今まで書いたことがなかった、高校受験~大学受験のお話しを、長々としたいと思います。
超絶長文、御覚悟!
中学(石川県金沢市)在籍時、県立は金沢泉丘、私立は星稜を受けようと思ってました。
泉丘は自宅から徒歩3分。
通っていた中学が徒歩15分だったので、もうここしかない!くらいに思ってました。
星稜は松井秀喜さんの母校です。
野球やサッカーでご存知の方も多いと思います。
星稜へは80番のバスでdoor to door。
時間はかかりますが、私には魅力的でした。
泉丘と星稜、どちらも共学です。
しかし父の転勤に伴い、宮城県の高校に進学することが中3の夏に決まりました。
宮城県は当時男女別学。
夏休みに宮城一女・宮城三女・仙台育英(宮城野校舎)を見学して帰ったのですが、いまいちイメージがわきませんでした。
金沢の塾で資料を集めてもらうと、県立では宮城一女か泉館山(共学)が妥当と言われました。
一女の方が泉館山よりもレベルが上で、大学の指定校推薦も多かったそうですが、
「一女じゃ甲子園に行けません!!」
「女子校、嫌です!!」
と反論してました。
ただ、学区外から受験するには事前申請が必要だったので、一女に申請を出しました。
成績がふるわなかったテストのあとの三者面談で、
「この偏差値じゃ一女、危ないですね」
と担任の先生に言われました。
「偏差値で判断?宮城のこと何も知らんくせに!!」
とふてくされて勉強してると、当時小5の妹がキャッキャキャッキャしてるのでブチ切れました。
苦手な数学の勉強がはかどらなかったせいもあり、モノ投げて荒れたんじゃなかったかと記憶しております。
塾の冬期講習はその日からボイコット。
心配しているのか、毎日塾の先生から電話があり、ウンザリ。
自習もやめて、ずーっとぼーっとしてました。
それを見かねた母親が、受験予定校の入試問題をひとりで解き始めても無視してました。
仙台に赴任していた父親から「一女を受けて欲しい」と手紙が届きましたが、すぐさま破いてゴミ箱へ。
でも、高校に進学して東京外大の英文科に行きたいと思っていたので、「国際教育が盛んな仙台育英には合格したい!」と一念発起。
なんとか入試を受ける体制を整えました。
試験会場は宮城野校舎ではなく、さらに北にある多賀城校舎でした。
入試前日、多賀城校舎に行ってみると、目の前にはレンガ造り風の大変綺麗な校舎が!
「絶対ここ受かって通う!」
と誓って、特進コースに合格しました。
そのあと、母親が「加藤利吉記念奨学生採用のお知らせ」を隠していたことが発覚。
これにも相当怒りました。
普通、奨学生になるには一般入試より先に行われる「奨学生試験」に合格することが必要です。
奨学生試験の問題に全問正解すると、慶應義塾の普通部に入れると言われているほど、難しい試験なんだそうです。
なんて名誉なお話!と思いましたが、母親には、
「勉強、きっと大変だよ」
「部活なんてやってる暇ないよ」
とさんざん言われました。
勿論無視です。
かくて特進コースに奨学生として籍を置くことと相成りました。
中学の先生も、塾の先生も、育英の先生も、
「東大か東北大、もしくは早慶上智へ」
と思っていらっしゃったようですが、
東大→無理。
東北大→そんなのあるんだ、知らなかった。
早慶→興味ない。
上智→凄い憧れ。
と思ってました。
今思うと、「皆様、本当に本当にごめんなさい!」と平謝りしなければならないですよね……。
特進の子はみんな、中学でトップをキープしていた子たちばかり。
私みたいなテキトーな子はいませんでした。
部活は基本禁止でしたが、吹奏楽部に初心者で入り、勉強も頑張っていくつもりでした。
クラスでは席次が良かったというだけで室長に選ばれて、それもプレッシャーでした。
持って帰るのを忘れたロッカーの鍵に、噛み終わったガムが付けられて机の中に置かれていたことがあり、泣くのをこらえてこっそり水道で洗いました。
