「影」の部分。。
彼らは象形文字/神聖文字で書かれた物は手の届き難い中二階や上の方に所蔵していたそうです。
つまりは異端の可能性がある、と踏んだわけです。
それらの書籍は次第に「禁書」の分野におかれることになり、Anton Koniasが焚書リストを作成した際には随分燃やされたそうで、今でも何も入っていない本棚が幾つかあります。

Anton Koniasは焚書官として活躍?したイエズス会のメンバーだそうで、ちょっと興味が合って調べてみたんだけど日本語と英語では何も見つける事ができませんでした。
ドイツ語/ポーランド/チェコ語ではWikipediaにもページが作られているので、その辺りで大掛かりな焚書を行った残念な人なんだと思う。
本好きとしては焚書はどこの国でもどこの時代でも大変残念な行為だと思います。
光景的にもショッキングだし、燃やしてしまえばコンピューターのデータベースなんて無い時代もうその知識を得る事もできないし、思想の弾圧としては最適の手段だったんだと思う。
でも過去の知識やその本を書いた人の時間や心、労力を思うと泣けて来る。
幾ら気に入らない思想でも、心血注いだ時間や結果には尊敬があってししかるべきです。
否定や弾圧から作る未来には平和は無いと思います。
ちなみに近代になってから、この国立図書館の書籍はコンピューターのデータベースに登録される事になったそうで作業中の本は本棚から姿を消していました。

ここでは本以外には地球儀と天球儀が展示されています。
中に入れない今は詳細をみる事は叶わないのだけれど、当時のイエズス会の宣教師によって作られた地図を基に出来た物だと言うので面白いんだろうなー、と思う。
もしかしたらフランシスコ・ザビエルの観たインドと日本も描かれているのかも。


さて、図書館を出た後螺旋階段を上って向かうのは「子午線のホール」。
昔クレメンティヌムは、プラハ全体に「正午」を伝える、という役目も担っていたそうです。
この子午線のホールはずいぶん薄暗いんだけど、真ん中に光の通り道(正午線)があります。
壁にある穴を通った光が指す先が時刻を示している。いわゆる太陽時計の応用です。
これはかなり正確だったそうで、一年の時期と太陽の傾斜も計算して作られていたそうで、大体11時半から12時半くらいまでの天体時間が見えます。
当時は太陽が正午線を横切った瞬間、この上にある等のテラスから旗手が端をふり、反対側の川の坂で待ちかねていた砲手が合図の大砲を撃ってプラハ全体に正午を知らせていたとか。
視力、どれくらいあったんだろう。
明治時代の昼ドンと同じ。国と時代をまたいで同じ事してるなー、と知ったときはちょっと感動しました。

この子午線のホールは古い木造の塔で、この真上には小さなホールと天文塔があります。
狭ーい木の階段を上って上に行くんだけど、一段一段がものすごく高い。
上るのは何とかなるんだけど、降りるのは後ろ向きに行った方が安全な感じの階段です。。
私は高いところや不安定な所が苦手なので、みんなが塔で写真を撮ってる間はホールの見学をしてました。塔、一瞬行ってみたけどどうやっても無理。犬山城より怖かった。
このホールにはイエズス会が作った温度計や湿度計なんかが置いてあって、実験室の様で面白かった。上に行けなくてラッキーでした。





この塔から降りるとツアーは完了。
時刻は4時過ぎ。
Gが随分疲れていたので今日の観光はもういいやー、と言う気分に。
折角だから鏡の礼拝堂で5時から始まるコンサートに行く事にしてチケットを買いました。
さあ、一時間どうやって潰そうか。
旧市街
苦行回最終。

一応このプラハの旅シリーズは11月半ば迄に終わらせたいな。。。という目標があります。
11月半ばにはクリスマススケジュールがはじまるから、日曜日も仕事に行く週が出て来るし。
実はあと1日半しかツアー日程も残ってないのでそんなに掛からない筈なんだけど、ここまで蝸牛のペースでやってるのできちんと終われる自信ははっきり言ってありません!


聖ヴァーツラフ、聖ノルベルト、聖シギスムント 1853年作
聖ヴァーツラフは前述の通り。

聖ノルベルトは宮廷で聖職に就いたけれど世俗社会が楽しくて、神様ってそれが何?的な生活を送っていたそうです。ところが雷に打たれて落馬した後急に改心し、地元の質素な修道院に入った後に苦行生活を。その後ケルンの大司教に抜擢されたけれどやんちゃだった過去を知る人に迫害される事に。耐え忍ぶ毎日の甲斐あって結局は市民に受け入れられ、新しい修道会を設立した後も質素な生活を貫いたとの事。遺体はあのストラホフ修道院に今でも安置されてます。

聖シギスムントもブルゴーニュ王であり、ボヘミアとキリスト王国の守護者であり。
自分の一族の多くをキリスト教に改心させた方だそうです。こちらも遺体はカレル四世がプラハに移動させたとか。

大雑把に考えると、一応この三人もご当地聖人です。

16.聖ヴァーツラフ他 1853



次に当たるのは聖ボルジア・フランシスコ。
こちらも逆光で使える写真が。。。。あるにはあるんだけど、Gのカメラで撮った写真なのでアメブロのサイズ制限には勝てず掲載は諦める事にしました。。。
こちらもまたプラハに行った時に撮ってきます。



聖クリストフォル 1857年作

この彫刻、ちょっと格好良くて私好きです。
この人が迫害/殉教系聖人なんだけど、話が結構面白い。
3世紀頃に産まれた「力の強い巨人」だった彼(レプロブスが本名)は、一番強い人に仕えたかったそうです。
なので先ずは強いと言えば王様!と言う事でリキアの王様の家来に。
ところがある日悪魔が現れたとき王様が怖がっているのをみて、強い方の悪魔にまずは乗り換え。
今度は悪魔に仕えていたんだけど、悪魔は木の十字架はかならず迂回して通る事に疑問をもち、悪魔に聞いてみると「イエス・キリストの象徴は怖いから。。」との事。
悪魔はキリストより弱い事が判明したので、クリストフォルはキリストを探しに行きます。
が、どうやっても見つからない。そこで砂漠の世捨て人に聞いてみたら祈りと精進でしか見つからないとのたまう。あまり頭は良くなかった彼は理解できなかったのだけれど、世捨て人はとりあえず川に行って弱い人を運んであげれば神様に仕えた事になるとアドバイスします。
そこでクリストフォルは無償で川を渡る人に尽くす事に。
そんなある日、小さい男の子を渡していたとき、歩けば歩く程男の子の重みが増して行く事に気付きます。一歩一歩ずんずん重くなる幼児。。。これはただ事では無いと思ったクリストフォルは彼に何物かと訪ねるとなんと探していた「イエス・キリスト」でした。世界中の人の罪を背負っているから重いんだそうです。それでもクリストフォルは対岸迄彼を送り届け、祝福とともに「クリストフォル(キリストを背負ったもの)」と言う名前を頂きます。
この後色々あって奇跡を起こしたり宣教していたりしたら、その土地の王様に脅威とみなされ斬首されてしまったそうです。

聖人の話、こういうのは好きだな。
むしろファンタジー。(日本昔話にも似たようなのあったし。。)
車・巡礼・商人・船人・荷運び人なんかの守護神。更に強さにあやかって、12世紀頃ペストが流行した時は彼の絵を外壁に掲げるのが流行ったそうです。

18.聖クリストフォル 1857



洗礼者ヨハネ 1857年作
この人はもう言わずもがなで、説明する必要も無い気がするんだけど。
聖母マリアの親戚だったエリザベト(結構お年寄り)から産まれ、キリストに洗礼を施したあともろもろあって、サロメに首を要求されて亡くなったあの人です。
聖母マリアはガブリエルから受胎告知を受けた時に、あのお年寄りのエリザベトも妊娠六ヶ月だよーと知らされしばらくお世話しに行ってます。産まれる前から色々キリストと関係のあった人なんですね。
サロメの話は子どもの頃オスカーワイルドの戯曲を読んだのでそれが印象的。
幾ら母親に「ヨハネの首をねだりなさい」って言われたからってそのまま頼むって有り得ない。。