父親は仕事一筋、母親は旧友との再会に喜び、妹は上手く仙台に適応していく……私だけ取り残されていきました。
金沢に帰りたい、でも帰れない。
勉強の悩みも、部活の悩みも話せるのは金沢の親友のみ。
みんな頑張ってるから、私も頑張ろう。
そうやって、寂しさを埋めるように手紙や日記を書きまくって、週末には親友のたこっぺ姉様に長電話をし、なんとか頑張ってました。
そして迎えた初めての定期テスト。
席次は落としましたが、英語も数学も上位クラスを維持できました。
「部活やってるのに凄いね~!」
という素直な友達の言葉が、嫉妬にしか聞こえませんでした。
その後、進路に関しては
「英語だけ出来てもしょうがない」
「翻訳家?良い大学出ないと無理」
「小説家?バカ言うのもほどほどにしろ」
と言われ、勉強する意味がわからなくなりました。
不登校になったのは、こんな経緯からです。
そんなとき、励ましてくれたのは保健体育のM先生。
保健室で泣いていたわたしの話を聴いて頂き、テストの答案には「人生いろいろあるけど、頑張れ!」とありました。
また、私を心理学に導いてくれたのは日本史のS先生。
「縄文人の精神構造は、今の人間の精神年齢で言うと3歳程度。あらゆるモノに魂が宿っていると考えていた」
というお話から、心理学に興味がわきました。
専攻を決めたら、あとは大学と受験科目選び。
日本史と化学を選択して、数学はセンターのみと決めました。
あと、英語教員の資格が欲しいと思い、広島大学の教育学部・心理学科を第1志望にしました。
私立は、学外交流が盛んな京都へと思い、立命館大学の文学部哲学科(心理学専攻)にしました。
しかしセンター試験で失敗、立命館大学も玉砕して、3日くらい泣き暮らしたら涙が出なくなりました。
そして、両親に許可をもらい、広島にひとり傷心旅行へ。
初めて愛媛の対岸から瀬戸内海を眺め、宮島では日本史の教科書に記述のある「平家納経」をガラス越しにみることが出来ました。
そして、宮島で出逢ったドイツの方と英語でしか話せなかったことをきっかけに、ドイツ語を勉強しようと思いました。
仙台に帰って来ると、吹奏楽部の後輩から、
「追いコン、来ませんか?」
とお誘いが。
追いコン=追い出しコンパ、です。
先輩としての責任を放棄したのに、後輩たちは優しかったです。
そんな後輩のひとり・Sくんが中心となって部活の本拠を宮城野校舎から多賀城校舎に移しました。
Sくんは育英に就職し、今の吹奏楽部の指導にあたり、部活史上初めての全国大会出場目指して燃えています。
卒業式の式次第にある私の志望校が立命館大学だったため、同期のM(トランペット)には、
「ナイナイの岡村の後輩だね、おめでとう」
と言われて即座に否定。
後輩には、
「浪人してどこ受けるんですか?」
と訊かれたので、素直に広島大学と答えておきました。
お腹の足しにはならなかったようですが、参考にはしてくれたみたいです。
その後浪人し、代々木ゼミナールで出逢ったのが、今井宏先生(英語)。
授業が分かりやすいうえ、授業内のフリートークは大爆笑!
長文速読の超絶技巧「パラグラフリーディング」の師匠です。
代ゼミの同期では私ひとり今井派(というか狂信者)だったので、
「今日今井先生の授業あったのに、何で休んだの?」
とよく言われてました。
一緒に授業を受けてた当時の彼氏は今井先生の話題についていけなかった模様で、
「授業中、凄い笑ってたね」
と呆れ顔でした。
現在、今井先生は東進に在籍されていますが、相変わらず爆笑必至の授業だそうです。
その今井先生が、2/16(私の誕生日!)に松山にいらっしゃるそうなので、お手紙を差し上げようと画策しております。
詳しくはブログ(
http://ameblo.jp/imai-hiroshi)へ。
ん??
結局失敗しまくったせいで今生きてられるのか、となんともつまらないサゲで、今日はお開きです。
皆様、ご自愛くださいませね。
最後までおつきあい頂き、誠に感謝です、ごきげんよう。