19.洗礼者ヨハネ 1857



次はまた有名人。
教科書でおなじみのこの人です!
ザビエル

フランシスコ・ザビエル 1711年作

カッパ頭として知られる彼ですが、あれはハゲではなくて「トンスラ」と言うヘアスタイルです!望んでやっている事です。
実は頭頂部だけでなく下の方も剃っていて、頭全体を使ってキリスト殉教時に被されたいばらの冠を表しているそうですが、実は当時も評判がイマイチですぐ廃れたスタイルだとか。
つまりザビエルは「トンスラブーム」があった事を後世に伝えた偉人でもありますね。(実はザビエルはトンスラ頭じゃなかった説も。。。)
ちなみにこの人は日本に始めてキリスト教と「メガネ」を持ち込んだ人です。

今更そんなに語る事も無い人だけど、一応まじめにまとめるとザビエルは今でも日本で大きな派閥を占める「イエズス会」の創設者の一人。
35歳の誕生日にリスボンを発って、モザンビークを経て最初の任地ゴアへ。そこで最初の日本人キリスト教信者が誕生します(ヤジロウさん。薩摩出身で人を殺めたためポルトガル船に密航してインドに至ったそうです)。この人はザビエルの日本での宣教の立役者。ヤジロウさんに出会わなければザビエルは日本に行かなかったんじゃないかと思う。
ヤジロウさんはキリスト教の知識があまりなかったから、最初は上手く訳せなくてザビエルは仏教の偉い人だと勘違いされてお寺に歓迎されたりしたそうです。

日本での宣教後、中国に行こうとしたけれど思い叶わず46歳の時上川島で亡くなりました。
翌年ゴアに移送されたんだけど、拝観時に右足の指2本を噛み切って逃走した女性がいたそうです。この指、彼女の死後きちんと戻って来たんだけどなんだか嫌な話ですね。
信仰ってナナメに行き過ぎるとこんな狂気じみた事も出来る様になってしまうんだなー。
ザビエルの右腕は死語50年経っても鮮血が迸る程フレッシュだったそうで、これは聖遺物として祀られてます。日本にも来ました。

この人は日本のキリスト教史にはあってはならない大切な人。
だけど日本史を考えると、この人が来なければ島原の乱も鎖国もなかったんだろうな、と思うとちょっとフクザツかも。

20.フランシスコ・ザビエル 1711

このザビエルの像は、インド人・東洋人・黒人・タタール人に背負われているのだけれど、この東洋人は日本人かな?中国には行けなかったわけだし。
一応見えなくもない?
この時代にちょんまげが(例えポニーテール的な髪型に変化していても)チェコに伝わっていた事が私にとっては衝撃的な事実でした。
ザビエル2



聖キュリロスと聖メトディウス 1938年作
ローマ時代の修道士兄弟。兄の聖メトディウスと弟の聖キュリロス。
兄はスラブ系の教会で人気の聖人。聖書をスラブ語へ翻訳した人です。
弟のキュリロスはキリル文字の考案者。(キリル文字の下地になったグラゴル文字を考案した人。)
チェコではないんだけど、通過がユーロになるまでスロバキアの50コロナ紙幣にはこの2人の肖像が使用されてました。
これは唯一1900年代に作成された新しい彫像です。

21.聖キュリロス他 1938年 最新



ナザレのヨセフ 1854年
聖母の夫、イエス・キリストの養父。大工さん。
立場上やっぱり守護するのは父親/労働者、そして「疑惑と躊躇に対して」。。だそうです。
普通に考えると婚約した若い女の子が既に妊娠してる、と言う状況で「疑惑と躊躇」がないとは思えない。それが神の子と信じて結婚したヨセフは偉いと思う。
この人は南ボヘミア生まれなので、ボヘミアの守護聖人に任命されたそうです。

22. 聖ヨセフ 1854



聖アンナと聖母子 1707年
女性的でキレイな彫刻。
聖アンナと聖母子のモチーフはレオナルド・ダ・ヴィンチのが有名だと思う。
聖アンナは聖母マリアの母、つまりキリストのおばあちゃんです。
この人も年を取る迄子どもを授からず、妊娠したとき告知に来た天使に産まれた子は神に捧げると約束したそうで、聖母マリアは3歳の時に両親が通っていたエルサレム神殿に奉献されてます。
つまり母の代からキリストのレジェンドは始まっていたわけですね。聖母マリアも選ばれて生を受けた存在だったんだ。すごいな。

ケベック州とブルターニュ、そして出産と鉱業の守護聖人です。
なんで鉱業なんだろう。

23.聖アンナと聖母子 1707



ピエタ 1859年
また有名なモチーフ、ピエタ。
十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリアとマグダラのマリア。間に立つ使徒ヨハネ。
このスポットは何度も洪水で流されたりしたそうで、一時は罪人を罰する為に使われた事もあるそうです。罪を認めない被告人は視聴の命令でここに連れて来られ手足を縛られた後川につけられます。無実だったら溺れないでしょ、という魔女裁判でもやるあれです。
1800年近くでもそんな事が行われてたと思うとちょっとぞっとする。
人間の文明なんて本当に最近築かれた物なんですね。

24.ピエタ 1859年



ブロンズの十字架
ここには14世紀から十字架が建っていたそうです。
何度も代替わりして、今の物は1861年作。聖母と聖ヨハネが十字架を見上げてます。
最初の物は木製の十字架。これは1419年の戦争で破壊されました。
次は1436年。また木製だったので天候により劣化。
1627年、はじめての金属導入。だけど十字架部分のみが金属でその他は木製だったためまた劣化。8年後に修復される。
1648年、まだここにあった金属の十字架。スウェーデン軍との戦いがあったとき、軍は旧市街市民のバリゲードに会い先に進めなかったそうだけどその地点がこの十字架だとか。
腹立ち紛れにキリストの頭は打ち落とされました。
今度はレオポルト一世が1657年に、木製十字架に金属製のキリスト像を吊るした物を取り寄せたけれど、十字架自体と聖母マリア/聖ヨハネの像は木製のまま。急遽両側の像も金属にしたけれど1861年に撤去されてその後は行方知れず。
そして1861年、ようやく今の姿になったそうです。

実際みた時に他のに較べてずいぶんシンプルな作りだなー、と思ったんだけど、他の像よりずっと試行錯誤と失敗を重ねて今の姿になった事がわかりちょっと感動しました。情熱を感じた。

25.聖カルヴァリ



聖バルバラ、聖マルガレータ、聖エリザベート 1707年
あえて英語読みにしてみると、バーバラとマーガレットとエリザベス。
有閑マダムが三人でお茶でもしてるような響きになりますね。

聖バルバラはすごい。父親が彼女を愛するあまり、男と宗教(3世紀頃にはキリスト教が禁じられていたので)から遠ざけようと塔の部屋に監禁!
リアルラプンツェルです。
しかしそんな幽閉生活でも何故かキリスト教に目覚めてしまうバーバラ。
ある日父が彼女の塔に二つの窓の或るバスルームを作る計画をしたとき、バーバラはこっそりそのデザインを三つの窓に変えます。それは三位一体を示す為だったとか。
これがわかった時父親は怒り狂って彼女を殺そうとします。その時岩が二つの裂けてバーバラは飲み込まれていったそうな。
実際彼女は神に保護されて生き延びるんだけど、羊飼いに密告されて捕えられてしまいます。(この羊飼い、後にイナゴにされます)
異端の宗教(キリスト今日)を信仰していた彼女は、お約束通り火あぶりに。しかし翌朝には神の奇跡で傷は癒されたそうです。結局最終的には剣により殉教。父親は稲妻に打たれて亡くなったそうな。
建築家/消防士/囚人なんかの守護聖人です。

聖マルガレータは実在性が非常に低いため典礼暦から外された、ファンタジーの世界の住人です。
バーバラと同じ時期に産まれたので、キリスト教は異端。父親は当時のアエデシウスと言う宗教の妻子だった為、幼い頃からキリスト教を信仰していた彼女は養母の元に送られて羊飼いをしていたそうです。そんな頃地方高官から求婚されたけれど当然断る彼女。
そのせいで数々の拷問を受けたけれどいちいち奇跡を起こして回避。
なかでも有名なのは、ドラゴンの姿をした悪魔に飲まれたのに、持っていた十字架でドラゴンの体内傷つけ無傷で出て来たと言う(ピノキオや一寸法師のような)奇跡。
ちなみにドラゴン好きのイギリス人の心の琴線に触れる部分があったようで、イングランドでは250の教会が彼女に捧げられているとか。
ジャンヌ・ダルクの幻に現れた事でも有名だそうです。

対して聖エリザベートは正真正銘実在してます。1207年ー1231年、ハンガリーに住んでいた王女です。
4歳で婚約、14歳で結婚。幸せな結婚生活のもと三児を設けたが姑は最悪。
6年の幸せな結婚の後夫が十字軍従軍中に亡くなり、5歳の長男を筆頭に3人の子持ちの未亡人となる若干20歳のエリザベート。彼女を疎んだ姑に城を追われてなんと豚小屋に住んでいました。
伯母に見つけ出されたその居城に移り住んだ後は再婚もする事も無く、病院を建てたりして病人・貧民の為に見を捧げたとか。
彼女は未亡人/病人/パン焼き職人/織師なんかの守護聖人だそうです。

産まれた年代も違うこの3人がどうして同じ台に据えられているのかはイマイチわからんが、なんとなく女子会後ちょっとした事で仲違いしちゃった女3人、と言うイメージがぬぐえない一体でした。

26.女子三人 1707



聖ドミニクとトマス・アキナスを招く聖母 1708年
聖ドミニクはドミニコ会の創設者。
ドミニクは聖母マリアからロザリオをもらい、ロザリオの祈りを広める約束を課せられたそうなのでその情景を彫像にしたんだと思います。

トマス・アキナスはドミニクの死後、ドミニコ会に入会した修道士。
両親は伯父が院長をしていた修道院を継ぐべく5歳からそこに預けられていたんだけど、大学を出たら親の反対を押し切ってドミニコ会に入会。ドミニコ会は産まれたばかりの修道会で古い教会制度への挑戦を機軸にしていたから前途有望な若者には魅力的だったんだろうね。
社長の息子が企業を継ぐべくお金をかけて一流大学まで出してもらったのに、急に先輩が建ち上げたベンチャー企業に入ります!と言って家を出て行く様なもんだね。
反対した家族は彼を連れ戻し軟禁したり若い女を連れて来て誘惑したりしたけれど彼の決心は固く、結局はドミニコ会に戻さざるを得なかったそうです。
神学者としてだけではなく、非常に優れた哲学者だった彼は、集大成として「神学大全」を書き下ろし、後世のキリスト教を導きました。

ちなみに彼を知る物が語ったところ、トマスは「非常に太った」「色黒」の「ハゲ気味」な男性だったとか。

27、聖母と聖ドミニク



聖イヴォ 1711年
ブルターニュの信心深い貴族の基に生まれ、幼い頃から「聖人になりなさい」と親に無茶を言われて来た彼。結局成せばなる!聖人になりました。
14歳の時にパリに出た後、神学/憲法/教会法を学びながら病院に通って患者の世話をしていたそうです。
晴れて司祭になると聖職判事に任命され、貧しい人々の事件を無料で引き受けたり自宅の近くに貧しい人の為の診療所を開いて世話をしたり。。
モットーにしていた「隣人を愛しなさい」を見事将来貫いた人です。
文句無しに素晴らしい人だと思う。
しかし今は「弁護士」の保護者。どうぞ悪徳弁護士は守護しないで下さい。お願いします。

28.聖イブ



最後の一体は、聖母と聖ベルナルド。1709年作
幼子イエス・キリストを抱いた聖母の左手側に跪くベルナルド。
右手には十字架やロンギヌスの槍等の受難の象徴、そして裏切りの象徴の鶏。
十字軍の勧誘演説で有名だから十字架なのかな?
シトー会の勢いを盛り返し、教会当時に大きな足跡を残した方だそうです。
教皇から与えられた二つ名は「甘蜜博士」

29.聖母と聖ベルナルド 1709年



これでカレル橋おわり。歩ききりました。
全く需要のないであろう聖人ストーリーを調べ始めたらそれが結構面白くて。
キリスト教は明らかに一神教なんだけど、聖人もある種「聖」ととらえると八百万の神様に共通した所もあるような気がして親近感がわきました。
それにしてもみんな突拍子もない人生を送った後に、結構地味なピンポイントの守護をしてるんですね。ほんと、過剰睡眠にまで守護聖人がいるとは考えた事も無かった。
カレル橋の聖人像のお陰で第三の目が開いた気がします。
ありがとう、プラハ。